今月の読本「外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)生物多様性の対極にある西の島国から発する、人が為す意味付けの反意

今月の読本「外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)生物多様性の対極にある西の島国から発する、人が為す意味付けの反意

最近特に話題となる事が多い、この単語。

我々の日常生活でも、気に掛けるシーンが随分あるかもしれません。

そのようなきっかけ、気づきを得た場合、我々が感じる感覚、感触が複数の人々の間で奇妙に同期したとき、大きなムーブメントとなって社会や行政が大きく動き出す時があります。特にネット社会と叫ばれるようになった昨今、そのようなムーブメントが巨大な力を得た時、言語的、物理的な暴力となって、制止出来ない暴走に繋がる事すらあります。

そんな時、複数の見解、カウンターとなる見解を持ち得る事は、物事を客観的に判断する際に特に大切な事。たとえ反対意見であっても、傾聴に値することには真摯に向き合う必要がある筈です。奔流の如く流れ込んでくる情報を捉える時に重要なのは、即断せずにより良く多く読む事。依然豊かな出版環境に恵まれた極東の島国には、多くの出版社と優れた翻訳者の方々が存在する事で、世界中の知識を母国語で触れられるチャンスがたくさん存在しています。

今月の読本は、そんな時にカウンター的な見解を大上段に掲げて論争を挑んだ、ある英国の植物学者が2冊目として上梓した、イギリス人らしい、物事を見る、考える側面を痛烈に突く一冊のご紹介です。

外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)です。

邦訳題名より、よほど原題の方がその内容を痛烈に表しているようです(邦訳:ラクダは何処から来たか。答えは北米原産で、自然繁殖しているのはオーストラリアのみです)。

本書は、2011年に雑誌「ネーチャー」に掲載された論文「生物を出生地で裁くなかれ」を執筆した18人の共同研究者を代表して、英国シェフィールド大学で教鞭を執る著者が、一般向けにその趣旨を、敢えて対抗する議論へぶつける形で執筆した物です(なお、前述の論文を発表した直後、実に141人の研究者が連名で反論の書簡を発表したそうです)。イギリス人らしいウィットと厳しいジョークが最大限に似合うであろうテーマ構成、文体がこれでもかと続く本書を読み抜くには、そのページ数を含めて(本文288ページ)、ナイーブでせっかちな、更に読書時間も限られている日本人にとって、たとえ手に取ったとしても読み抜くにはかなりハードルが高い一冊かもしれません(訳書であるという点も加味すれば尚更)。更に、読者がこのテーマに期待する何らかの結論について本書は一切語ってくれないどころか、その期待する結論なるものを読者が安易に持たない事を著者は切実に望んでいます。

ではなぜ、このような暴論を企てるような一冊を送り出したのか(正確には2冊目)。それは著者の経歴を考えると良く判ります。著者の専門は植物学で趣味はガーデニング。良く知られているように、徹底的な環境の人為改変が進んだため、世界で最も在来種が少ないとされる(約1500種、高尾山の一つでそれを遥かに上回るとよく比較されます)島国、英国。その反動として、自然保護政策や在来種管理では世界的に最も進んだ政策を展開しており、更にはそれらに携わる研究者の数も他国を圧倒しています。そのような環境で教鞭を執り、庭園を愛する著者があらゆる事例を通して述べていく事、それは所謂外来種による影響と言われる一連の研究結果やデータ、マスコミ等で伝えられる報道の大部分が、アイコンとしての外来種に囚われ、短絡的に着目しすぎているという点を明確にするためです。

まず、著者は外来種に対する最もインパクトのある活動である駆除について、孤島やサッカー場程度の面積までであれば効果があると認めますが、それ以上の範囲に広がった外来種を駆除することは現実的にも経済的にも不可能であると述べていきます(それ以上の範囲で行った駆除効果と環境変化とを分離して評価する事は出来ないと)。更に、人為的な駆除の限界を悟った場合に導入される外敵の導入による撲滅についても、単純な確率計算上の結論同様に、導入した場合の16%については定着に成功する可能性があるが、その場合でも撲滅は出来ず、せいぜい共存する程度であると明確に突き放します。つまり、一度入ってきた外来種を人為的に駆逐することはほぼ不可能であると看破します(それでも膨大な資金と安全性評価の時間を投じて、日本から外敵種の導入を図る実験を進めている例を紹介します)。

一方で、その侵入から定着についての視点も明確に述べており、大英帝国時代に世界中にまき散らしたヨーロッパの動植物の導入記録(従って、年号まで確定できてしまう。ヨーロッパ内での移植種でも同じ)から、100個体未満であれば定着がおぼつかない一方、それを越えると、適当な環境が存在すれば確実に定着が進むと指摘します。また、導入を伴わない侵入の場合、その種の遺伝的多様性は極めて貧弱であり、適応出来た場合は一気に増加する一方、何らかの阻害要因が生じた場合には一気に減少に転じるという、増加と減少の特異性(中にはナミテントウのように、パージングという小個体群特有の超越法を具えている例も)が付きまとう点も指摘していきます。

これらの動物、植物学的な定着/放散過程について、専門家としての明確な視点を与えていく一方、本書はより根源的な外来種の問題点を指摘します。

それは、外来種と枠組み付ける物が何処まで行っても「人為的」選択の結果である事。在来か外来かの定義は全く以て後天的(イギリスの場合は15世紀以降、アメリカは物凄く判りやすく、コロンブスの「発見」1492年で線を引く。日本ならさしずめ、ペリー来航でしょうか)であり、生物学的な論拠とは言えない点。在来種より目立つ事、その特性として一気に増えるために目立つ事、自国原産、「在来」種というその地に住む人々の感性で容易に変化する枠組みである事。経済性を阻害する種である事(これは雑草や、漁獲、養殖を阻害する種であれば、在来種ですら容易に外来種と曖昧になる)。それが、人為的導入種であれば、その益害(当初の想定を逆転して害が上回ると判断された場合は更に)によって簡単に逆転してしまう事を示していきます。

更には、これらの外来種の在来種への影響について、多くの事例から生物多様性との相反に基づき、2項対立で評価を行う多くの外来種の影響評価には誤りがあり、環境系全体で俯瞰した場合、外来種が他の種類の植生を圧倒するのは一時的であり、その後の植生は多くの場合、外来種が侵入する前より豊かになる(特に外来種が侵入する様な脆弱な環境では)点を採り上げて、外来種の問題も、逆の立場となる在来種の場合でも、その種を用いたスケープゴートとして祭り上げている点に強く警鐘を鳴らしていきます。この議論を推し進めた先に、過去に環境が殆ど人為的に改変された英国らしく、在来種が本当に絶滅の危機に瀕しているのであれば、それが地球環境の変化によって生じる大きな変化の過程で生じていると判断できるのであれば、現在の生息場所に拘らず生息可能な場所へ人為的に移植することを否定してはならないと、その適用可能性の例までも示します。

著者は『沈黙の春』やダーウィニズムを採り上げて、それらに逆行する様な外来種を魔女狩りのように駆逐するために膨大な資金と労力を投じ、人為的な区分によって作られた在来種だけを囲い込むように保護する活動や、それらに対して学術的に不均等な示唆を与える事に対して、リンネ、ダーウィン以降が積み上げてきた自然科学に対する逆行だと強く非難し、我々は外来種の侵入を予測制御できる「聖杯」などを手にする事は出来ず、生態学に過剰な期待を持つことを止めてほしいと、研究者への過大な期待を持たれる事すらも拒否します。

あらゆる事を拒否してしまう本書。では、著者の本当の想いは何処にあるのでしょうか。

それは、要所要所に伏せられていますが、かつて世界を蹂躙した英国人だから立ち得る境地。外来種がはびこる場所、外来種が辿るルート、そして外来種を駆除しようとする場所。全てに於いて、其処に人の存在が介在している点です。ネイティブアメリカンが入植者たちが通った道筋を称して「白人の足」と呼んだように、ミツバチを「イギリスの羽虫」と呼んだように。人によってもたらされた自然の改変を、果たして人が御し得るのか。それが如何に難しい事かは多くの事例が示していますし、本書に於いても外来種の駆除の殆どが無駄に終わる点を明確に示していきます。その一方で、本書の原著題名に示されるように、著者が指摘するように、古生物学における知見から行けば、人が有する時間軸が変化として捉えている事象はスナップショットに過ぎず、環境の激変と捉えられる事象も、捉えらた時点における過程の微分を述べているに過ぎません。森林更新に極相がある一方、極相自体も時に一斉に更新される事は既に指摘されており、そのスタート時点において最も優勢なのは、外来種や在来種という枠組みではなく、極限的な環境に適応した先駆種であるに過ぎません(これは山の崩落地に落葉松がしがみ付く様にヒョロヒョロと育っている様子を見た事があれば、容易に理解できるはず)。そのような人為的な環境破壊を含む極限的な環境、更には農地やコンクリートで固めた護岸など限定的な環境に、人と一緒に(靴や衣服、作物種子を媒介に)渡ってきた外来種が優先して優勢となるのは当然であり、これを以て外来種が悪で、在来種が正であるという2元論は稚拙であるという点を、しっかり理解して欲しいという想い。

人がその営為を為す限り、その活動に付いてくる外来種の放散は決して止まらず、一度侵入した外来種はその環境の中で多様性の一翼として調律されるまでは、人為的な放伐はほぼ無力である事を明白に示し、その上で、過剰な発言や偏向、無意味な対策への浪費に対して、例え研究者が相手であっても、厳しい警鐘を鳴らす本書。

著者が願う、外来種の問題をより深く議論するテーブルに着くためには、イギリスの皮肉たっぷりに、黄金の時代にしがみ付いたと称する、時代が造ってきた時計の針を逆戻りさせるのではなく、もう一つの得意である、スコッチのようにじっくりと時をかけて、まだまだ数多くの議論と検証を闘わせ続けなければならないようです。

誰もがその議論に振り回されないよう、しっかりとした足腰を鍛えるための一冊として。

 

<おまけ>

本書に関連する書籍をご紹介します。

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今月の読本「ウナギと人間」(ジェイムズ・プロセック:著 小林正佳:訳 築地書館)その神秘の魚は人と人が交わる中で密やかに物語を語り出す

今月の読本「ウナギと人間」(ジェイムズ・プロセック:著 小林正佳:訳 築地書館)その神秘の魚は人と人が交わる中で密やかに物語を語り出す

今年もこれから夏に向けて、あらゆる意味で再び話題となりそうな魚、ウナギ。

世界中のウナギを掻き集めて消費している日本人にとって、これから目の前で繰り広げられる狂想曲と、産卵場所探しや生育環境、更には人工養殖と飽くなき研究へのまい進。ウナギにまつわる物語の殆どがこの国にいれば把握できてしまうように思えてきますが、果たしてどうでしょうか。

サーモン、タラと並んで世界中の人々が好んで食する珍しい魚であるウナギ。その神秘に満ちた一生と特異な姿、人をも凌駕する長寿を誇る生態に魅せられたのは日本人だけではない筈。

そんな想いを改めて思い起こさせる一冊をご紹介します。

自然科学関連で、他の版元さんには見られないユニークな本を送り出してくる築地書館さんの最新刊からご紹介です。

ウナギと人間今月の読本、「ウナギと人間」(ジェイムズ・プロセック:著 小林正佳:訳)です。

本書を手に取られ、表紙や裏表紙に書かれた概要を読まれた多くの方は、おやっと思われるかもしれません。

著者があとがきで述べているように、そしてあとがきでまだ書き足らない想いを埋めるかの如く綴るヨーロッパにおけるウナギ料理の話や、ウナギのヤスのコレクションの雑感に観られるように、本書は当初、訳本に多くあるウナギをテーマにした広範囲な分野をカバーする文化史、生態学を纏めた一冊にする意図があったようです。日本の著作では珍しい、しかしながら訳本では当然とも見做される科学と文化の双方をカバーするウナギの概説書としての体裁。ところが、11年にも渡る取材の結果纏められた本書は、そのいずれにも当てはまらない内容へと着地しています。

著者は著名なアングラーであり、パタゴニアの創業者とコラボレーションを行うナチュラリストとしての側面も有する、自然科学関連ではかなり著名な方(本書の取材に於いても、ナショナルジオグラフィック協会の支援を受けた事が記されています)。多くの生物に関する著作を有する彼が本書で辿り着いた地平は、ウナギの物語ではなく、ウナギを挟んで語り合う著者と登場人物たちの人と人の物語。

冒頭と中盤に分けて描かれるサルガッソでの産卵場所の追跡や、シラスウナギのバイヤーの遍歴、中間に差し挟まれた、現:日本大学の塚本教授との語り合いの部分だけ見ていると、ライターの方が書かれた、良くあるウナギの不思議物語を読んでいるかにも思えてきます(塚本教授の印象を傍点付きで語る著者の視点には、氏の著作を複数読んだ身として深く同意するところです)。ウナギの生態や食材としてのウナギ、更には研究の物語など魚が好きな方なら思わず喜んで読んでしまう内容も豊富述べられています。

その一方で、3章から始まる(訳注を見ると、原著では3,4章で一つの章だったようです)マリオとウナギの物語を読んでいくと、その民俗学的なアプローチとルポルタージュ的な体裁の記述に困惑されるかもしれません。民俗学的なテーマを掲げた本では良く見られる、取材する側と取材される側の葛藤や迂遠に引きずり回させる回答への道筋、相手に徐々に呑まれていく著者とすっきりしない結末など、ウナギの生態や物語を知りたいと思われる方にとっては、時に苦痛すら感じる内容かもしれません。更には、アメリカの人里離れた川縁で大きな簗を毎年のように組み直しては、秋の増水時期に降下するウナギを待ち望む世捨て人のような燻製作りの男との会話、そして登場人物たちに誘われるように向かったポンペイでのウナギの伝説を追い求め、夜な夜なサカウに浸っていく著者と、そのアプローチに興味を抱き協力する若いCSPの職員。

ここまで読んでいくと、本書が単にウナギの物語を語っているとは思えなくなってきます。初めは乗り気ではなかった、あまり興味のなかった11年前の著者と、溢れるばかりの書き切れない内容をあとがきに綴り、それでも興味が留まるところを知らないと述べる著者。ウナギに魅せられていった著者と、おなじように著者が訪れた世界中の場所で、ウナギに興味を持ち、惹かれ、魅せられ、研究され、信仰し、神聖視し、恐怖し、稼ぎ、食し、育む…著者と交わった人々の物語。

春になると、金が舞い飛び密漁を含め多くのシラスウナギが東アジアに集結し、熱暑の時を迎えると、極東の島国に集められたウナギたちは鮮やかな手つきでかば焼きに仕立て上げられる。一方で、紫外線照明が降り注ぐ研究室ではシラスウナギの稚魚が水槽の中を舞い、雄ばかりの奇形ウナギにホルモン注射を与え続け、南の海では「科学者」でありつづけたい男たちが政府の資金でその産卵場所を嬉々として追う。

秋になれば、ニューヨークの奥地の川では黙々とひと夏をかけて巨大な簗を仕掛けた男が息子と二人、嵐の到来を待ちわび、南半球では、何十年もの間、川や湖で過ごして巨大に育ったウナギたちが満つる時を悟るかのように砂洲を越えて海に帰る時を男たちが見守る。その横で彼ら、彼女らが紡いできた物語に寄り添うかのように、窪地の水たまりに潜む巨大なウナギに餌をやり、時に手を差し伸べ、さするように愛おしむ人々。学問として語り継ぐことを決心した次の担い手たち。そして、南の島で自らの起源と生誕を来た道をその不思議な生き物に重ねて物語を編み、そっと伝えていく人々。

ウナギを介して交わった人と人の物語を編み重ねて綴られた本書は、その未だ生態の全容も判らず、生まれいづる場所すら容易に明かそうとしない、ウナギ自身の神秘のベールのように、著者の秀逸な筆致に載せて、大洋のようなその世界の広さを往きつつ、大海を渡って河口に辿り着いたシラスウナギを掬うかのように、僅かに捉えた事実をほんの少しだけ我々に垣間見せてくれるかのようです。

 

<おまけ>

本ページでご紹介している関連する書籍を。

今月の読本「日本列島草原1万年の旅 草地と日本人」(須賀丈・岡本透・丑丸敦史 築地書館)人の営みが作り出した、もう一つの「自然」へ

今月の読本「日本列島草原1万年の旅 草地と日本人」(須賀丈・岡本透・丑丸敦史 築地書館)人の営みが作り出した、もう一つの「自然」へ

本州最大と呼ばれる草原を有する霧ヶ峰。

空まで抜けていく様な気持ちの良い火山高原に広がる草原は、西の阿蘇と並んで多くの観光客の方を引き寄せています。

日本は森林の国と呼ばれて久しいですが、なぜこのような草原がそもそも存在するのでしょうか。そして、その植生や地質にはどんな意味合いがあるのでしょうか。

火入れや人力による刈取りによって植生を維持している霧ヶ峰。現在は景観維持の為に実施されていますが、それ以前の時代、遅くても鎌倉時代辺りから継続的に現在の景観が続いていたと考えられています。

富士見台からガボッチョを2013年4月、野焼の延焼で山火事となってしまった、車山肩の富士見台から望む景色。

なぜそこまでして維持する必要があるのでしょうか。そんな疑問点に立って霧ヶ峰の草原に立った後に読みたい一冊をご紹介します。

草地と日本人、信州の草原日本列島草原1万年の旅 草地と日本人」(須賀丈・岡本透・丑丸敦史 築地書館)です。

著者グループの筆頭である須賀氏は、共同執筆者の岡本氏と同じ長野県をベースに研究活動を進めている方で、本書が刊行された1年前(2011年)に、地元出版社のほおずき書籍から「信州の草原」という、本書のベースとなった書籍を上梓されています。

本書では上記の2名の方に、新たに兵庫県で里山の植生を研究されている丑丸氏を加えた3名で執筆されていますが、それぞれのメンバーが得意とする分野に分かれて分割執筆されています。その結果、本書は大きく2つのパートに内容が分かれています。一つ目は1,2章で記述される、長野県の草原をベースにした前著のテーマをより一般的に、かつ時代を追って記述する事で、草原植生における人の介在を指摘していく部分。二つ目は3章で述べられる、田圃の畔に着目した植生の生物多様性についての検証。お互いの内容は直接的には関係してこないため、2冊の本を1冊に纏めたような感じも受けますが、言わんとしている主題はどちらも共通で明快です。

すなわち、日本は旧来から草原と草地の広がる土地であり、その土地とそこに生える草地の植生は人の介在なくして存在せず、その存在こそが、日本人が自然と向き合ってきた姿そのものであるとの認識を表明する事です。

ここまで書くと、おやっと思われる方も多いかもしれません。何せモンスーンに恵まれた日本の国土は80%近くが森林であり、日本こそは世界有数の森林大国の筈ではないのか、と。

この概念をまず取り払うことから、本書の物語は始まります。著者達が研究のフィールドとしている霧ヶ峰、そして阿蘇。今や希少な大草原ですが、その土壌を調べると奇妙なことに気付きます。深く積み上げられる「黒ボク土」と呼ばれる、日本特有の黒々とした土。日本中で見られるごくありふれた土ですが、実は水田にはあまり適さず、土壌改良を要する農家にとっては厄介な土壌です。これらの土壌は全国の約20%を占めており、日本の土壌の中核を成していますが、その存在は偏在しており、多くは火山に付随するため、火山活動による影響によって生成されたものと従来は考えられてきました。しかしながら、著者たちの調査結果は異なっているようです。土壌の調査と、その地層やそこに含まれている植生の年代調査が実施できるようになった結果、驚くべき傾向が見受けられています。それは、土壌に含まれる植生が樹木ではなく、殆どが草木類であることと、その年代が約1万年まえから急激に増えてくる点です。そして、黒ボク土が偏在する地域には考古学的に縄文時代から人が居住していたと考えられる事です。

前述のように、モンスーン気候に恵まれた東アジアにおいて、開けた土地があれば数十年を経ずに樹木が繁茂する事が良く知られています。しかしながら、黒ボク土からは草木類ばかりが検出される。火山活動が原因であれば樹木が検出されてもよさそうなのに、そのような結果に繋がらないばかりか、火山とは関係ない場所でも黒ボク土は存在する。更には、火山活動と関連があれば、もっと古い時代の地層に存在しても構わない筈なのに、特定の年代以降で発生する。

これらを勘案した結果、著者達は大胆な想定を打ち立てます。すなわち「縄文人以降の日本人によってはじめられた焼畑、ないしは定期的な焼き入れによって、黒ボク土が生成された」と。

また、縄文びいきの信州人たちが、更なる大胆な縄文農耕論を引っ提げて、人文学から今度は科学にまで乗り込んでくるのかと罵られそうですが、もう少し著者達の話を聞いた方がよさそうです。その理由は、日本の歴史上、草原が必要不可欠かつ、欠かせない存在であった事。

既に歴史学の知見において、戦前までの日本の風景は、草木が広がる丸裸の山々の麓に水田が広がるという、現在の景色からは想像もできない姿であった事が明らかにされつつあります。その原因は、木造建築の膨大な需要による森林の枯渇と、それ以上に必要であった、燃料としての炭、薪と、材料としての萱、肥料としての草木(柴)を必要する農耕生活の姿。その結果、所謂里山と呼ばれる、農村に付随する山裾の殆どは年間を通して農民が草を刈り取るために裸地化し、新田開発の進んだ江戸時代の後半には、水争いと並んで、これらの草木を刈り取るための山裾(入会地)の権利争いが頻繁に発生することになります(補足:霧ヶ峰を始め、八ヶ岳西麓に多くの草原が残っている理由の一つとして、多くの山裾が未だに当時の権利関係を引き継ぐ「財産区」によって共有されているからです)。

そして、黒ボク土が出来る大きな理由、現在のような強力な土木機械が存在しない中で、自然更新してしまう森林を切り開くなり、維持する為にもっとも手っ取り早い方法、すなわち「火を入れる」という合理的な選択が、結果として黒ボク土を生み出し、草原を維持する事となったと考察していきます。

その結果として、戦後の大造林政策が始まるまでの長きに渡って、日本は草原と水田が広がる景色であったと見做していきます。そこには、人の手入れによって生成された環境である「半自然」状態でのみ生存できる植生があった事を見出していきます。そして、その片鱗は現在の田圃の畔にも見いだせる事を見つけ出していきます。

本書が語るもう一つのテーマ、それは人との共生によってのみ成し得る植生が、日本の生物多様性の一翼を担っている事を明らかにする事。ライチョウが氷河期の環境の名残でもある高山に点々と存在することと同じ視点で、人の手によって切り開かれた草原や田圃の畔で生きる植物たちもやはり、過去の環境からの生き残りの植生であることを明らかにしていきます。モンスーン気候の地では人が手を入れ続ける事によって維持される日射条件が良く開けた環境、しかも過度の開発ではなく「ほどほど」の利用でのみ共存できる植物たち。そんな危ういバランスの上に成り立っている植生に目を配る事で、人と自然の関わり合いを改めて見直そうと、著者達は提案していきます。

富士見台展望台からガボッチョ火入れの延焼による山火事から2か月後の同じ場所(2013年6月撮影)。

失火後、僅か2ヶ月ですが、既に新たな緑が芽吹き始め、火に強いのでしょうか、レンゲツツジは花を咲かせていました。これがモンスーン気候における草原の遷移力の強さ。

ヨーロッパを引き合いに出して、日本人は自然をありのままに受け入れるという考え方に対して、正面から異議を唱える「自然の遷移を利用しながら手を加えてきた日本人」という、新たなイメージを提案する本書。その内容は、現代を生きる我々が忘れてしまっている自然観、実は人手によって維持される自然環境という事に改めて目を向ける必要がある事を思い出させてくれる一冊です。

<おまけ>

本書の内容のうち、土壌学やいわゆる「縄文農耕論」に更にご興味がある方には、同社の近刊でもあるこちらの「日本の土」をお勧めします。私は結論への誘導が怖くて未読なのですが、八ヶ岳を前にして居住し、本書を読んでしまった以上、読まざるを得ないのかも…。

<おまけの2>

2013年4月に起きた、霧ヶ峰の野焼きの延焼による景観変化と、その後の植生の比較写真です

本書と関連するテーマの本を、ご紹介。