今月の読本「タネをまく縄文人」(小畑弘己 吉川弘文館)最新分析手法が語りかける、拘りのない考古学への誘い

今月の読本「タネをまく縄文人」(小畑弘己 吉川弘文館)最新分析手法が語りかける、拘りのない考古学への誘い

日本で最大の縄文遺跡の集積地、ここ八ヶ岳山麓に居住していると、縄文遺跡は極めて身近なものです。

そして、周囲には多くの縄文ファン、古代史に興味のある方が住まわれています。

溢れるばかりに存在する遺跡に出土物、それらを綺麗に収蔵、展示している自治体ごとに存在する考古館。収蔵される発掘成果の多くが古代史への扉を開くカギとして貴重な品の数々なのですが、展示物に付される説明を読んでいるとどうしても解せない点が出て来ます。

縄文時代にも拘らず農耕への道筋、特に稲作との関連性をしきりに模索する点(and否定する点)、そして古代史の展示や資料を眺めていると不思議に思えてくるのは、発掘成果から徐々に乖離して研究者の方々の持論と思想がないまぜに語られる文化論。史料との直接的な関係性を観たいと思う私にとって古代史がどうしても好きになれない点でもあるのですが、そのような疑問にストレートに答えてくれる一冊が登場しました。

縄文遺跡のメッカ、中部高地から遥かに離れた南九州を研究のベースに置かれる著者による、最新の知見と研究手法をふんだんに盛り込んだ一冊です。

タネをまく縄文人

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館の歴史文化ライブラリー最新刊より「タネをまく縄文人」(小畑弘己)のご紹介です。

本書の表題を見ると、一部の方は「何だ、また縄文農耕論の本か」と思われるでしょうが、表紙のイラストを良くご覧ください。収穫しているの物は何でしょうか、米ではありません。縄文農耕論が辿っていくパターンに従って観た場合でも、麦でも、雑穀でも、エゴマでも、ソバでもありません。もちろん照葉樹森林文化論で出てくるイモ類でもありません。その絵に描かれているイメージは豆の莢。著者の提案する新しい縄文農耕のカギとなるのは、これまでの稲作文化との相対や前身性の議論から離れた新しいアプローチによる提案。そして、提案に至るキーパーツたちを捉えるきっかけとなった分析方法を本書は詳しく述べていきます。

本書は大きく分けて4つのパートに分かれています。縄文農耕の作物としての豆(ダイズ、アズキ類)への着目。そしてこれらをエサとしたであろうコクゾウムシと豆類の生育の関係。避けては通れない稲の移入と縄文期の歴史的展開の話(ここは最大公約的な結論ですが、大陸の出土物との関連性で述べる点は注目で)。最後にこれらを導き出す手法となった、レプリカ法から繋がる圧痕法の解説とそれに続く新しい分析手法の紹介。

著者は史学科に属していますが、所謂考古学者とはちょっと毛色の違った経歴をお持ちのようです。参考文献に豊富に掲載される英文、韓文、漢文の引用論文。X線CTや軟X線スキャナ、光学3Dカメラの解説に圧痕法使用樹脂の解説。そして、極めて細密なダイズの寸法評価やコクゾウムシの形態分析。文学博士の称号をお持ちですが、どちらかというと分析屋さんに近い系統の仕事のされ方をしています。

ある意味発掘や思索を専門とする考古学者とは別のアプローチによる、分析重視の出土物調査の集積。その結果は、土器や土偶等の発掘物の精緻な分類や比較文化論による文化的な側面を重視した時代構成を描く、次に来る弥生時代との峻別や先進性を訴求せんが為に、その痕跡をひたすら追い求めて袋小路に入っていく多くの古代史の研究成果に対するアンチテーゼ的な結論を導き出していきます。その為でしょうか、著者の筆致には考古学者の方へのやるせなさや研究の停滞への想いを隠さず、時に判断を促さんと欲する突き放す様な描写すら見せます。

所々に傍観者的な雰囲気を漂わせる、分析屋さんのちょっと悪いパターンを行間に垣間見る感もありますが、その指摘には興味深い内容がぎっしりと詰まっています。

発掘された土器の表面に残る圧痕をシリコーン系の樹脂で型を取って、電子顕微鏡で観察するという、当時の形態をそのまま取り出す事が可能な手法であるレプリカ法、その後継手法として陽刻としての3次元形状を捉える事を目的とした圧痕法。従来の考古学的手法による種子類の抽出を行っていた著者が新たに取り組んだ手法を用いた膨大な分析結果を俯瞰していくと、これまで着目されなかったマメ類、それも在来種と思われる種子が土器に多数の圧痕として残っている事が確認されていきます。そして、分析結果の中に、本来であれば穀物類をエサとする筈のコクゾウムシの圧痕を見出していきます。マメ類の圧痕は関東や中部高地から西へ向けて、そしてコクゾウムシの圧痕は稲作が遥かに遅れて伝わったとされる薩南諸島で出土した縄文期の土器からも見出されていきます。この結果は従来的な縄文時代の推移を学んだ者にとっては驚きの結果。狩猟採集の縄文文化は半島から来た稲作文化に追いやられて南北の端に追いやられた。穀物を主食とする害虫であるコクゾウムシなどの発生は、穀物生産=稲作文化の伝播と並行して起こったという認識を根本から見直さなくてはならない事を痛感させられます。更には栽培植物化による種子の大型化と、種子の中で幼虫が育つ必要があるコクゾウムシのサイズ変化(むしろ小型化する)からの考察として、縄文期に食されていたものが穀類(≒稲)ではなく、クリやマメ類であったであろうという点にまで議論を押し広げていきます。

この議論は、八ヶ岳西麓に住んでいる者にとっては非常に大事な話。所謂藤森縄文農耕論が唱える先駆的な農耕の先には常に「稲作=水田」が付いて廻っていました。その結果、お隣の阿久遺跡の発掘に於いては、農耕、即ち水田に類する痕跡を求めて、台地上からはるか下に流れる川の付近まで発掘調査を行ったが、水路に相当するものは最後まで発見できなかったとのお話を、発掘40周年を迎えた今年の記念講演で当時の担当者の方から伺ったことを思い出しました。

ステレオタイプかもしれませんが、何としてでも文化的に弥生時代の先駆が縄文であった事の痕跡を探すことに躍起になる縄文文化。その度に稲作のない縄文の農耕は農耕とはいえず、縄文の後進性と大陸文化=先進文化の受容というスキームで臨む弥生文化。更には、それらに輪をかけるように展開されるxx文化論的な物証論からやや逸脱する、精神論的な部分も垣間見れる議論。更には考古学者の全てが目を伏せて逃げ出したくなる、解消されないあの事件のトラウマ…。

これら部外者には俄かに判りかねる魑魅魍魎的な古代史の議論に対して、分析屋さんらしい切り口、そして海外からの視点を重ねながら、文化ではなく、発掘史料が語りかけてくる結論に対して真摯であろうとする著者の姿勢。

土器の表面という限られたポイントからすべてが把握できる訳がない点は充分に承知している。更に、なぜ土器の表面にそれほどまでにマメ類やコクゾウムシの痕跡が残っているのか想像は出来るのだが、物証から確証には至れない(ここで、前 長野県考古学会の会長でもある会田進氏の「やればいくらでも種実圧痕が出てくるので、もはやマメはあって当然のことと思っています」という発言を拾っている点に、著者の想いが帰結していると思います)。それでも他の分析手法に対して、当時の形態を確実に保存しているという明らかなメリットを前面に掲げて分析結果を積み重ね、議論の深まりを模索する著者の姿勢には大いに賛同したくなるところです。

全国各地に数多ある縄文遺跡とその発掘成果。著者の言葉を借りれば「第二の発掘を待つ宇宙の星の数にも等しい土器たち」が各地の博物館や収蔵庫に眠っています。著者が一人でその全てを調査することはもちろん不可能でしょうが、そこにはまだまだ新しい発見が眠っているはず。より多彩な分析方法を駆使して、これまでの研究分野の枠組みを外してほんの少し見つめ直せば、縄文の研究分野はもっと広がり、もっと楽しいものになると実感させられた一冊です。

井戸尻考古館の炭化麦出土品全ての議論の起点である、植物性炭化物出土品の数々(藤森縄文農耕論のゆりかごでもある、諏訪郡富士見町信濃境の井戸尻考古館にて)

 

<おまけ>

本書とほぼ同じタイミングで刊行された、縄文時代を扱った一冊「つくられた縄文時代」(山田康弘 新潮選書)をセットで。こちらの本も従来の縄文時代感を是正することを狙った内容ですが、正直に言って上手くいっていないように思われます。1,2章の戦前、戦後の考古学への認識と、それに対する歴史教育分野での行政の介入部分は後付け的で、内容も考察不足ないしは、引用と帰結が余りにも大振り(モースとシーボルトの件以外は「考古学とポピュラー・カルチャー」(櫻井準也 同成社)を読まれた方が良いかと)、5章は本論とはあまり関係のない、著者の持論展開であり(こちらは同じ歴史文化ライブラリーの「老人と子供の考古学」の焼き直しである事を明言しています)、実質的には3章で述べられる、著者の奉職先である民博の展示入れ替えに際しての考察である、時間軸と空間軸に於ける縄文時代の枠組みの是正の部分だけが本題です。

タネをまく縄文人と、つくられた縄文時代

<おまけの2>

本ページより関連書籍、テーマのご紹介

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今月の読本「日本列島草原1万年の旅 草地と日本人」(須賀丈・岡本透・丑丸敦史 築地書館)人の営みが作り出した、もう一つの「自然」へ

今月の読本「日本列島草原1万年の旅 草地と日本人」(須賀丈・岡本透・丑丸敦史 築地書館)人の営みが作り出した、もう一つの「自然」へ

New!(2018.11.2) : 本書に書かれた内容の最新報告です。詳しくはこちら(長野県環境保全研究所研究報告要旨No14)をご覧ください。

本州最大と呼ばれる草原を有する霧ヶ峰。

空まで抜けていく様な気持ちの良い火山高原に広がる草原は、西の阿蘇と並んで多くの観光客の方を引き寄せています。

日本は森林の国と呼ばれて久しいですが、なぜこのような草原がそもそも存在するのでしょうか。そして、その植生や地質にはどんな意味合いがあるのでしょうか。

火入れや人力による刈取りによって植生を維持している霧ヶ峰。現在は景観維持の為に実施されていますが、それ以前の時代、遅くても鎌倉時代辺りから継続的に現在の景観が続いていたと考えられています。

富士見台からガボッチョを2013年4月、野焼の延焼で山火事となってしまった、車山肩の富士見台から望む景色。

なぜそこまでして維持する必要があるのでしょうか。そんな疑問点に立って霧ヶ峰の草原に立った後に読みたい一冊をご紹介します。

草地と日本人、信州の草原日本列島草原1万年の旅 草地と日本人」(須賀丈・岡本透・丑丸敦史 築地書館)です。

著者グループの筆頭である須賀氏は、共同執筆者の岡本氏と同じ長野県をベースに研究活動を進めている方で、本書が刊行された1年前(2011年)に、地元出版社のほおずき書籍から「信州の草原」という、本書のベースとなった書籍を上梓されています。

本書では上記の2名の方に、新たに兵庫県で里山の植生を研究されている丑丸氏を加えた3名で執筆されていますが、それぞれのメンバーが得意とする分野に分かれて分割執筆されています。その結果、本書は大きく2つのパートに内容が分かれています。一つ目は1,2章で記述される、長野県の草原をベースにした前著のテーマをより一般的に、かつ時代を追って記述する事で、草原植生における人の介在を指摘していく部分。二つ目は3章で述べられる、田圃の畔に着目した植生の生物多様性についての検証。お互いの内容は直接的には関係してこないため、2冊の本を1冊に纏めたような感じも受けますが、言わんとしている主題はどちらも共通で明快です。

すなわち、日本は旧来から草原と草地の広がる土地であり、その土地とそこに生える草地の植生は人の介在なくして存在せず、その存在こそが、日本人が自然と向き合ってきた姿そのものであるとの認識を表明する事です。

ここまで書くと、おやっと思われる方も多いかもしれません。何せモンスーンに恵まれた日本の国土は80%近くが森林であり、日本こそは世界有数の森林大国の筈ではないのか、と。

この概念をまず取り払うことから、本書の物語は始まります。著者達が研究のフィールドとしている霧ヶ峰、そして阿蘇。今や希少な大草原ですが、その土壌を調べると奇妙なことに気付きます。深く積み上げられる「黒ボク土」と呼ばれる、日本特有の黒々とした土。日本中で見られるごくありふれた土ですが、実は水田にはあまり適さず、土壌改良を要する農家にとっては厄介な土壌です。これらの土壌は全国の約20%を占めており、日本の土壌の中核を成していますが、その存在は偏在しており、多くは火山に付随するため、火山活動による影響によって生成されたものと従来は考えられてきました。しかしながら、著者たちの調査結果は異なっているようです。土壌の調査と、その地層やそこに含まれている植生の年代調査が実施できるようになった結果、驚くべき傾向が見受けられています。それは、土壌に含まれる植生が樹木ではなく、殆どが草木類であることと、その年代が約1万年まえから急激に増えてくる点です。そして、黒ボク土が偏在する地域には考古学的に縄文時代から人が居住していたと考えられる事です。

前述のように、モンスーン気候に恵まれた東アジアにおいて、開けた土地があれば数十年を経ずに樹木が繁茂する事が良く知られています。しかしながら、黒ボク土からは草木類ばかりが検出される。火山活動が原因であれば樹木が検出されてもよさそうなのに、そのような結果に繋がらないばかりか、火山とは関係ない場所でも黒ボク土は存在する。更には、火山活動と関連があれば、もっと古い時代の地層に存在しても構わない筈なのに、特定の年代以降で発生する。

これらを勘案した結果、著者達は大胆な想定を打ち立てます。すなわち「縄文人以降の日本人によってはじめられた焼畑、ないしは定期的な焼き入れによって、黒ボク土が生成された」と。

また、縄文びいきの信州人たちが、更なる大胆な縄文農耕論を引っ提げて、人文学から今度は科学にまで乗り込んでくるのかと罵られそうですが、もう少し著者達の話を聞いた方がよさそうです。その理由は、日本の歴史上、草原が必要不可欠かつ、欠かせない存在であった事。

既に歴史学の知見において、戦前までの日本の風景は、草木が広がる丸裸の山々の麓に水田が広がるという、現在の景色からは想像もできない姿であった事が明らかにされつつあります。その原因は、木造建築の膨大な需要による森林の枯渇と、それ以上に必要であった、燃料としての炭、薪と、材料としての萱、肥料としての草木(柴)を必要する農耕生活の姿。その結果、所謂里山と呼ばれる、農村に付随する山裾の殆どは年間を通して農民が草を刈り取るために裸地化し、新田開発の進んだ江戸時代の後半には、水争いと並んで、これらの草木を刈り取るための山裾(入会地)の権利争いが頻繁に発生することになります(補足:霧ヶ峰を始め、八ヶ岳西麓に多くの草原が残っている理由の一つとして、多くの山裾が未だに当時の権利関係を引き継ぐ「財産区」によって共有されているからです)。

そして、黒ボク土が出来る大きな理由、現在のような強力な土木機械が存在しない中で、自然更新してしまう森林を切り開くなり、維持する為にもっとも手っ取り早い方法、すなわち「火を入れる」という合理的な選択が、結果として黒ボク土を生み出し、草原を維持する事となったと考察していきます。

その結果として、戦後の大造林政策が始まるまでの長きに渡って、日本は草原と水田が広がる景色であったと見做していきます。そこには、人の手入れによって生成された環境である「半自然」状態でのみ生存できる植生があった事を見出していきます。そして、その片鱗は現在の田圃の畔にも見いだせる事を見つけ出していきます。

本書が語るもう一つのテーマ、それは人との共生によってのみ成し得る植生が、日本の生物多様性の一翼を担っている事を明らかにする事。ライチョウが氷河期の環境の名残でもある高山に点々と存在することと同じ視点で、人の手によって切り開かれた草原や田圃の畔で生きる植物たちもやはり、過去の環境からの生き残りの植生であることを明らかにしていきます。モンスーン気候の地では人が手を入れ続ける事によって維持される日射条件が良く開けた環境、しかも過度の開発ではなく「ほどほど」の利用でのみ共存できる植物たち。そんな危ういバランスの上に成り立っている植生に目を配る事で、人と自然の関わり合いを改めて見直そうと、著者達は提案していきます。

富士見台展望台からガボッチョ火入れの延焼による山火事から2か月後の同じ場所(2013年6月撮影)。

失火後、僅か2ヶ月ですが、既に新たな緑が芽吹き始め、火に強いのでしょうか、レンゲツツジは花を咲かせていました。これがモンスーン気候における草原の遷移力の強さ。

ヨーロッパを引き合いに出して、日本人は自然をありのままに受け入れるという考え方に対して、正面から異議を唱える「自然の遷移を利用しながら手を加えてきた日本人」という、新たなイメージを提案する本書。その内容は、現代を生きる我々が忘れてしまっている自然観、実は人手によって維持される自然環境という事に改めて目を向ける必要がある事を思い出させてくれる一冊です。

<おまけ>

本書の内容のうち、土壌学やいわゆる「縄文農耕論」に更にご興味がある方には、同社の近刊でもあるこちらの「日本の土」をお勧めします。私は結論への誘導が怖くて未読なのですが、八ヶ岳を前にして居住し、本書を読んでしまった以上、読まざるを得ないのかも…。

<おまけの2>

2013年4月に起きた、霧ヶ峰の野焼きの延焼による景観変化と、その後の植生の比較写真です

本書と関連するテーマの本を、ご紹介。

標高1300mの小さな美術館に縄文への想いが集う(八ヶ岳美術館・原村歴史民俗資料館とハイウェイの沿線遺跡群展)

標高1300mの小さな美術館に縄文への想いが集う(八ヶ岳美術館・原村歴史民俗資料館とハイウェイの沿線遺跡群展)

冷え込む日の少ない今シーズンの冬。

その代わり、立て続けに降る雪のおかげて、八ヶ岳の山々は真っ白な状態が続きます。

南麓の方は気温も高く、降雪量も少なかったのでそれほどではありませんが、西麓の方は繰り返される降雪のため、八ヶ岳の白さも一際です。あいにくお天気が優れないのですが、それでもたっぷりと雪を戴く雪山を眺めるのは格別なものです。

曇り空の雪原と八ヶ岳八ヶ岳エコーラインから望む、八ヶ岳。

曇り空の雪原と蓼科山同じく、真っ白な蓼科山と北横岳。

曇り空の雪原と車山比較的標高の低い車山も山腹まで白い雪に覆われています。

八ヶ岳を愛でながら、更に標高を上げていくと、道路も一面雪だらけ。

圧雪の中をそろそろと上がっていきながら、本日の目的地に向かいます。

雪の八ヶ岳美術館庭園1車を駐車場に止めると、雪の中にブロンズ像が立ち並んでいるのが見えてきます。

雪の八ヶ岳美術館庭園2辛うじて除雪された庭園内の小路を登っていくと、ブロンズ像たちの先に、かわいらしい建物が見えてきます。

雪の八ヶ岳美術館庭園3サイロのようなアーチ構造の屋根が連なる、不思議な造形を持った建屋。村野藤吾の設計による独創的なデザインも、雪景色の中では、北欧を思わせるしっとりと落ち着いた感じを漂わせます。

雪の八ヶ岳美術館庭園と、みどりのリズム雪に覆われた建物の正面には、この施設を代表する逸品が屋外に展示されています。

長野県諏訪郡原村出身の美術家、ブロンズ彫刻家の清水多嘉示の代表作でもある「みどりのリズム」です。

ここは、原村に寄贈された氏の作品と、村が所蔵する考古資料を収蔵するために標高1300mという高地に設けられた村営の美術館兼、郷土資料館。八ヶ岳美術館(原村歴史民俗資料館)です。

八ヶ岳美術館玄関今日はこちらで催されている企画展「ハイウェイの沿線遺跡群」開催を記念して行われる講演会を聴講する為に訪れたのでした。

こちらの八ヶ岳美術館。美術館なら当然なのですが、八ヶ岳西麓にある縄文遺跡を扱った展示施設のうち、唯一館内の写真撮影が全面的に禁止されています。従いまして、館内の雰囲気を写真でお伝えすることは残念ながら出来ません(館長さんの目の前で、一眼レフを振り回しながら全力で撮影し続けられていた方もいらっしゃったので、許可は得られるのかと…)。

八ヶ岳美術館パンフレット1八ヶ岳美術館パンフレット2と、いう訳でパンフレットでお茶を濁すわけですが、レースが吊られたドーム天井から注ぐ柔らかな間接光と、スリット状に切られた欄間から真っ直ぐに射し込む西日に照らし出されるブロンズ像のコントラストが非常に印象的な空間であったことを述べておきたいと思います。館長さんのお話にもあった、天空をイメージさせる空間的広がりと、筒状に区切られた展示室の包まれ感が同居する、ちょっと不思議な展示室です。

そして、展示される縄文土器たちも、参加者の方が口にされていた、小粒だが良い物が揃っているという見解そのままに、他の2か所の考古館と比較すると展示数は圧倒的に少ないのですが、現代アートと言っても全く引けを取らない、独創的で高度な装飾を持った土器が揃えられています。

ハイウェイの沿線遺跡群講演会パンフそして、本日のメインイベント。期間中に4回設けられる講演会のオープニングを務める、当時実際に遺跡の発掘作業に携わった方による回想講演です。

講演会の参加者には写真にありますように、今回の為に新たに書き起こした発掘調査の記録一覧と、今では貴重な発掘調査終了後の1982年に開催された出土品展で配布された、遺跡及び出土物の解説資料がプレゼントされました。

講演会は美術館の展示スペースの一部を用いて行われたため決して広くはなく、座席も20名程度の参加者を想定されていたようですが、実際にはその倍に当たる、40名近くの参加者が集まりました。

参加されていた方の殆どは、地元の住民の方というより、縄文遺跡について非常に良くご存知の方ばかり(村野藤吾の建築に喜んでいるような私は、完全にアウェイです)。館長さんからの提案もあり(八ヶ岳美術館ルール)、講演中も自由に質問、そして講演後も展示物を廻りながら、存分に話し合いましょうというということで、この手の講演会としては、極めて活発な質問のやり取りが続き、和やかな雰囲気の講演は予定の2時間があっという間に過ぎてしまいました。

演者の方は何しろ40年前の発掘の時を思い出しながらの事ですので、全般的なお話というより、当時の記憶の強かったことを拾いながらのお話となったような気がします。実際に発掘に携わられた方でなければ知りえない、発掘時の御苦労や、発掘物の処理方法、そして、やはり自分で掘って見つけたいよとの想い。その中でも、阿久遺跡の特異性と、そこに展開された縄文文化への好奇心は、参加者の皆さんがいずれも強く惹かれるところであり、積極的な質問が繰り返されていたようです。依然としてここでしか発見されない環状集石群や、八ヶ岳を望む柱状列石の謎。他の遺跡を圧倒する芸術性の高い土器の数々(もちろん尖石も井戸尻も観ていますが、ここの土器の造形は素晴らしいです)。そして、この展示会のテーマとなってしまった「ハイウェイの下に眠る遺跡たち」への想い。現在ならば、強烈な保存運動が展開されたであろうこのような貴重な遺跡ですが、当時を知る方々の言葉を借りると、始めは保存されるとは思っていなかった、と。何しろ緊急を要する調査であり、僅か1年で原村村内全ての遺跡を調査せよという指示であったと述べられており、当時の緊迫感と、それでも余りに貴重な遺跡であったために埋戻しという選択肢が採られた事への感慨が述べられていました(同時に、もう少し時間があれば、もっと遺跡に対する知識があれば、良い発掘が出来たかもしれない。更には、全体が保存できればという想いも)

阿久遺跡1遠くに中央道を望む阿久遺跡の現在の様子。

右手に雑木林があるだけで、遺跡本体は遠くに望む中央道(水平に伸びる森に沿って走っています)の下に埋められており、二度と望む事は出来ません。館長さんも、もう一度発掘すれば判る事もあるのではないでしょうかと質問されていましたが、大分破壊が進んだ後に埋め戻された事もあり、列石などは取り除かれてしまっているため、もはや旧態を望む事は永遠に不可能となってしまったようです。

阿久遺跡2阿久遺跡の説明看板その1。

阿久遺跡3阿久遺跡の説明看板その2。

この看板が設置されてから既に20年が経過していますが、ここで述べられている整備事業は、残念ながら未だに実施されていません。今回、僅かに発掘された品々が県から地元に移管されたに過ぎません。

阿久遺跡望む冬の八ヶ岳連峰阿久遺跡から望む八ヶ岳の峰々。

縄文時代の人々も同じような景色を望んでいたのでしょうか。

八ヶ岳美術館前より遠望夕暮れの八ヶ岳美術館前より。

高く広がる空の下、雄大な八ヶ岳の麓に広がった縄文遺跡と、その発掘に苦心された方々の想いを考えながら。

豊富な体験施設と国宝土偶が迎えてくれる縄文文化の発信地としての尖石。小さく少々古びているが、藤森縄文文化論の根拠地としての独自性を見せる井戸尻。これら八ヶ岳の縄文文化を象徴するふたつの考古館と比べると、美術館との併設で規模も小さく、場所も不便な八ヶ岳美術館には、なかなか足を運ぶことは難しいかもしれません。しかしながら、原村に存在する縄文遺跡たちは縄文文化を語る上で、決して欠かせないもの。たとえ高速道路の下にその存在が埋められてしまったとしても、発掘成果と発掘に携わった方々、そして、その成果を引き継ぐ方々によって語り継がれる限り、この美術館(史料館)と貴重な遺跡は、縄文文化を語る上で欠かせない位置付けを成し続けるはずだと強く願いながら。

<おまけ>

本ページで紹介している他の博物館、資料館を。