今月の読本「外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)生物多様性の対極にある西の島国から発する、人が為す意味付けの反意

今月の読本「外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)生物多様性の対極にある西の島国から発する、人が為す意味付けの反意

最近特に話題となる事が多い、この単語。

我々の日常生活でも、気に掛けるシーンが随分あるかもしれません。

そのようなきっかけ、気づきを得た場合、我々が感じる感覚、感触が複数の人々の間で奇妙に同期したとき、大きなムーブメントとなって社会や行政が大きく動き出す時があります。特にネット社会と叫ばれるようになった昨今、そのようなムーブメントが巨大な力を得た時、言語的、物理的な暴力となって、制止出来ない暴走に繋がる事すらあります。

そんな時、複数の見解、カウンターとなる見解を持ち得る事は、物事を客観的に判断する際に特に大切な事。たとえ反対意見であっても、傾聴に値することには真摯に向き合う必要がある筈です。奔流の如く流れ込んでくる情報を捉える時に重要なのは、即断せずにより良く多く読む事。依然豊かな出版環境に恵まれた極東の島国には、多くの出版社と優れた翻訳者の方々が存在する事で、世界中の知識を母国語で触れられるチャンスがたくさん存在しています。

今月の読本は、そんな時にカウンター的な見解を大上段に掲げて論争を挑んだ、ある英国の植物学者が2冊目として上梓した、イギリス人らしい、物事を見る、考える側面を痛烈に突く一冊のご紹介です。

外来種のウソ・ホントを科学する」(原題:Where Do Camels Belong? ケン・トムソン:著 屋代通子:訳 築地書館)です。

邦訳題名より、よほど原題の方がその内容を痛烈に表しているようです(邦訳:ラクダは何処から来たか。答えは北米原産で、自然繁殖しているのはオーストラリアのみです)。

本書は、2011年に雑誌「ネーチャー」に掲載された論文「生物を出生地で裁くなかれ」を執筆した18人の共同研究者を代表して、英国シェフィールド大学で教鞭を執る著者が、一般向けにその趣旨を、敢えて対抗する議論へぶつける形で執筆した物です(なお、前述の論文を発表した直後、実に141人の研究者が連名で反論の書簡を発表したそうです)。イギリス人らしいウィットと厳しいジョークが最大限に似合うであろうテーマ構成、文体がこれでもかと続く本書を読み抜くには、そのページ数を含めて(本文288ページ)、ナイーブでせっかちな、更に読書時間も限られている日本人にとって、たとえ手に取ったとしても読み抜くにはかなりハードルが高い一冊かもしれません(訳書であるという点も加味すれば尚更)。更に、読者がこのテーマに期待する何らかの結論について本書は一切語ってくれないどころか、その期待する結論なるものを読者が安易に持たない事を著者は切実に望んでいます。

ではなぜ、このような暴論を企てるような一冊を送り出したのか(正確には2冊目)。それは著者の経歴を考えると良く判ります。著者の専門は植物学で趣味はガーデニング。良く知られているように、徹底的な環境の人為改変が進んだため、世界で最も在来種が少ないとされる(約1500種、高尾山の一つでそれを遥かに上回るとよく比較されます)島国、英国。その反動として、自然保護政策や在来種管理では世界的に最も進んだ政策を展開しており、更にはそれらに携わる研究者の数も他国を圧倒しています。そのような環境で教鞭を執り、庭園を愛する著者があらゆる事例を通して述べていく事、それは所謂外来種による影響と言われる一連の研究結果やデータ、マスコミ等で伝えられる報道の大部分が、アイコンとしての外来種に囚われ、短絡的に着目しすぎているという点を明確にするためです。

まず、著者は外来種に対する最もインパクトのある活動である駆除について、孤島やサッカー場程度の面積までであれば効果があると認めますが、それ以上の範囲に広がった外来種を駆除することは現実的にも経済的にも不可能であると述べていきます(それ以上の範囲で行った駆除効果と環境変化とを分離して評価する事は出来ないと)。更に、人為的な駆除の限界を悟った場合に導入される外敵の導入による撲滅についても、単純な確率計算上の結論同様に、導入した場合の16%については定着に成功する可能性があるが、その場合でも撲滅は出来ず、せいぜい共存する程度であると明確に突き放します。つまり、一度入ってきた外来種を人為的に駆逐することはほぼ不可能であると看破します(それでも膨大な資金と安全性評価の時間を投じて、日本から外敵種の導入を図る実験を進めている例を紹介します)。

一方で、その侵入から定着についての視点も明確に述べており、大英帝国時代に世界中にまき散らしたヨーロッパの動植物の導入記録(従って、年号まで確定できてしまう。ヨーロッパ内での移植種でも同じ)から、100個体未満であれば定着がおぼつかない一方、それを越えると、適当な環境が存在すれば確実に定着が進むと指摘します。また、導入を伴わない侵入の場合、その種の遺伝的多様性は極めて貧弱であり、適応出来た場合は一気に増加する一方、何らかの阻害要因が生じた場合には一気に減少に転じるという、増加と減少の特異性(中にはナミテントウのように、パージングという小個体群特有の超越法を具えている例も)が付きまとう点も指摘していきます。

これらの動物、植物学的な定着/放散過程について、専門家としての明確な視点を与えていく一方、本書はより根源的な外来種の問題点を指摘します。

それは、外来種と枠組み付ける物が何処まで行っても「人為的」選択の結果である事。在来か外来かの定義は全く以て後天的(イギリスの場合は15世紀以降、アメリカは物凄く判りやすく、コロンブスの「発見」1492年で線を引く。日本ならさしずめ、ペリー来航でしょうか)であり、生物学的な論拠とは言えない点。在来種より目立つ事、その特性として一気に増えるために目立つ事、自国原産、「在来」種というその地に住む人々の感性で容易に変化する枠組みである事。経済性を阻害する種である事(これは雑草や、漁獲、養殖を阻害する種であれば、在来種ですら容易に外来種と曖昧になる)。それが、人為的導入種であれば、その益害(当初の想定を逆転して害が上回ると判断された場合は更に)によって簡単に逆転してしまう事を示していきます。

更には、これらの外来種の在来種への影響について、多くの事例から生物多様性との相反に基づき、2項対立で評価を行う多くの外来種の影響評価には誤りがあり、環境系全体で俯瞰した場合、外来種が他の種類の植生を圧倒するのは一時的であり、その後の植生は多くの場合、外来種が侵入する前より豊かになる(特に外来種が侵入する様な脆弱な環境では)点を採り上げて、外来種の問題も、逆の立場となる在来種の場合でも、その種を用いたスケープゴートとして祭り上げている点に強く警鐘を鳴らしていきます。この議論を推し進めた先に、過去に環境が殆ど人為的に改変された英国らしく、在来種が本当に絶滅の危機に瀕しているのであれば、それが地球環境の変化によって生じる大きな変化の過程で生じていると判断できるのであれば、現在の生息場所に拘らず生息可能な場所へ人為的に移植することを否定してはならないと、その適用可能性の例までも示します。

著者は『沈黙の春』やダーウィニズムを採り上げて、それらに逆行する様な外来種を魔女狩りのように駆逐するために膨大な資金と労力を投じ、人為的な区分によって作られた在来種だけを囲い込むように保護する活動や、それらに対して学術的に不均等な示唆を与える事に対して、リンネ、ダーウィン以降が積み上げてきた自然科学に対する逆行だと強く非難し、我々は外来種の侵入を予測制御できる「聖杯」などを手にする事は出来ず、生態学に過剰な期待を持つことを止めてほしいと、研究者への過大な期待を持たれる事すらも拒否します。

あらゆる事を拒否してしまう本書。では、著者の本当の想いは何処にあるのでしょうか。

それは、要所要所に伏せられていますが、かつて世界を蹂躙した英国人だから立ち得る境地。外来種がはびこる場所、外来種が辿るルート、そして外来種を駆除しようとする場所。全てに於いて、其処に人の存在が介在している点です。ネイティブアメリカンが入植者たちが通った道筋を称して「白人の足」と呼んだように、ミツバチを「イギリスの羽虫」と呼んだように。人によってもたらされた自然の改変を、果たして人が御し得るのか。それが如何に難しい事かは多くの事例が示していますし、本書に於いても外来種の駆除の殆どが無駄に終わる点を明確に示していきます。その一方で、本書の原著題名に示されるように、著者が指摘するように、古生物学における知見から行けば、人が有する時間軸が変化として捉えている事象はスナップショットに過ぎず、環境の激変と捉えられる事象も、捉えらた時点における過程の微分を述べているに過ぎません。森林更新に極相がある一方、極相自体も時に一斉に更新される事は既に指摘されており、そのスタート時点において最も優勢なのは、外来種や在来種という枠組みではなく、極限的な環境に適応した先駆種であるに過ぎません(これは山の崩落地に落葉松がしがみ付く様にヒョロヒョロと育っている様子を見た事があれば、容易に理解できるはず)。そのような人為的な環境破壊を含む極限的な環境、更には農地やコンクリートで固めた護岸など限定的な環境に、人と一緒に(靴や衣服、作物種子を媒介に)渡ってきた外来種が優先して優勢となるのは当然であり、これを以て外来種が悪で、在来種が正であるという2元論は稚拙であるという点を、しっかり理解して欲しいという想い。

人がその営為を為す限り、その活動に付いてくる外来種の放散は決して止まらず、一度侵入した外来種はその環境の中で多様性の一翼として調律されるまでは、人為的な放伐はほぼ無力である事を明白に示し、その上で、過剰な発言や偏向、無意味な対策への浪費に対して、例え研究者が相手であっても、厳しい警鐘を鳴らす本書。

著者が願う、外来種の問題をより深く議論するテーブルに着くためには、イギリスの皮肉たっぷりに、黄金の時代にしがみ付いたと称する、時代が造ってきた時計の針を逆戻りさせるのではなく、もう一つの得意である、スコッチのようにじっくりと時をかけて、まだまだ数多くの議論と検証を闘わせ続けなければならないようです。

誰もがその議論に振り回されないよう、しっかりとした足腰を鍛えるための一冊として。

 

<おまけ>

本書に関連する書籍をご紹介します。

今月の読本「ウナギと人間」(ジェイムズ・プロセック:著 小林正佳:訳 築地書館)その神秘の魚は人と人が交わる中で密やかに物語を語り出す

今月の読本「ウナギと人間」(ジェイムズ・プロセック:著 小林正佳:訳 築地書館)その神秘の魚は人と人が交わる中で密やかに物語を語り出す

今年もこれから夏に向けて、あらゆる意味で再び話題となりそうな魚、ウナギ。

世界中のウナギを掻き集めて消費している日本人にとって、これから目の前で繰り広げられる狂想曲と、産卵場所探しや生育環境、更には人工養殖と飽くなき研究へのまい進。ウナギにまつわる物語の殆どがこの国にいれば把握できてしまうように思えてきますが、果たしてどうでしょうか。

サーモン、タラと並んで世界中の人々が好んで食する珍しい魚であるウナギ。その神秘に満ちた一生と特異な姿、人をも凌駕する長寿を誇る生態に魅せられたのは日本人だけではない筈。

そんな想いを改めて思い起こさせる一冊をご紹介します。

自然科学関連で、他の版元さんには見られないユニークな本を送り出してくる築地書館さんの最新刊からご紹介です。

ウナギと人間今月の読本、「ウナギと人間」(ジェイムズ・プロセック:著 小林正佳:訳)です。

本書を手に取られ、表紙や裏表紙に書かれた概要を読まれた多くの方は、おやっと思われるかもしれません。

著者があとがきで述べているように、そしてあとがきでまだ書き足らない想いを埋めるかの如く綴るヨーロッパにおけるウナギ料理の話や、ウナギのヤスのコレクションの雑感に観られるように、本書は当初、訳本に多くあるウナギをテーマにした広範囲な分野をカバーする文化史、生態学を纏めた一冊にする意図があったようです。日本の著作では珍しい、しかしながら訳本では当然とも見做される科学と文化の双方をカバーするウナギの概説書としての体裁。ところが、11年にも渡る取材の結果纏められた本書は、そのいずれにも当てはまらない内容へと着地しています。

著者は著名なアングラーであり、パタゴニアの創業者とコラボレーションを行うナチュラリストとしての側面も有する、自然科学関連ではかなり著名な方(本書の取材に於いても、ナショナルジオグラフィック協会の支援を受けた事が記されています)。多くの生物に関する著作を有する彼が本書で辿り着いた地平は、ウナギの物語ではなく、ウナギを挟んで語り合う著者と登場人物たちの人と人の物語。

冒頭と中盤に分けて描かれるサルガッソでの産卵場所の追跡や、シラスウナギのバイヤーの遍歴、中間に差し挟まれた、現:日本大学の塚本教授との語り合いの部分だけ見ていると、ライターの方が書かれた、良くあるウナギの不思議物語を読んでいるかにも思えてきます(塚本教授の印象を傍点付きで語る著者の視点には、氏の著作を複数読んだ身として深く同意するところです)。ウナギの生態や食材としてのウナギ、更には研究の物語など魚が好きな方なら思わず喜んで読んでしまう内容も豊富述べられています。

その一方で、3章から始まる(訳注を見ると、原著では3,4章で一つの章だったようです)マリオとウナギの物語を読んでいくと、その民俗学的なアプローチとルポルタージュ的な体裁の記述に困惑されるかもしれません。民俗学的なテーマを掲げた本では良く見られる、取材する側と取材される側の葛藤や迂遠に引きずり回させる回答への道筋、相手に徐々に呑まれていく著者とすっきりしない結末など、ウナギの生態や物語を知りたいと思われる方にとっては、時に苦痛すら感じる内容かもしれません。更には、アメリカの人里離れた川縁で大きな簗を毎年のように組み直しては、秋の増水時期に降下するウナギを待ち望む世捨て人のような燻製作りの男との会話、そして登場人物たちに誘われるように向かったポンペイでのウナギの伝説を追い求め、夜な夜なサカウに浸っていく著者と、そのアプローチに興味を抱き協力する若いCSPの職員。

ここまで読んでいくと、本書が単にウナギの物語を語っているとは思えなくなってきます。初めは乗り気ではなかった、あまり興味のなかった11年前の著者と、溢れるばかりの書き切れない内容をあとがきに綴り、それでも興味が留まるところを知らないと述べる著者。ウナギに魅せられていった著者と、おなじように著者が訪れた世界中の場所で、ウナギに興味を持ち、惹かれ、魅せられ、研究され、信仰し、神聖視し、恐怖し、稼ぎ、食し、育む…著者と交わった人々の物語。

春になると、金が舞い飛び密漁を含め多くのシラスウナギが東アジアに集結し、熱暑の時を迎えると、極東の島国に集められたウナギたちは鮮やかな手つきでかば焼きに仕立て上げられる。一方で、紫外線照明が降り注ぐ研究室ではシラスウナギの稚魚が水槽の中を舞い、雄ばかりの奇形ウナギにホルモン注射を与え続け、南の海では「科学者」でありつづけたい男たちが政府の資金でその産卵場所を嬉々として追う。

秋になれば、ニューヨークの奥地の川では黙々とひと夏をかけて巨大な簗を仕掛けた男が息子と二人、嵐の到来を待ちわび、南半球では、何十年もの間、川や湖で過ごして巨大に育ったウナギたちが満つる時を悟るかのように砂洲を越えて海に帰る時を男たちが見守る。その横で彼ら、彼女らが紡いできた物語に寄り添うかのように、窪地の水たまりに潜む巨大なウナギに餌をやり、時に手を差し伸べ、さするように愛おしむ人々。学問として語り継ぐことを決心した次の担い手たち。そして、南の島で自らの起源と生誕を来た道をその不思議な生き物に重ねて物語を編み、そっと伝えていく人々。

ウナギを介して交わった人と人の物語を編み重ねて綴られた本書は、その未だ生態の全容も判らず、生まれいづる場所すら容易に明かそうとしない、ウナギ自身の神秘のベールのように、著者の秀逸な筆致に載せて、大洋のようなその世界の広さを往きつつ、大海を渡って河口に辿り着いたシラスウナギを掬うかのように、僅かに捉えた事実をほんの少しだけ我々に垣間見せてくれるかのようです。

 

<おまけ>

本ページでご紹介している関連する書籍を。

今月の読本「航海の歴史」(ブライアン・レイヴァリ著 千葉喜久枝訳 創元社)それでも海を往く

今月の読本「航海の歴史」(ブライアン・レイヴァリ著 千葉喜久枝訳 創元社)それでも海を往く

購入してから一か月余り。

遥かイギリスを船出したこの一冊が、難波の書肆によって訳された後、この山奥に辿り着くまで随分の時間を経ているかと思いますが、読むのにもそれなりに骨が折れる大ボリュームに嫌気がさして、他の本に浮気をしながらちょっとずつ読み進めて漸く読了するという体たらく。

ボリュームだけではありません。何せ4000年にも渡る歴史を綴っているので、頭の整理を考えても一気読みは到底叶いません。細かく分けられたセクションを日によっては1つだけ何とか読んだり、ちょっと固まった時間が取れた時には一気に一章読んでみたりと、変化を付けながら漸く読み切ったといった今回の一冊。

航海の歴史航海の歴史」(ブライアン・レイヴァリ著 千葉喜久枝訳 創元社)です。

著者はイギリスでは有名な考古学や海洋関係の書籍、TVの製作に携わっている海洋史家(この職業自体、日本にはありませんよね)。七つの海を制覇したイギリスが誇る、グリニッジの国立海洋博物館名誉学芸員の称号を持つ、本書のテーマを扱うには最も相応しいと思われる方が書かれています。

従って、本書の内容もイギリス中心で描かれてはいますが、他のイギリス人作家の作品にあるような、がちがちのイギリス中心主義でない点に興味が惹かれます。それは海洋史のルーツからすれば、初期の歴史においてイギリスは辺境に過ぎず(バイキングに荒らされる側)、海洋世界における覇権を握ったのは、せいぜい17世紀以降。しかも20世紀の終わりにはその帝国もすっかり縮小しており、既に主役たる位置には立っていない事を冷徹に見据えて描いているようにも思えます(フォークランド紛争の記述など、記述自体が常に公平だとは言えませんが)。

本書が扱う航海の世界は、時間軸ではポリネシア人たちの太平洋をカヌーで渡る物語から始まって、ソマリアの海賊問題までの4000年以上、空間軸は地中海から始まって太平洋に至るという、ヨーロッパの海洋史で扱われる世界観そのままですが、中には鄭和の大航海が差し込まれていたり、ペリーと日本開国の物語(その後の真珠湾攻撃を評して、屈辱を晴らすと書かれている点が実にイギリス人的な表現)が語られたりと、航海の世界におけるインパクトの強いトピックへの配慮も忘れていません。

総ページ数400頁。全6章44のセクションで綴られる本書は、豊富に挿入される美しい図表を眺めながら、歴史を追って航海にまつわる物語を楽しむ…と言いたいところですが、そこに描かれる世界は全く以て魅力的ではない、むしろ嫌悪感の方がよほど大きい物語が延々と綴られていきます。

人にとっては全く快適ではない揺れる船上に閉じ込められた乗船客を支配するのは、荒くれ者の集団である男たちと、その指揮下で喘ぎながら働き続ける奴隷たち。乗客の運命は気まぐれな海の天候同様に常に彼らの気分次第。運ばれる品々は黄金であったり貴重な産物であることもありますが、時にはぎゅうぎゅう詰にされて新大陸へと渡る移民たち、時には新大陸で略奪した金品の数々、そして人として扱われることのない奴隷をぎっしりと詰め込んで大西洋を渡る三角貿易。私掠船免許を振りかざして跋扈する海賊に、更には繰り返される戦争、戦争、また戦争…。

もちろん、クックの太平洋探検や蒸気機関による大西洋横断の偉業(そして余りにも悲惨な物語も)。そして近代に入るとサミュエル・プリムソルのプリムソル標の話や、荷揚げの効率化の究極を目指したコンテナ(しっかり中核港の移転や港湾労働者の失業にも触れている点は流石)。科学的側面での探検や深海探査、更にはアメリカズカップなどのスポーツとしての海の話も出て来ますが、本書の大部分はロマンチシズムとは無縁の、戦いと略奪、欲望の物語に彩られています。

その戦いの歴史は、如何に長距離から相手の船を打ち負かすか。海賊の如く直接乗り込んで戦う白兵戦から、砲が生まれ、船べりに並べられた大砲を放ちあう平行戦。そして、有視界いっぱいの距離から放たれる巨砲による砲撃戦と弩級戦艦の登場。空母と航空機による爆撃による、有視界外から攻撃するという海上戦の一変(ここで旧海軍の対馬沖海戦によるバルチック艦隊との史上初の近代海上戦と太平洋戦争時の空母航空戦の優劣を決したミッドウェイ海戦が語られます)。遂には、長距離ミサイルを搭載した中型艦艇同士の射程外でのにらみ合いと、弾道ミサイルを搭載した無限の航続力を有する原子力潜水艦が対峙することで、双方が決定打を失った現代の海上戦。

乾燥した戦いの物語が多く続きますが、それぞれの物語ごとに登場人物がその背景を語るように描くことで、無機質とならないよう、そして現実感との遊離が起きないように配慮された筆致には好感が持てるところです。そして、嫌悪感すら感じられる物語が続くのにも拘わらず、どんどんと海上で繰り広げられる物語に引き込まれてしまいます。どうしてなのだろうと考えていた時に、本書の最後のセクション(ソマリアの海賊問題)で語られる人質のドイツ人船長の言葉が極めて印象的でした。悲惨な人質生活から解放された彼が語った言葉は

「海の生活をやめる気はありませんでした・・・海賊のために自分のキャリアを変えられたくはありません」

その想いは、冒頭のポリネシア人が海に出ていく際の言葉と呼応します。汝は海へと駆り立てられと唄われる哀歌そのままに、人とは目の前に海を見ると、沖へと漕ぎ出したくなる性分のようです。その苦しみの果てに得た物語の数々を紡ぎながら、決して人には征服する事の叶わない海への憧れを抱いて。

<おまけ>

本書の版元さんである創元社は、日本の著作にはない、コレクションしたくなるほどの美しい装丁と図版、広範なフィールドを文化論として扱う、知的好奇心を揺さぶる海外著作の翻訳本を多く取り揃えています。特に有名なのが「知の再発見双書シリーズ」かと思いますが、他にも「地図と絵画で読む聖書大百科」なんていう、こちらもお腹がいっぱいになってしまう本も扱っていたりします(写真は普及版なのですが、それでも価格の点ではお財布が痩せまくりです)。

航海の歴史と聖書大百科本ページで紹介している、訳本や本書のテーマに類似する書籍を。

今月の読本「オン・ザ・マップ 地図と人類の物語」(サイモン・ガーフィールド:著 黒川由美:訳 太田出版)マッパ・ムンディから広がる、地図という名の人々の物語達を

今月の読本「オン・ザ・マップ 地図と人類の物語」(サイモン・ガーフィールド:著 黒川由美:訳 太田出版)マッパ・ムンディから広がる、地図という名の人々の物語達を

地図を見るのは好きですか。

美しい色彩の地図の中で旅をする。見た事もない土地に想いを馳せ、道のりにワクワクする。複雑な地形に感嘆し、雄大な山並みや広大な平原に圧倒される。

地図を眺める事そのものが旅をしているかのような錯覚を受ける事もあるかもしれません。その時、ご覧になっている地図を作った人達の想いに、ほんの少し触れているのかもしれません。

全ての地図は、誰かが何かの為に作るもの。今回は、歴史上、営々と作られ続けたそんな地図の物語を怒涛の如く詰め込んだ一冊をご紹介します。

オン・ザ・マップオン・ザ・マップ 地図と人類の物語」(サイモン・ガーフィールド:著 黒川由美:訳)です。

著者はイギリス在住のジャーナリスト、作家の方で、地図の歴史に関する専門家でも、地理学の研究者でもありません。従って、読者の方がちょっとだけ緊張するかもしれない、難解な図法のお話は殆ど出て来ません(メルカトルの紹介の部分で、比較として扱われるだけです)。

総ページ数418ページ。図表100点以上という、大ボリュームで地図にまつわるあらゆる物語を、それこそ絨毯爆撃のように語っていきます。そこに は、訳本ならではの共通する知的教養を下敷きに展開する、著者と読者との知的好奇心のせめぎ合いが展開していきます。訳者の手により丁寧で優しい文体に均されてはいますが、この広大に広がる地図にまつわる物語達についていけるか、楽しめるかはひとえ に読者の好奇心の広さとその基盤にかかっています。

本書では全時代の世界を股にかけた広範な物語が描かれていきますが、一方で、英国基準で描かれる訳本ゆえの限界もあります。従って、本書から日本での事例や雰囲気を味わうことは全く出来ない事も、併せて述べておく必要があるかと思います(言及としては、僅かに3か所。ロンドン在住のタイポグラフィックデザイナー河野英一が、ロンドン地下鉄の路線図を使って遊んだ「書体の路線図」(本書で登場する唯一の日本人)。慣性航法型とGPS型のカーナビがいずれも日本で実用化された事と、Googleストリートビューの取材車がsubaruである事)。そのため、地図は大好きでも、ヨーロッパの地理や歴史に興味が無い方にとっては少々つまらない一冊になってしまうかもしれません。

そして、本書の特徴は地図の歴史を描く以上、プトレマイオスの「ゲアグラフィア」から物語をスタートさせますが、流石に英国人らしく、もっと別の地図を物語の中核に置いていきます。ヘレフォード大聖堂に収められる「マッパ・ムンディ」です。

この、方位も地形もあいまいな地図。しかしながら、非常に微細に描かれた建物、珍妙な動物たち、そして、びっしりと書き込まれる道程と地勢の解説文(もちろん内容は大幅に歪んでいます)。この地図こそ、旅をするための道筋を辿るもの。地図の図法も、描画方法も、記述もすべて本来は旅をする人の便の為に作られたことを、またはその地図を眺めながら旅程に想いを馳せるために作られることを明快に表してるようかのようです。

本書はこの「マッパ・ムンディ」の数奇な物語を起点として、西洋における地図に纏わる物語を紐解いていきます。ただ、何せ22ものストーリーと、ポケットマップと称される15本のコラムが山脈の如く連なっていますので、本書の全容を一気にご紹介することは少々難しいところです。

まだ世界を描き切れていなかった頃の物語と、幻の土地たち。そして、その幻の土地を描くために格闘した人々と、そのれにまつわる、現代まで続く極めて人間臭い物語(アメリゴの売名行為に始まって、世界最大の地図帳の記録更新(但し、使い物にならないとのギネスの烙印付き)、ヴィンランドが描かれた地図の真贋やアンティーク地図取引と盗品売買)。人の欲望と疑念渦巻く幻の地図たち(宝島や幻の山々、南極点への地図、更にはモノポリーやリスクといったゲーム中のマップ)。多くの人々に愛されるようになった地図たちの作成者の想い(ロンドンAtoZに旅行ガイド、芸術品となった大型地球儀)。そして、地図を通して事実を表していく大切さ、難しさ(メルカトルが開いた「アトラス」への道程。三角図法とシティマップの作成。その上に展開させたコレラの感染地図)。中には、女性がなぜ地図を読めないかという問題とカーナビの普及に関する論考などという、皆さんが興味津々となるテーマも扱われています。

地図によって物語が広がり、地図によって人々は旅の足掛かりを得て、そして地図の中を旅していく。本書の巻末まで読み進めていくと、その旅路は紙の地図はおろか地球をも飛び出して、火星の運河から火星人の話、ネバーランドの地図、ゲーム中のバーチャルマップを旅する想い、更にはそれらを想い描いていく人の脳内マップまで突き進んでいきます(この辺りの著者の興味の広さは、流石に訳本ならでは)。

人類の歴史と同じくらいの長さを有する、人が自らの場所を示し、旅する想いを描き続けた地図という名の物語は、カーナビとデジタルマップの普及により、そのような自らの力で探し当てるという行為自身が無くなってしまうのではないかという、著者の若干の危惧を添えながらも、その地図の中を旅する人々と共に、今も果てしなく広がり続けているようです。

<おまけ>

本ページで扱っている、地図にまつわる本や、関連するテーマの本、訳本のご紹介を。

今月の読本「「食」の図書館 鮭の歴史」(ニコラス・ミンク著、大間知知子訳 原書房)天から授かった最高効率の食材は保存の術と共に世界に広がる)

今月の読本「「食」の図書館 鮭の歴史」(ニコラス・ミンク著、大間知知子訳 原書房)天から授かった最高効率の食材は保存の術と共に世界に広がる)

最近非常に増えてきた、食材そのものをテーマにした書籍。

中でも、最近精力的にシリーズを展開しているのが、原書房の「食」の図書館シリーズ。

原著はイギリスのReaktion Books社から刊行されている「Edible」というシリーズ。全51冊に渡るシリーズのうち、これまでにもパンやカレー、お茶、スパイス、ビールにジャガイモと様々なテーマの作品を邦訳として送り出しています(ちなみに原著シリーズには餃子もあったりします)。

今回は、その中からまさかの、そして嬉しい一冊が邦訳として登場しました。

鮭の歴史

鮭の歴史」(ニコラス・ミンク著、大間知知子訳)です。

著者はインディアナに在住し、アラスカのシトカを拠点にして活動する作家兼、環境保護運動家とも捉えられる立場にある人物です。

タラと並んで、洋の東西を問わずに豊富に料理に用いられる珍しい魚であるサーモン。本書はアメリカ人、それも過去にはもっとも多くのサーモンを世界中に送り出していたアラスカを拠点とする著者から見たサーモンの食材としての歴史を紐解いていきます。そして、本書ではターニングポイント毎に最大の魚食民である日本(そしてアイヌ)が関わってきます。

著者の鮭への心象は、実際に多くの鮭類が遡上するアラスカ在住らしい想い。そこに住んでいるだけで、毎年同じ時期なると、必ず川一面に遡上して易々と得る事が出来る最高の栄養源。川を故郷とし、海の豊富な栄養をたっぷりと蓄えて再び川に戻ってきてくれる。これさえあれば、厳冬のアラスカでも、シベリアでも、北大西洋沿岸でも、そしてアイヌの地でも安心して冬を越せる、天からの恵みの魚。

そんな天からの恵みの魚は、ある時期に大量に獲る事が出来るため、獲る事と同時に獲れたサーモンを保存することが求められていきます。そこで、著者は食べる事とはすなわち保存する事であると述べていきます(これは文明の発達が、貯蔵可能な食物と軌を一にする事と同じ理論ですね)。

一度に多く獲れるサーモンの保存方法。塩漬けからオイル漬け、お馴染みの燻製、中には極地ならではの地中に埋めての保存など…。人々は知恵を絞って保存方法を考え、余ったサーモンは交易の産物として広まっていきます。そしてナポレオン戦争を契機に発達を始めた、密封して湯煎することで保存期間を大幅に伸ばす方法。すなわち缶詰の登場の登場によって、サーモンは一躍世界中の食卓に上ることになります。

どんな時でも使えて、どんな辺鄙な場所にも持って行ける。時にディナーの席上で、時にキャンプ、そして戦場で…。あらゆる場所で缶詰のサーモンが活躍していきますが、著者はちょっと大げさに「鮭の缶詰は時代の先端の食べものであり、当時の大きな社会的、政治的な変化に乗り遅れたくないと考える市民は、料理の面では缶詰さえ食べていれば安心していられた」と評していきます。

そこまで書かなくとも、当時の北大西洋、そしてアラスカから世界に送り出され、更に日本もその波に乗って一大缶詰輸出国となった点では、著者が指摘する通り、サーモンは魚食文化という枠を超えて、缶詰と共に、あらゆるレシピを膨らませながら世界中に受け入れられる食材になったといえることになります。

その缶詰としてのサーモンの曲がり角に再び現れるのが、日本。サーモンの次に缶詰として送り出したツナによって、サーモンの缶詰は徐々にシェアを落としていきます。更には、ボツリヌス菌騒ぎ(と、本書では出て来ませんが200カイリ問題も)が止めを刺すように、サーモンの缶詰は斜陽の一途を辿っていきます。

このままでは、サーモンの食材としての歴史が終わってしまうように見えますが、更に大の魚好きである日本がこの窮地を救う事になります。舞台は北太平洋から再び大西洋に移って斜陽を囲っていたノルウェー、更にはサーモン類が本来生息していない筈の南米へと移っていきます。日本人が大好きな生食をサーモンで実現した冷凍輸送と養殖。アラスカをベースとする著者は、キングサーモンの濃厚かつ野性味あふれる歯ごたえこそが最高であると訴えますが、一方で養殖業者と水産加工業者が大規模に開発した、淡泊で脂がのった養殖のアトランティクサーモン(銀鮭も同じでしょうか)が日本人の味覚を捉えたことを冷静に述べていきます。ノルウェーに始まり、世界中を席巻する生食サーモンによって、鮭料理のレシピから缶詰の鮭が消えていきます。

缶詰を主力としていた故に、置き去りにされてしまったアラスカのサーモン。著者はその盛衰と現在起こっている新たな流れ、養殖に対するアンチテーゼとしての「天然産」表示と、更なる加速を掛けるべく認証を待つ「遺伝子組み換えサーモン(認証されれば世界初の動物性遺伝子組み換え食品になる)」に対して、どちらももっと考えるべきだと述べていきます。

本書は食材としてのサーモンを取り扱っているので、漁業自体に否定的な著述を用いることはありません。その上で、最後に述べる著者の言葉は極めて示唆的です。

著者は現在アラスカで進められている遺伝子組み換えサーモン(アクアアドバンテージ・サーモン)に対してこのように述べています。

—引用ここから—

…そう考える人々は、天然鮭の本質と、それが人間にどういう意味を持っているかは、この魚を食べたいという世界的な欲求次第で変わるという事実を見逃している。

この欲求がなければ、鮭の生息地を守ろうとする政治的な意欲や、複雑な科学的問題を解決するために具体的な手段を取る理由もなくなる。そうすれば天然の鮭が持つ文化的な力は、鮭の塩漬け工場がたどったのと同じ道をたどるだろう。鮭を食べたいという欲求があればこそ、地元の海岸から遠く離れた場所で獲れる天然の生鮭の味を知ったときに感じる魔法のような力が生まれるのである。

—引用ここまで—

現在、ウナギの資源保護で問われている問題と全く同じ命題が問われている事に驚きを禁じ得ません。単なる禁漁や、代替資源の開発、完全養殖では、食文化としての漁獲から料理に至る一連の繋がりは途絶えてしまう。自然の恵みを最も効率的に我々に届けてくれる、素敵な魚を何時までも美味しく頂くために。本書は食材としてのサーモンの歴史を語りながら、もう一つの事実を冷静に問いかけてきます。

<おまけ>

本ページより、本書の同じようなテーマを扱った本をご紹介します

今月の読本「イチョウ 奇跡の2億年史」(ピーター・クレイン/矢野真千子訳 河出書房新社)人の手によって世界中に広められた最古の樹木と日本の深い関わりを

今月の読本「イチョウ 奇跡の2億年史」(ピーター・クレイン/矢野真千子訳 河出書房新社)人の手によって世界中に広められた最古の樹木と日本の深い関わりを

秋も深まってくると、街路を黄色に染めるイチョウの黄葉は都市部に住んでいる方にはお馴染みの風景。

何処にでもある、ありふれた街路樹に思えるイチョウですが、実は野生種は殆ど存在せず、人為的に広められた樹木である事をご存知でしょうか。そして、英語での名称「ginkgo」。ギンコーと読ませるらしいのですが、どこかで聞いたようなフレーズではないでしょうか。「銀杏」=「ぎんなん」≒「ぎんこー」なのです。日本語の名称から英語名に伝わったことからも判るように、この樹木が世界中の街路を埋め尽くすようになった起源は日本にあったのです。

そんな、日本ともきわめて深い関係にある印象的な樹木の物語を、一般読者向けに大ボリュームの一冊に纏めたのが今回ご紹介する「イチョウ 奇跡の2億年史」(ピーター・クレイン/矢野真千子訳 河出書房新社)です。

ginkgo

著者のピーター・クレインは、現在イェール大学の林学・環境科学学部長を務めていますが、以前はイギリスの著名な植物園である王立キュー植物園の園長を務めており、学術的な貢献によってサーの称号を受ける、イギリスを代表する著名な研究者の方です。そんな著名な研究者による著作の訳書に相応しく、全文438ページのうち、実に1/4近くに相当する90ページ程が原文訳注、引用文献一覧(もちろん英文)、ラテン語学名との対照一覧、そして索引に費やされています。本書を読まれて、その内容に深く興味を抱かれた方であれば、原文訳注だけを読んでも大満足になるかもしれません。そして、引用文献の幅広さと量の膨大さから、著名研究家と呼ばれる方々の業績の一端と、その広範な知的素養を垣間見られるようです。

こう書いてしまうと、極めて敷居が高そうな本に見えますが(価格は相応ですのであしからず…)、そこは一般向けの書籍。丁寧に丁寧に書かれたその著述からは、著者のイチョウに対する深い愛情が、訳本にも拘らず文章全体からあふれ出ているかのようです。

そして、文中に散らばる鶴岡八幡宮に青森、長崎、屋久島といった日本各地での紀行。ケンペルにシーボルトといった、日本人にも馴染みのある名前に平瀬作五郎の業績と日本人の琴線を揺さぶる物語がたっぷりと、しかもなぜ、日本にこのような類書が無いのだろうかと悩ませるほど豊富に語られていきます。その著述範囲の広さは、著者の専門分野である化石植物学から始まり、中国の古典、アジアの歴史、言語学、銀杏料理に都市工学(日本の街路樹のうち、55万本余りとなる最多の11%を占めるのがイチョウだったと訳本で知らしめられるとは)までもカバーします。もちろん、この手の訳本の定番通り、各章の始めには著名な作家や研究者の言葉や、古の言い伝えが添えられており、著者の素養の深さと幅広さが垣間見られます。このような研究者の方が書かれた著作でも、研究を進めていくストーリーや研究環境の著述にかなり特化した日本の作品と、文化的な部分まで広く包括する著述に意を砕く海外の作品との力点の置き方の違いは、毎度の事ながらきわめて興味深い所です(研究者の方にすれば、色々とご意見もあるかと思いますが)。

本書はこのように極めて広い分野をカバーする、イチョウに関する物語が語られていきますが、あくまでもメインは二つの物語で展開されていきます。一つは、著者の専門分野である化石植物学から見たイチョウの過去と現在の繋がりの物語。そして、もう一つはこの物語に繋がる、イチョウと日本との深い関わり合い。日本無くしては世界にイチョウが広まることが無かったことを、著者のもう一つの大事な業績であるキュー植物園園長時代の話を交えながら語っていきます。

他の樹木と殆ど系統的に孤立している、雌雄異株のイチョウ(網のレベルで一種類しか存在しない)。その孤立の由来は、他の樹木より圧倒的に古い2億年以上前の化石に辿り着くことから理由付けられます。同時代の植物の多くは、その後の地球環境の変動(著者によれば、それはあくまでも偶然の結果)と、それに伴う種の拡散が上手くいかなくなったことにより絶滅してしまいます。そんな中で、イチョウだけはしぶとく生き残り、世界中の温帯に生息していました。しかしながら約500万年前を境に急激に減少を続け、遺伝的追跡の結果に基づけは、有史初期は中国南部の極めて限られた場所で細々と自生していたに過ぎなくなってしまいます。この減少の大きな原因は、前述のように環境変化(寒冷化)のようですが、著者は銀杏に着目して、それ自体に拡散能力が無い故に必要となる、媒介となる動物が環境変化によって先に失われたことが減少の一因ではないかという説に注目しています。

この説を敷衍するかのように、イチョウの物語は細々と自生する状態から再び世界中への拡散へと向かっていきます。媒介となったのはヒト。それも極東の果てに辿り着いたヨーロッパ人によって世界へと再び送り出されることになります。前述のように、中国南部で細々と自生する状態であったイチョウが再び人の手によって拡散を始めますが、そのきっかけは既に分からなくなっています。史料によれば数千年単位の物語が語られていますし、国内にも鶴岡八幡宮の倒れてしまった大銀杏を始め、1000年以上の歴史を有するといわれるイチョウが存在しますが、その点は科学者らしく明確に否定します。年輪による把握は難しくとも、それ以外の手法で推定される樹齢はそれ程長くなく、日本にあるイチョウの古木は殆ど人の住居に近い場所に生育している点から見ても、日本にはイチョウは自生しておらず、やはり遣唐使船ないしは、宋との交易によってもたらされたと判断しています(ここで吾妻鏡や愚管抄にイチョウの記載がなく、鎌倉物語には記述がある事まで言及する点は、もはや恐ろしいほど)。

中国から東アジアに留まっていたイチョウが再び拡散を始めるきっかけとなったのは、鎖国時の日本。それ以前にも中国経由でヨーロッパにもたらされた可能性があるはずなのですが本書では言及されません。何故なら、この先の物語は博物学との関わり合いで語られるため。ケンペル、そしてシーボルトによって紹介され、リンネによって「ginkgo」として記載され、キュー植物園のオールド・ライオン(イギリス最古と目されるイチョウの木)に続く物語が語られます。この間の経緯はイチョウの移植やリンネによる集録に至る物語ばかりに目を奪われがちですが、著者の筆致はそれを上回ります。何と、新安船の積載物と中国での呼び名の由来(鴨脚)から、日本とヨーロッパの関わり合いの始まり、ウィリアム・アダムスによるオランダとの貿易の開始、日本の鎖国と二人の日本での活動、所謂シーボルト事件にまで、次々と触れられていきます。自然科学の本でありながら、歴史書としての体裁も有する点は、この手の訳本では当たり前かもしれませんが、その範囲の広さに驚かされれるばかりです。

元々、繰り返し訪れた厳しい環境の中でもしぶとく生き残ってきたイチョウ。温帯から亜寒帯までの広い温度域と十分な水が得られれば長寿を誇る特性を有していますが、前述のように如何としても拡散する手段を持っていなかったこの樹木は、食料として(あの匂いゆえ、東アジア人が主に)、未だ解明しきれていない薬効を期待して(こちらはドイツで最大の処方生薬という点も面白い)、そして黄金色に輝きながら、あるとき一気に葉を散らす、その神秘的な美しさに惹かれたヒトとう名の媒介によって、ヨーロッパに解き放たれた後は、瞬く間に世界中の街路を埋め尽くすようになっていきます。時に公害(匂いですね)の原因にもされることがありますが、それでも排気ガスに痛めつけられ、コンクリートとアスファルトに埋め尽くされた街路でも生育し、秋の一瞬には街を黄金色に彩るイチョウの木に人々は魅せられ、更に新たな街へと移植され続けています。

著者は最後の一節を以て、イチョウ拡散の物語と対比させるように、現在絶滅に瀕している樹木の人手による保護と、植物園を通した世界中への「リスク分散」を説いています。自然環境を復元するという発想が希薄な日本人には判りにくいのですが、現生の植物種が僅かに1400種(日本の場合、高尾山に存在する植物種だけでも1600種)と極端に減少するほどに自然環境が失われているイギリスにとって、これらの発想はもはや当たり前の事なのかもしれません。

そんな危機感を抱えながらも、著者は世界各地のイチョウの木々を見て廻り、日本や中国にある古木の根元に置かれる祠や、古木への信仰心に心を打たれ、鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れたニュースの後、速やかに増殖処置が執られたことに安どし、古巣のキュー植物園のオールド・ライオンへ想いを馳せる。

長寿を誇る樹木への敬意の念は誰でも持ち合わせるもの。その敬意の心が失われない限り、同じようにきっと人々は、あまたある危機に瀕した動植物の未来に気を掛けてくれるはず。そんな想いを、人の手によって救われ、人の手によって世界中に広められた最古の樹木の物語に託して。

<おまけ>

本ページで扱っている関連する書籍、テーマのご紹介を。