天正壬午の乱対峙の地は静かな農村公園として(須玉の若神子城跡)

天正壬午の乱対峙の地は静かな農村公園として(須玉の若神子城跡)

引き続き好調な視聴率をマークし続けている今年の大河ドラマ、真田丸。

韮崎の新府城からスタートした物語は、東信、吾妻、沼田、そして川中島と北へ東へと歩みを進めてきましたが、ここで再び南に転じて、北から南を目指す北条氏と南から北上を図る徳川氏が甲斐、南信濃で激突する、天正壬午の乱に突入していきます。

このシリーズでたぶん山梨が舞台になるのは最後?(いや、実際には諏訪辺りでの話までで終わってしまうかも)かもしれませんので、ここで両者が対峙した七里岩の東の縁、前回ご紹介した新府城に布陣した徳川家康に対して北条氏直が布陣した若神子城跡をご紹介します。

IMG20160306141645まず、この若神子城跡、入口が非常に判り辛い、須玉から国道141号線を暫く北上して、長坂方面に上がっていく県道28号線(北杜八ヶ岳公園線)の西川橋西詰交差点からヘアピンカーブを数回重ねた後、突如左に見えてくる「ふるさと公園」の看板が入口です。

IMG20160306145154クルマの入口の手前に、人が入れる入口もあるのですが、入口を示す杭が汚れきっているので、気が付く方は殆どいないでしょう。

IMG20160306145248そのまま登っていくと、入口に繋がっていますが、本来はこの石垣の左側に虎口の跡があるらしいのですが、把握する事は出来ません。

IMG2016030614181510台ほどの車が止められるスペースが用意されている入口。

うらぶれた公園といった感じで、城跡の雰囲気は感じられません。

IMG20160306145057城跡全体がふるさと公園という名称の公園として整備されています。

若神子城跡解説板解説板のアップ、画像をクリックして頂くとフルサイズで表示されます。

IMG20160306144853駐車場横の斜面側。枯葉がびっしりと埋まっている部分に溝が切られており、フェンスの向こうの斜面との間に一段、段差が設けられている事が判ります(足を取られて、危うく捻挫しそうになりました)。右手の畝との組み合わせて、搦め手を構成していたと考えられています。

IMG20160306153304若神子城跡の解説板です。

何故か、烽火台について積極的に訴えようとしている文面が気に掛かります。

IMG20160306144304ゲートボール場として整備された跡を進んでいくと、煉瓦敷きの広い広場に出て来ます。

此処が主郭のように見えますが、残念ながら違うようです。

生け垣の向こうに少し小高くなった畝の跡のような地形が見えます。

IMG20160306144355正面の生け垣、左側の中にあるのがこの城跡でほぼ唯一の痕跡、薬研堀の跡とみられる遺構です。

三連の畝が見えています。芝生になっているので、夏場になれば、美しい凹凸が認められるようになる筈です。

IMG20160306144204右側の生け垣も薬研堀の跡らしいのですが、こちらには石で丸く囲った跡が残っています。

IMG20160306144432薬研堀の解説板です。

北条氏が陣を構えた場所、しかも北条流築城術の流れを汲む遺構の可能性が高いのに、何故か解説板には他の城での徳川家康と武田家遺臣活躍の話題が書かれています。

IMG20160306142435気を取り直して、もう一つの看板へ。

こちらも「烽火」をテーマにしたい想いが充満しています。

あ、素直なスマホをお持ちの方は、右のマップからQRコードで北杜市内各地の山城、城郭跡解説を見る事が出来ますよ(たぶん)。

IMG20160306142549と、いう訳で、復元された教育用に設けられた摸擬烽火台。

足元には須玉の街並みと、遠くには茅ヶ岳の美しい裾野を望む事が出来ます。

IMG20160306142807摸擬烽火台から主郭に向かう小路。

道を横切り、切り取るように溝が左右から伸びているのが判ります。

IMG20160306144005主郭から西側を望みますが、眺望が取れません。

木立の向こうに見える木々との間に、もう一つ谷筋が伸びていて、この主郭が両方の谷に囲まれて搦め手から伸びている事が判ります。

IMG20160306142915主郭にある解説板。文面は正面にあった看板と同じで、此処でも烽火の話が出て来ます。

IMG20160306143108主郭からは、谷筋に向かって急に道が下っていきます。

一応、通行に邪魔になる木は伐採されていますが、足元はかなり悪いです。

IMG20160306143157ずりずりと足場の悪い道を下がっていくと、小さな休憩所の先に大きな岩が見えてきます。

IMG20160306143524大手の虎口と見られる、宿借石と呼ばれる石が門型に構えています。

小路はこの石を潜るように寄せ手側に下っていきます。

IMG20160306143731寄せ手側から望む、宿借石に上る通路。

麓側の入口から宿借石迄は坂は急ですが、比較的整備された遊歩道になっています。

IMG20160306145507山城跡というより、地元高齢者向けの施設であったり、山梨県在住者に向けた学習施設としての側面が強い若神子城跡。

上着を着ていなくても少し気分が悪くなるくらい暖かな日曜の午後。時折雨が降る、誰もいない山中を巡りながらふと目をやると、入口側の畑の先には既に満開の花が。

この山間の土地を離れて、大阪に向かって進んでいく物語の中で、武田の事は残っても甲斐はすっかり忘れ去られていく事でしょうが、それでもこの地には確実に春が近づいて来ているようです。

 

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好評を以て迎えられた大河ドラマ「真田丸」の船出を祝して、最初の舞台へご案内(韮崎、新府城跡)

好評を以て迎えられた大河ドラマ「真田丸」の船出を祝して、最初の舞台へご案内(韮崎、新府城跡)

先週からスタートした、大河ドラマ「真田丸」。久々の本格時代劇を期待された方も、ここ最近の劇画的な作りの大河ドラマの新たな進歩に期待された方も、双方から好評を以て迎えられたようですね。

そして、物語の始まりの舞台となった新府城。

実は、実際の新府城を使用してロケーションが行われていた事をご存知でしょうか。

こちらに、韮崎市観光協会さんの紹介記事のリンクを掲載しておきますが、遥か400年以上前の事柄にも関わらず、まさにその現場でロケをするという力の入れよう。その想いを是非汲み取って頂きたく、何時もはスルーしている新府城に皆様をご案内させて頂きます(ご注意、私は城郭プロではありませんので、誤謬等は平にご容赦を。ご指摘は大歓迎です)。

WP_20160117_13_57_59_Pro七里岩ライン沿いの駐車場から眺める新府城(左)と解説の看板。

奥の方には南アルプスの前座、鳳凰三山を望みます。

WP_20160117_13_58_58_Pro道路の反対側には、山からせり出す形で作られた出構が見えています(手前と、奥の2か所)。

WP_20160117_15_15_40_Pro駐車場を少し下ると、入口の看板が出ています。

さて、入ってみましょう(要注意andお願い : 駐車場から入口まで、歩道が無いカーブの道路を歩くことになります、七里岩ラインは地元の皆様にとって主要な交通路であり、車のスピードもかなり出ていますので、くれぐれも車の動きには注意して歩いて下さい)。

新府城跡入口新府城跡の入口です。

WP_20160117_14_02_20_Pro2解説の看板です。

入口から直登する階段は、後日作られた山頂の神社へ登る階段です。

城郭ファンの皆様は、もう少し下にある、大手から入りましょう。

WP_20160117_14_07_38_Pro上りきった階段の上から、七里岩ラインを望みます。

結構急な階段ですので、健脚な方以外は、前述の大手から緩やかに上るルートか、階段に沿ってジグザグに登っていく女坂をご利用された方が良いと思います。

WP_20160117_14_08_56_Pro正面に神社が見えてきますが、こちらは後に作られたものです。

WP_20160117_14_21_11_Pro神社の裏に廻ると、小学校の校庭程の広い空間が広がります。

WP_20160117_14_22_36_ProWP_20160117_14_22_53_Pro

新府城本丸跡です。

韮崎市が設置したこちらの標識。築城者や落城日まで書いてあって、今回のドラマをご覧になった方であれば、ちょっと感傷に浸ってしまうかもしれませんね。

WP_20160117_14_13_33_Pro本丸の北西には勝頼と長篠の戦いで落命した十四武将の慰霊碑が建てられています。

WP_20160117_14_14_50_Pro勝頼を祀った石祠です。

神社(藤武神社と稲荷社)とは別に祀られてます。

WP_20160117_14_19_57_Proドラマでも使われた、麓に広がる桃畑を望む、新府城跡からの遠望。

正面には八ヶ岳と、七里岩を象徴する岩屑流れ(新府城が乗っている七里岩台地自体が、奥に聳える八ヶ岳が崩壊して流れ下った跡。一緒に崩れてきた岩が集まって出来た小山の群)の小山を見渡すことができます。

ドラマのシーンで、「この風景も見納め」と述べていた場所が、こちらですね。

WP_20160117_14_11_23_Pro新府城の解説板です。

WP_20160117_14_24_55_Pro解説板をもう一枚。

WP_20160117_14_11_50_Pro新府城の想定復元図です。

新府城略図1縄張略図です。

新府城略図2もう一枚ですが、こちらは城の北側です。

ここまでは名所としての新府城跡のご紹介。それでは、ここからはエセ城郭ファンが、城跡としての新府城をご案内します。

WP_20160117_14_53_01_Pro①県道を見下ろす帯曲輪から。足元には大手に入る遊歩道が見えています。

WP_20160117_15_13_27_Pro②帯曲輪(上)と遊歩道(下、砂利道)の合流点。曲輪といってもこの通り、武者走り程度の幅です(遊歩道を作る際に伐り落とされている可能性もあります)。

WP_20160117_14_54_59_Pro③南大手門へのアプローチ。

WP_20160117_14_55_51_Pro④上からのぞくと、このように土手が切られています。

WP_20160117_15_14_14_Pro⑤大手の足元を観ます。一段下にも曲輪のような地形が見えます。WP_20160117_15_00_43_Pro⑥ここが一番判りやすい場所でしょうか。

大手です。しっかり土手に道筋が切られています。

WP_20160117_14_57_41_Pro大手の中に入ってみると、更にその下にも曲輪が出来ています(その下が三日月堀らしいです)。

WP_20160117_14_58_45_Pro大手から釜無川沿いを望みます。

WP_20160117_15_12_04_Pro⑦東三の丸ですが、ここからでは地形がよく判りませんね。

WP_20160117_15_02_16_Pro⑧一段上の西三の丸です。

WP_20160117_15_04_00_Pro広いスペースが確保されています。

WP_20160117_15_02_50_Pro人工的に作られた土手の構造がよく判ります。

WP_20160117_15_05_48_Pro⑨少し登って、馬出の手前から眺めると、大手、三の丸の輪郭が判るかと思います。

WP_20160117_15_07_12_Pro⑩馬出です。中央を遊歩道が貫通しているため、下半分を。遠くに如何にも人工的に作られた土手が続いているのが判るかと思います。

WP_20160117_14_27_03_Pro⑪二の丸の入口です。

WP_20160117_14_28_02_Pro二の丸の内部です。こちらも広々としたスペースを有しています。

新府城を単なる山城だと思うと、意表を突かれる広さ。本格的な築城が行われていた証拠です。

WP_20160117_14_32_27_Pro⑫二の丸の裏手にある大きな窪地。城内には井戸が無く、一方でこの場所は岩盤に至るまで掘り込まれていたことから、集水施設であったと考えられています。

WP_20160117_14_34_56_Pro⑬二の丸の裏手は七里岩の険しい崖が迫ってきます。

WP_20160117_14_35_25_Pro乾門に下る道は残念ながら整備作業中で入る事が出来ません。

WP_20160117_14_36_11_Pro直線的な土手が灌木の中を抜けていきます。

WP_20160117_14_35_56_Pro複雑に切り込まれた堀状の溝がそこかしこに見受けられます。

WP_20160117_14_43_34_Pro⑭二の丸から下っていくと、遠くに水平の土塁がずっと続いてきます。横矢掛りの防塁と呼ばれる土塁です。

WP_20160117_14_44_58_Pro⑮二の丸を下りきって、穴山側に廻り込むと、土塁が伸びているのが判ります。西出構です。

WP_20160117_14_46_05_Pro西出構から乾門方面を望みます。

堀のような窪地が城を取り巻いているのが判るでしょうか。

WP_20160117_14_49_57_Pro⑯こちらが東出構。実際にはどのような目的で作られたか判っていないそうです。

WP_20160117_14_47_55_Pro西出構から本丸を俯瞰で。鎧を付けて、これだけの高さを寄せていくのは至難であることがよく判ります。

このまま七里岩ライン側に廻り込むと終点。フルに一周すると大体1時間ほど必要ですが、大手から遊歩道を本丸まで往復するだけならゆっくり歩いても30分程と、手軽に戦国城郭の跡を楽しむことができます。

比較的遺構がはっきり残っている箇所と、判りにくい個所が入り混じっていますので、もう少し丁寧な解説板が欲しい所です(特に整備途中の大手の部分は、ドラマ最終盤でキーとなる、丸出しの構造を端的に示す例ですので)。

城跡巡りには藪の木々が葉を落とす冬場が一番なのですが、ちょっと味気ないのも事実。

新府城跡の周囲はご覧のように春になれば桃源郷と呼ばれる桃の花で囲まれます。

真田丸を観て武田勝頼の最後と新府城にご興味を持たれた皆様、この後、山梨は舞台から遠ざかってしまいますが、春のシーズンになりましたら、復習がてらお越しになられては如何でしょうか。