今月の読本「黒部源流山小屋暮らし」(やまとけいこ 山と溪谷社)絶妙なタッチで描かれた、峰々の天上に披く季節を巡る観察記

今月の読本「黒部源流山小屋暮らし」(やまとけいこ 山と溪谷社)絶妙なタッチで描かれた、峰々の天上に披く季節を巡る観察記

久しぶりにとても気持ちの良い一冊に巡り合えました。

ここ数年、一時期の不振を振り払うかのような勢いで新刊を送り出してくる山と溪谷社さん。大ヒットとなった山怪を始めとした「黒本」シリーズに生き物関係や文庫に新書。もちろんメインラインとなる登山に関する書籍を含めて驚くほどラインナップが充実してきています。

本屋さんによってはヤマケイの本だけで小さなコーナーが出来てしまう程の充実ぶりの中、最近は広い読者層に向けた登山や自然に関するエッセイにも力を入れているようですが、その中からちょっと気になった今月の新刊から(今月は更にもう一冊読みたい新刊も)。

黒部源流山小屋暮らし」(やまとけいこ)をご紹介します。

著者のやまとけいこさんは美術家にしてイラストレーター。さまざまな出版物のイラストや美術館での展示作品もある方。その一方で、学生時代から山歩きと渓流釣りにのめり込み、美術を手掛けながら世界を廻りたいという夢を叶えるため、その元手を稼ぐ手段として山小屋勤めを見出された方。

根っからの山岳愛好家やアルピニストとはちょっと違う、山を生きる糧とする人々ともまた違う。山と登山、イワナたちが大好きで、それらを自らの生活サイクルの中にすっと組み入れてしまった著者による、黒部川源流の薬師沢にある山小屋を巡る、自らと其処に集う人々を綴る観察記。

通算12シーズン(冬季は閉鎖)に渡る実体験を綴る内容ですが、著者の手による表紙の可愛らしいイラストから察すると、中身もイラスト主体でかなり緩めなのかと思って読み始めたのですが、しっかりとした文体と内容にすっかり魅せられてしまいました。

軽やかでありながら落ち着いた筆致。イラストのイメージそのままに、時折くすっと微笑んでしまう内容も多く綴られていくのですが、山人らしいというのでしょうか、その視線は常に冷静さが保たれており、大きなトラブルも自らの想いを描く際でも殊更に誇張せず、自然に文中に収まっていきます。また、山小屋と言う限られた空間で繰り広げられる内容のため、登場する人物は必然的に限られますが、著者を含めて登場人物個人に視点を当てる事は少なく、あくまでも山小屋での日常シーンの一部として描いていきます。

黒部川源流の川縁に佇む山小屋を主人公にして季節を巡る、其処に集う人々と行き交う登山者たち。登山道、渓流、時にはヘリコプターと、舞台は時折変わりますが、そのいずれもが著者が愛おしく思う、傾きかけて床と机があべこべの向きを向いてしまうような山小屋があればこそ。バスが発着する登山口から片道7時間以上、深山の更に奥を行き交う事を許された限られた人々が集う、遥か峰々の向こうにあるもう一つの世界。

春の小屋開けに向かう富山地方鉄道の車窓から始まり、空が高くなり里より遥かに早く冬の足音が聞こえてくる体育の日の連休明けから始まる小屋閉めと下山の日まで。シーズンを通して彼の地に踏み入れた登山客と迎え入れる天上の住人達の日常風景をワンシーズンのスパンに収めて、朗らかに、しっかりとした足取りで綴っていきます。

シーズンを通して色々なテーマが描かれていきますが、著者は厨房長を名乗る為、一番の関心事は食糧。冬の間に忍び込んでは翌年の小屋開けの為に冬越しさせる貯蔵食料を食い荒らし、やりたい放題を尽くす野生動物たち。小屋を開けた後になると闖入してくるネズミやクマ!更には山小屋のマスコットでもあるヤマネが厨房や布団の上をおろおろと動き回る姿を、楽しくも時に少し厄介そうに綴る(鼠との我慢比べ、ちょっと楽しかったです)。あらゆる物資をヘリコプター輸送に頼る山小屋経営の厳しさと、傷みやすい野菜たちの保存方法や食材の仕込み量に頭を悩ませ、ハイシーズンになると起こるある「現象」に、ほんの少し申し訳なさそうな想いを語る。

また、知っているつもりでも山小屋ならではの生活の不便さやちょっと困った事(トイレやお風呂、お布団や居住空間)について、働いている側の視点で描かれる事は珍しいかもしれません。そして登山者を迎え入れる場所としての山小屋の姿。太郎平小屋を中核とした黒部山中の山小屋の歴史とそれを支え続ける山小屋で働く人々の姿。山小屋が単なる登山客の休養、宿泊施設ではなく、登山と言う人が山を往くバックボーンを支えている事を実感させられるシーンが描かれていきます。更には奥深い山中の山小屋と言う限られた空間故に、代わりを求める事も逃げ出す事も出来ない難しさを含めて、其処に集う人たちとの一期一会を大切にしたいという想いを強く重ねていきます。

黒部源流の山小屋と聞くと険しい渓谷を登り詰めた先、天上に拓かれた小さな宝箱のような別天地というロマンチックなイメージだけに目が行きがちですが、その足元にある山小屋の日常をしっかりと描き込んだ上で、ほんの少しのお休みには人と共に源流を生き抜くイワナ達と戯れ、山を歩く姿に瑞々しい天上の息吹を載せて。

微笑ましさと爽やかな川面を渡る風の様に心地よい読後感を与えてくれた一冊。素敵なイラストと文章たちへ殊更に魅せられたのは、流麗な文章以上に同年代の著者が描き出したその世界に、ほんの少し眩しさを感じているからなのかもしれません。

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