今月の読本(特別編)最後という名の未来を願った名著「職漁師伝」を経て、その一冊は今に続く姿を刻み込み文庫へと『溪語り・山語り』(戸門秀雄 山と溪谷社)

今月の読本(特別編)最後という名の未来を願った名著「職漁師伝」を経て、その一冊は今に続く姿を刻み込み文庫へと『溪語り・山語り』(戸門秀雄 山と溪谷社)

本ページでもご紹介している、今やほとんど失われてしまった、川をその生業とする人々の語る物語を、同じく川をフィールドとする釣り人のとして、同じ視線で、同じ河畔、溪に共に佇みながら、丹念に聞き取っていった記録と貴重な写真で綴った一冊「職漁師伝」(農山漁村文化協会(農文協))。その原点ともなった、当時の雑誌連載記事を一冊に纏めた書籍がありました。

著者が多くの原稿を出稿されていた山と溪谷社から丁度平成と年号が改まった後、バブル崩壊の足音が忍び寄ってきた平成二年(1990年)に刊行された『溪語り・山語り』(戸門秀雄)が、遂に新生ヤマケイを打ち立てる起点となったヤマケイ文庫に収蔵される事になりました。

編集者の方もこのように推されている一冊。山に纏わる物語や、山村、そして川、渓流釣りに関する書籍は数多ありますが、実際に一緒に溪を歩きながら、更には山の中に掛けられた小屋での語り合いを記録された物語は、民俗学を掲げる方々が一瞬で霞んでしまう程の、山で、川で暮らす人々が工夫を凝らした道具に対する知見と豊かな説話を積み重ねており、ニュートラルな筆致と併せて、他に追従を許さない独特の著述感「日本の溪と山を語る」世界を築き上げています。

本書が更に嬉しい点は、「職漁師伝」では表題の関係上割愛された、広範な川と山に関わりながら生きる人々の物語が語られる点。上田の伝承毛鉤に相木村の計算漁、伊那谷の虫踏み、そして井伏鱒二と下部の床屋さんの物語。一度聞いてみたかった、地元に残る川の物語が続々と描かれていて、多少なりとも地理感のある方であれば、活字を追うだけで、その風景が浮かび上がって来るようです。

更には、尾瀬の風物詩となった背負子さん発祥の物語に、カーボン竿を敢えて手中にする竿師・正勇作氏の苦闘、そして今最も話題となっている熊たちと山の人々の物語。山と川に纏わる実に広範な物語が描かれていきます。

このように書くと、30年近く前に刊行された本を通して、単にノスタルジーに浸るための一冊にも見えてしまいますが、著者の筆致の素晴らしい点は、ノスタルジーに留まらず、その先への想いを込めて、実情を述べていく点。著者が最も気に掛け続けている、最初に取り上げられる雑魚川と広範な奥志賀の山中で活躍した、往年の職漁師の系譜を継ぐ人々が先頭を走る渓流保護の実情や、魚止めの滝の上に住まうイワナ、そして山女と名のつく山村の川で交じり合うヤマメとアマゴ。会津も更に奥地の檜枝岐、そこらか更に渓流の奥深くに構えた山椒魚獲りの燻製小屋にまで大学の研究者と呼ばれる方々が押し掛けて大量の山椒魚の燻製を入手していく(発育不良の治療薬になるらしい)という、山里の物語が、最先端の話題にも繋がる事を示していきます。

そのスタンスは文庫化に当たっても貫かれ、全15本のテーマで語られる全てのお話について、数行ずつとはいえ最新の動向を載せいています。その中で、漁の規模が小さくなったり人が入れ替わりつつも、殆どのテーマに於いて30年近くを経た今でも、人々と山と川との関わり合いが続いている事を確認していく点は、本書が正に今に繋がる一冊である事を雄弁に語るかのようです。

山と川の流れがある限り、人がその場から去らない限りきっと続いていく物語の、失われようとする一面と、今もしっかりと息づいていることを再確認させてくれる本書、もし少しでも山や川に思い出がある方であれば、きっと楽しく、そしてちょっと懐かしくもその姿に、彼らの生き様に、今に力強く生き続けている物語に励まされる一冊かもしれません。

溪語り・山語りと職漁師伝

<おまけ>

本ページより関連する書籍のご紹介。

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今月の読本「内山節著作集2 山里の釣りから」(内山節 農山漁村文化協会)川面から伝わる山里とユートピアとファンタジー、都会と労働と経済を結ぶ一筋の糸

今月の読本「内山節著作集2 山里の釣りから」(内山節 農山漁村文化協会)川面から伝わる山里とユートピアとファンタジー、都会と労働と経済を結ぶ一筋の糸

読書がなかなか進まなかった2月。

少しずつ読んでいた本の中から、いつもとはちょっと違った一冊を。

昨年から刊行の始まった、在野の哲学者(現在は立教大学の特任?教授を務める)である、内山哲氏の著作集より、初期の作品、しかも氏の著作の転機となった作品たちを収めた一冊です(地元の本屋さんで開催されていた農文協フェアで偶然見つけました)。

内山節著作集2 山里の釣りから内山節著作集2 山里の釣りから」(内山節 農山漁村文化協会)です。

まず、哲学者の著作集がなぜ農業書専門出版社から刊行されたのか、疑問を持たれるかもしれません。しかしながら、氏の経歴と本書をお読みいただくと、なるほど尤もだと思われるのではないでしょうか。

学園闘争華やかなりし頃のマルクス主義闘士としての経歴を持ち、それ故でしょうか、在野の哲学者として活動を続けてきた氏が第二の生活の拠点として都会から移り住む(正確には二重生活)きっかけとなった、山里の釣り(氏は渓流釣りという言葉を嫌うため、この特徴的な表現を用います)とその居となる群馬県上野村、神流川流域での生活。その生活から導き出された、山里の暮らしから見つめ直す労働と経済という、氏の現在の哲学の基礎となる思想が育まれた山村。氏は東京の生まれでもあり、所謂民芸や、農村芸術家といった生粋の農山村の生活から発生した文化活動とは大きく異なるのですが、その哲学はまぎれもなく、山里に根差そうとしている点からも、本版元の作品に相応しい著作集なのかもしれません。

そのような経緯を持つ本書は、表題にある様な釣りのお話が全面的に語られる訳ではありません。氏の分類によるところの釣りの本とは、第一に釣りの実用書、第二に交遊録、第三に釣りの哲学であると述べており、現在の釣りの本の多くは第三の哲学に近い書籍(ウォルトンの釣魚大全を挙げて)ではあるが、その境地に至るには貴族的退廃に通じる、釣りに人生を捧げるような刹那的な生き方をしなければ得られないと述べています。サラリーマン生活を続けるものとしては、本書の記述は充分に刹那的なのですが、それでもマルクス主義労働論を論じる立場からは、そのような視点は決して容認できないというスタンスのようです(その想いは、山里には自律的な経済が存在しえない事への冷徹な眼差しに繋がります)。

その代りとして、本書では周囲に広がる山里における生活風景を織り交ぜながら、釣りを通した山里の生活とその社会性、その根底に流れる氏の労働論との整合を論じていきます。その結果、本書には現在活発な議論がなされている地方回帰や、山里での生活論、自家消費的な小さな経済サイクルに対する検証(昨年、大ブレークした本もありましたね)への疑念から、都市からの人の呼び込みとその反動といった、山里を巡る論点の全てが備わる事になります。更には、これらの活動の一部が、都市生活者の山村生活者への価値観の押し売りであるとの厳しい指摘も備えられています。その議論の先見性は、本書に収められている作品の最初の掲載(毎日新聞社の雑誌、エコノミストの連載)が今から40年近く前になる1970年代末である事からも伺えます。

本書は著者のその思想と視点、著述の変遷を表すように、時系列を追って変化が見られることが判ります。1章では依然として、山里を訪れた釣り師としての視点で議論が進められていきますが、その筆致は哲学者でマルクス主義闘士としての過去の片鱗を見せる、少々無骨で直情的な内容に終始します。2章に至ると、その視点は少しずつ現在の拠点である上野村、そして神流川に移っていきますが不安定な筆致が続きます。釣り堀化された渓流域への嘆きや、釣趣の変化といった釣り師らしい語りもありますが、時にその物語は、源流域の物語から急に現在の利根川の河口に話を飛ばしてみたり、ダムや堰によって分断される魚たちや人々の生活の物語が唐突に織り交ぜられていきます。河口から遡上する物語も、歴史的な利根川の変遷から芭蕉の物語に通じてみたり、流域ごとの釣技と釣魚種に言及してみたりと、エッセイとも紀行文とも取れる内容が散発的に語られていくため、散文を越えて、皮肉交じりに知識力で読者を振り回すような感じすら受けます。

そして、本書の中核を成す第3章である「山村生活譜」。著者の視点は神流川の流域に点在する上野村の集落を起点とした筆致に収斂していきます。その視点は、これまでの釣魚としての山女魚、岩魚から、山里の生活の象徴としての川の魚達への視点へと移っていきます。語られる内容も、山里を起点にした生活、そして氏の研究テーマである労働と社会性への話へと移っていきます。

マルクス主義的な労働者の幸福論を下敷きにした検証と山里の生活の対比から導き出された氏の議論は、一方では労働幸福論的なユートピア発想を追及している点では楽観的すぎる嫌いもあります(勤勉な…と、いちいち皮肉を込める信州人、特に上野村の山向こうに広がる川上村の大規模集積農業に対する、氏のないまぜな心象に顕著に伺えます)。その一方で、現在の山里回帰における大きな課題となっている経済性の確保について、ごく小規模な経済活動の集積による持続可能な経済活動はあり得ない事を明確に導き出しています。近世以前から、米作が望める農村ならともかく、主食が得られない山里における自立した生活などは存在しえず、常に里との経済交流の上で生活が成立していたことを明確に示しています。そして、経済活動の軸となっているのが、山を越えていく峠であり、里に下りていく川。皮肉なことに、この里との繋がりを示す川を資源(水資源)として都会に提供することによって、流れとしての川による繋がりを失い、逆にそれによって生じた公共投資によって山里の現金収入が得られている事も明らかにしていきます。

そこには、単純な山里ユートピア論ではなく、都市に隷従する山里の姿から、本来はそれに抗する必要もなく、自主的な労働を基盤とした生活を有する山里の、自立することは叶わないが、対等な立場での経済性を有した社会生活の追及という、マルクス主義経済学を規範とする氏の哲学の深化が見受けられます。その深化の先に現在の山里復興論が繋がるのか。既に老境の域に達した著者は、冒頭の解題でその風潮を微笑ましそうに語るのみで、真意を述べてはくれません(氏の議論の先にはもちろん哲学的な「ある」帰結が用意されている筈ですが、本書では語られません)。

本書の後半部分は、前半と打って変わって釣り師としての氏の小作品が数点掲載されています。エッセイとして書かれたその作品には背景として社会性を伺える内容も見えますが、その記述は如何にもファンタジックで、哲学者の著述とは俄かに思えない事もあります。しかしながら、良く考えれてみれば現代において哲学者程にイメージとは裏腹に(日本に於いて)社会的に浮遊な存在はない筈。氏が釣り師の哲学をその存在形態から否定しているにも拘わらず、氏自身が哲学者という社会的に極めてファンタジックな存在故に、このような著作に繋がったのかもしれません。

<おまけ>

本書に関連する書籍のうち、本ページで扱っている作品をご紹介。

今月の読本「職漁師伝」(戸門秀雄 農山漁村文化協会)峰々と渓々が繋ぐ人の営み

今月の読本「職漁師伝」(戸門秀雄 農山漁村文化協会)峰々と渓々が繋ぐ人の営み

書きかけの論文がなかなか進まない中、気晴らしに何か軽めの本を読もうと入った何時もの書店。こういう時に限って気に入った一冊が見つからずに店内を徘徊するうちにふと農業、園芸書のコーナーで見かけた一冊。

余程気に入らなければなかなか手に取らない価格(2600円)に若干躊躇しながらも、立ち読み大好き人間ならお分かりかと思いますが、咄嗟に感じる「これは面白そうだ」というオーラに負けて買って帰って読み始めたら、これが大正解だったのです。

今回の一冊は、その存在は知っていましたが、まずは手に取る事も買う事もなかったであろう版元である「農山漁村文化協会(農文協)」から刊行された、版元にしては実に珍しい一般向けの書物「職漁師伝」(戸門秀雄・著)をご紹介します。

職漁師伝私自身、魚関係は大好きでも、残念ながら渓流釣りは嗜みませんので全く存じ上げませんでしたが、著者は、釣り関係ではかなり有名な方のようで、釣り具メーカーのフィールドテスターやその筋の出版社から刊行される書籍や雑誌に多数寄稿されていらっしゃいます。

本書もそれら出版社の一つである山と渓谷社の雑誌に寄稿された連載記事を基底においていますが、一部加筆と冒頭の部分に新たな章を書き加えて再構成された内容となっています。連載自体が1990年代と少々古いため、現状と合致していない点もあるようですが、必要な加筆、補正は加えられていますので、別段気になるようなことはありません。

それよりも、もはや鬼籍に入られてしまった方々に対する貴重な取材結果を散逸する前にこのような形で一冊として出版されたこと自体、素晴らしい事かと思います(それだけ刊行までには御苦労もあったかとは思いますが)。本来であれば、連載元であった山と渓谷社より刊行されたもしれない内容かとは思いますが、あとがきで著者が述べているように農文協より刊行されたことで、博物学や民俗学といったジャンルの視点が加わって編纂されたことは、大正解だったのではないかと思います。

本書は複数の章に分かれていますが、元が連載記事らしく各章の構成はほぼ同じです。ある渓を生活の基盤として、漁を以て生活の糧とした方々の漁を始めるにあたってのいきさつ(祖先が定着した由来も含みます)、その職漁の実態、漁場の取り決め、販売先や売り方、収入、副業、現在(取材当時)のご本人の暮らしぶりをそれぞれのエピソードに添えて語っていきます。

生活の基盤となった渓流とその生活圏を判り易く紹介したイラストマップ(今回、書籍化のために新規に作成)、釣り雑誌連載に相応しいタックルの紹介、そして民俗学的にも貴重なそれぞれの渓で伝統的に使われてきた美しい毛バリの紹介(巻頭カラーには、ほかにも民芸として貴重な写真が豊富に掲載されています)や魚篭の解説…これだけの内容を揃えていれば、釣り愛好家の為だけに出版するのは勿体ない話で、(手に取りにくい弱点はあるのですが)山村文化に造詣の深い農文協の刊行に相応しい内容となっています。

このように書くと、ちょっと硬めの内容なのかなと気になさるかもしれませんが、その辺りは流石に数々の一般向け書籍を出されていらっしゃる著者ですので、肩肘張らずに気楽に読むことが出来る内容になっています。

文中で紹介されてく職漁師の方々と渓流釣り師としても著名な著者との親密な関係から得られたであろう貴重なお話は、奇しくもほとんど同じようなストーリーに彩られている事に驚かされます。

  • 現在の仕事が山小屋や民宿であれば、その初めは山仕事の為に作られた作業小屋から出発していること
  • 渓で職漁師が成り立った理由がいずれも、温泉であったり料亭であったりという山間部では貴重な新鮮な魚を求める「お客様」が居たこと。そして、その収入は山村においてはかなり高額であり、職漁師として生きていくきっかけを与えてくれたこと
  • そもそも漁場自体にかなり厳密な「テリトリー」が設けられており、その中でルールを決めて漁を続けることで漁場の安定と資源の枯渇を抑えていた事(そして魚止めより上流にできた多くの釣り場は自然に形成された訳ではなく、彼らが移植した魚たちの子孫が息づいているという重要な事実)
  • 一見、険しい山脈によって遮られて、別々の物語を織りなしているように思える各山々、渓流の物語が実は当時の人々の旺盛な行動力により険しい山脈を越えて人の繋がりによって密接に結びついている事
  • そして、最も重要なのは釣りの達人たる彼らは山仕事でも、手仕事でも、猟でも一流の腕前を以て、家族を養い、山村の生活を支えていたという厳然たる事実

本書は単なる渓流釣り名人の釣技を披見したり、山村の厳しい生活実態の悲惨さや苦労話を訴えている内容ではありません。逆にユートピア的な物語もありませんし、極端な自然保護や環境破壊に警鐘を鳴らすための内容でもありません。

明治から平成の初めにかけて、実際に渓を生活の糧として生きてきた人々の物語を、その心意気が最も理解できるであろう「釣り人」の視点によって描き出されている点が読んでいて実に心地よく、落ち着いた筆致を介して、往年の名人と謂われた方々が生き抜いてきた渓流、山村の雰囲気やその生き様にほんの少しだけ垣間見せてもらえたような気がする一冊です。

ネットでは決して得られない、本屋さんでならではの「偶然のめぐり合わせ」に感謝をしながら。

<おまけ>

本書は奥志賀から始まって秋山郷、草津、嬬恋、奥多摩、尾瀬、銀山平、神流川、乗鞍、奥飛騨、最後に飯能と続いていきます。

お判りになる方はニヤッとされるかもしれませんが、いずれも信州をぐるっと廻っていくと辿りつける場所ばかりです。私にとっても地理感が充分にある場所だったりしますので、読みながらいちいち頷きまくりとなっていました(銀山平以外は全部行った事があるような)。

特に、奥志賀と秋山郷、草津、嬬恋までは当然のように繋がりがあったでしょうが、良く考えれば、秋山郷まで来ればもう東は越後の山々なので銀山平も、銀山平まで来れば尾瀬も当時の山人には指呼の間だったのかと思います(マタギとのつながりと来るとスケールが大きくなりますが)。

もちろん奥多摩と神流川、飯能は同じ秩父山塊で繋がっていますし、奥飛騨と乗鞍も野麦峠越しで繋がっていますね。乗鞍から奥志賀に繋がるかもしれないという話はちょっとびっくりですが。

現代人から見ると、車が行き来できないほどの険しい山を挟んでの交流はないのではないかと勝手に想像してしまいますが、実際には人の足で行き来できる範疇であれば、たとえ山を挟んでも交流はあるものなんだと考えを改めさせられるところです。

野反湖から秋山郷を望む緑に光る流れを