今月の読本「海辺を行き交うお触れ書き」(水本邦彦 吉川弘文館)著者と全国を巡る古文書の蓄積から見出す情報ネットワークの変遷

今月の読本「海辺を行き交うお触れ書き」(水本邦彦 吉川弘文館)著者と全国を巡る古文書の蓄積から見出す情報ネットワークの変遷

近年、江戸時代の行政システムや市民生活に対する積極的な再評価が行われつつありますが、これら再評価の大前提となっているのが、各地に集積、翻刻されつつある古文書の蓄積、その分析にあるかと思います。

幕藩体制と呼ばれる江戸時代、統治機構は御領と私領、寺社領の縦割り的な分断、身分制度は武士を頂点とした垂直・固定的と評される事が多いですが、これらの認識も近年の研究により大分異なる様相が見えてきています。

今回ご紹介するのも、そのような旧来の視点に立脚した江戸時代の統治機構に対して、横断的な検討からその変化を読み解こうとする一冊です。

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館の歴史文化ライブラリー最新刊から「海辺を行き交うお触れ書き」(水本邦彦 吉川弘文館)のご紹介です。

著者の水本邦彦先生は近世幕藩体制下における村落行政史研究者の方。既に第一線の教壇から降りられた方ですが、一般向けの書籍を含めて、現在に至るまで多くの著作を有されています。

非常に手慣れた筆致で描かれる本作。本書で描かれる内容を手掛けるきっかけとなった伊予、大洲と三河、刈谷に残された古文書に書かれた、長崎へ渡航する筈が遥か銚子に流されてしまった清からの貿易船乗組員を帰帆させるために行われた長崎への回航と沿岸各集落に対してその航海への援護を求める一文。「浦触」と呼ばれたその書面の文面が全く同一であることに驚く一方、付けられた発送元と廻覧先に興味を抱いた著者はその送付ルートの変化に着目していきます。

この南京船の漂流と帰帆の物語については、別の書籍(書名失念)で読んだ際にその経緯や帰帆するまでの足取を追った記録に大いに興味を抱いたのですが、本書では事情を知らせる浦触、その文書自体に焦点を当てていきます。

流石に多数の著作を有する著者と版元さんの連携が産んだのでしょうか、ここで本書はその発送ルートや廻覧方法の時系列変化やイベントに対して章を設けるのではなく、著者自らがその変化を探るために全国の古文書の原本や翻刻、研究者達の元を訪ね巡るというスタイルを用いていきます。

愛媛大学に籍を置いていた著者にとって馴染みの深い伊予、大洲を旅立ち、四国を巡り南の九州からもう一つの文書と巡り合った刈谷を経て北へ。陸奥、津軽藩と松前との関わりを追った後は日本海を下って西へ廻り瀬戸内海へ至る。浦触を探し求める旅を著者と共に続けることで、浦触のはじまりやその目的、廻覧されるパターンの変化を辿る事になります。各地に数多残る古文書、それらを翻刻する地元の教育委員会や研究者達が積み重ねてきた研究成果、著者と同世代の研究者達による古文書研究の過程で見出された浦触に関する情報を集めながら、事例を重ねながら全国を通じて行われた文書行政の変化を丁寧に紐解いていきます。

著者が見出したその変化、所謂幕藩体制の中核をなす、幕府、老中から各藩(留守居などを通じて)、所領に対して下達という形で伝えられ、各藩が有する藩内の伝達ルートを伝わっていく垂直型の伝達ルートに対して、特定の幕府職制、又はその業務を請け負った大商人や特定の藩が発信元となり、指定された廻覧ルートを辿り連判状のように各集落毎に印をおしていく(時には印を集めておいて藩庁や郡奉行所で一括押印、到着時刻表記の捏造?いえいえ、ISO運用にも見える日本の文書システムらしい形式主義を端から見透かす現場主義が掲げるルーズさまで…)姿が出来上がっていく事を見出していきます。

本来であれば支配違いの領地を跨ぐ行政文書の受け渡しなど想定しにくい江戸時代の支配制度ですが、多い時には年に数回と言う頻度で昼夜を問わずこれらの文書を所領を越えて隣り合う集落間で受け渡し、藩庁側の確認が後手に回る事すらあったことを古文書から見出していきます。浦々を伝わってそれこそ全国の海岸線を巡った文書行政の通達システム、浦触。徐々に完成を見た、浦々を継ぎながら繋ぎ合わされて押印された膨大な請印帳を見ると、その貫徹振りに、幕藩体制のもう一方の側面、全国政権であった徳川幕府の支配領域を超えて発揮、駆使された行政能力(実際に受け持つのは末端の各名主層と郡奉行たち)に感嘆させられます。

最後に著者は浦触の類似の姿としての広域行政文書の伝達例として、街道を継がれた伝達や海陸を含めた好事例である伊能忠敬の全国測量に伴う伝馬証文に続く先触の文書を示すことで、海陸を含むこのような文書行政による所領支配を越えて地域を水平に繋いでいく全国的な指示系統が存在した点を認めていきます。また、最後の指摘として、幕末の長州征伐中に発送された浦触に添えられた文書と配送結果から、その後の中央集権的な近代国家に脱し得ない幕藩体制の限界も併せて示していきます。

幕府による全国的な行政システムの実例を示す「浦触」の推移を著者と一緒に海岸線を巡りながら理解を深めていく本書。実例を理解しつつ網羅的に変遷を追いかけたいと願う読者にとって非常に楽しく、興味深く読む事が出来る内容なのですが、ひとつ、とても残念な点があります。

浦触れの伝達形態が各領地の行政権に委ねられる下達型から直接住民が携わる著者曰くの横断型へ、発信元が老中から勘定奉行や各地の代官所、大阪船手等の実務部門、現地部門へと移っていく点は、正に権限と運用が実情に合わせて現場へと委譲されている姿を明確に示しているのですが、惜しい事にその移譲の経緯や該当する幕府内での議論の推移に対して、本書では殆ど言及が為されていない事です。

著者には主著として「近世の村社会と国家」(東京大学出版会)があるので、前述のような疑問であればそちらを参照せよという事なのかもしれませんが、本書の帯にも描かれた、副題にも掲げられた「徳川の情報網、国家統治システム」を描くにあって、上位の為政者である幕府の動きをほぼスポイルしてしまった上で、終盤で「公儀」が与る情報伝達への言及がなされても、その背景が見えてこないようにも思われます。

主題である浦触の姿を著者と一緒に全国を追いかけるという文意に沿った内容としては素晴らしいと思いますが、掲げられた表題からみると、ちょっと片手落ちの感が否めなかったのは致し方ないのでしょうか。

 

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今月の読本「アルコールと酔っぱらいの地理学」(明石書店)呑む、酔う、呑まない事。そのベクトルを人文地理学の座標で示すコンパス

今月の読本「アルコールと酔っぱらいの地理学」(明石書店)呑む、酔う、呑まない事。そのベクトルを人文地理学の座標で示すコンパス

またしても不思議な一冊に巡り合ってしまいました。

テーマに惹かれたのは確かなのですが、果たして地理学で呑む事とは何ぞやと悩みつつ、内容を想像しつつ手にとって、読み始めたこの本。正直に言って、読みこなすのは非常に厳しかったです(未だに読み切った、という感触は希薄です)。

決して小難しい内容と言う訳でも、文章が難解と言う訳でもありません。共同訳者の皆様と、版元さんの粘り強い翻訳、校訂作業積み重ねの結果、一般書籍として充分平易で読みやすい内容となっているかと思います。しかしながら、その平易な文章で綴られた内容に、別の意味で苦しめられ、考えさせられる一冊でもありました。

今回ご紹介するのは「アルコールと酔っぱらいの地理学」(著:マーク・ジェイン、ジル・バレンタイン、サラ・L・ホロウェイ/訳:杉山和明、二村太郎、荒又美陽、成瀬厚 明石書店)のご紹介です。

原著は2011年にイギリスで刊行された、学術論文をベースに要約として纏められた書籍。冒頭に著者陣から日本語訳刊行にあたっての紹介が述べられていますが、のっけからそのスタンスに驚かされてしまいます。曰く、アルコール・スタディーズには地理学が欠落している、と。そのことを西洋、イギリスと北米を基軸とした文化圏に基底を持つ執筆者たちは、訳本と言う形で広く世界に対して訴え、議論を求めるきっかけとなる事を願います。

公衆衛生と社会学で語られる当該分野の学術的成果に対して、人文地理学者として内容への不満と検討の欠落を明確に述べた上で、その状況に乗り遅れてしまったことへの焦燥感を滲ませながら、人文地理学を用いた分析手法を以て、これまでの飲酒に対する議論の再検証を行い綴られる本書。その筆致は何処までも人文地理学者の視点、思考で貫かれているようです。

前述しましたように、平易な筆致にも拘わらず読みこなすのに長時間を要する事となった本書に通貫する、人文地理学という学問規範による視点。その範疇と視点の置き方が私が理解していた地理学の領域を遥かに超えている事に、驚きと戸惑いを受けながら読み進めることになりました。

テーマに対する地理学者としてのスタンスを示す序章と実際に地理学に相応しいセグメントの取り方となる、都市や田園をテーマにした1,2章。確かにイギリスと言う地理的遠隔性と社会構造に対してある程度理解が無いと読みにくい内容かもしれませんが、近現代史の一端や社会学的な知見をある程度お持ちの方であれば、決して初見でかつ驚かれる内容が綴られている訳ではない筈です。但し、その着目点が「呑む場所、環境」で貫かれているのは流石に地理学だなと思わせる点もあります。

しかしながら、3章以降はそのような私の理解、読み方を徐々に越えていく内容が綴られていきます。地理学のイメージに繋がる、位置や場所を示すアイコンを軸に語られていく事自体は変わりませんが、その場所が「ホーム」、即ち自宅での飲酒について検討を加えてく部分に入ると、議論の焦点は飲酒の行為自体や酩酊、忌避の検証へと移っていきます。

場所とも異なる、地勢とも地域とも異なる。コミュニティや個々人の飲酒/禁酒という行為を理解する為に、場所と言う基軸を越えて人文地理学が持ち出す手法、それは座標系のようにも見える飲酒という行為そのものを分解して空間座標的にセグメント化していく分別過程。

そのような印象を強く受けたのが4~6章で語られるジェンダーとエスニシティ、そして世代感への議論。共に飲酒に対して懸念や否定感、禁忌というセグメントを嵌められた領域に対して、その中で飲酒を行うという事、または飲酒を退ける事について、飲酒を行う場所やシチュエーションを重ねるように対比しながら、社会性や年齢までを含めてセグメントの中に割り付け、その狭間に落ち込んでしまう部分に対して着目すべき点を示す。

私の理解していた地理学と言う言葉が辿るイメージを大幅に逸脱する内容でありながら、著者達は全くそのようなそぶりも見せず議論を進めていく。そのギャップに苛まれながら更に読み進めていくと、決定的な一文に突き当たりました。

最終盤で語られる、凡そ地理学とは縁遠いテーマとも思える「感情と身体」。その中で、パブに集う老境の男性が抱く想いと繋がりを求める社会性という、如何にも社会学が扱う内容を分析する考察で語られる、

「アルコールがいかに多くの問題をめぐる感情の地理と関係しているのかを示している。」

感情の地理。果たして地理学とはいったい何なんだろうと、読んでいた本を机に置き首を振りながらふと眺めた、表紙の帯に書かれた「居酒屋の戦後史」著者で社会学者の橋本健二先生が捧げた一文、

「地理学は、人間の行動に関することなら何でも研究できる学問だったのだ。」

そのコメントを直視させられた一瞬。

本書をパブや居酒屋のような飲酒と呑む空間に関する概説書として捉えると見えてこない、人文地理学がどのような手法でどんなテーマに向かおうとしているのか、その学問分野に強い矜持を持つ著作と訳者たちが、飲酒と言うテーマを一端として地球の反対側にある呑み人の天国である島国に送り出した、自らの座標軸を示す一冊。そして、投網を手に大海原を漕ぎ進む船のようにも思えてしまうそのテーマの広がりの中で、進むべき針路を示すコンパスとして示された一冊。

場所を基軸にセグメントとして細密に空間化されたその検証手法に対して、飲酒と言う行為に対する、人々の意思、意識が重なり合う場所としての示唆的な全体像を捉えたいと思っていた私自身の想いと、著述される内容の折り合いに悩みながら。

巻末までぎっしりと綴られる著者陣、訳者陣の強い想い。その規範となる人文地理学が掲げる理論構築については判らないことだらけですが、その手法の一端を垣間見る想いを抱いた次第です。

まだまだ暑い日が続きますが、日が落ちて少し凌ぎ易くなった夕暮れ。そちらのカウンターで一杯飲みながら、もう少しお話を聞かせて頂けませんでしょうか。

今月の読本「太陽は地球と人類にどう影響を与えているか」(花岡庸一郎 光文社新書)目には見えない磁場が描く太陽と地球の歴史を綴るカルテ

今月の読本「太陽は地球と人類にどう影響を与えているか」(花岡庸一郎 光文社新書)目には見えない磁場が描く太陽と地球の歴史を綴るカルテ

八ヶ岳南麓のすぐお隣、長野県の野辺山にある野辺山電波天文台。現在は「国立天文台 野辺山宇宙電波観測所」と呼称しますが、以前は「野辺山宇宙電波観測所、野辺山太陽電波観測所」と二つの名前で呼ばれていました(国道141号線を清里方向から向かうと、野辺山に入ってすぐの場所に案内看板が出ていますが、「野辺山太陽電波観測所」部分は塗りつぶされています。

現在は各大学が共同で利用する施設として太陽観測の機器が運用されていますが、以前は太陽観測の分野でも国内随一の場所でした(現在は、天文台自体も縮小化の道を進んでいます)。

夏場には薄い空気と肌を刺すほどの紫外線の強さ、冬場には極寒の中で満天の星空という、空の近さを身近に感じる事の出来る野辺山ですが、この場所で研究を続けられてきた方が書き下ろした一冊。少々仰々しい表題と写真に少し威圧感すら感じますが、興味深い内容がぎっしりと詰め込まれています。

大洋は地球と人類にどう影響を与えているか

今回は「太陽は地球と人類にどう影響を与えているか」(花岡庸一郎 光文社新書)をご紹介します。

毎月大量に刊行される新書の中でもややマイナーな光文社新書さん。テーマの間口も幅広く、硬軟織り交ぜた内容のラインナップとなっているため、テーマを絞った一冊を読みたい私としては手に取りにくい新書シリーズ。それでも、時に驚くようなテーマと著者を取り上げてくるためチェックは欠かせないシリーズでもあります。

今回の本も帯を含めた表紙デザインからイメージされるように、シリーズの中ではかなり硬派と言っていい一冊。著者は現在、国立天文台の本部がある三鷹で太陽観測の統括をされている方です。

内容的には往年の縦書きのブルーバックスと言った雰囲気(読み物重視です)で著者の専門分野である太陽観測、太陽物理学(著者の専門は光学観測ですが内容的は電磁気学が多い)メインで語られていきますが、あとがきにあるように太陽物理学に関する広範な分野、更には表題の様に地球環境を語る部分も相応にありますので、極めて広範囲な内容が綴られていきます。

その中でも著者が力を入れて著述される点は、太陽観測の歴史。オーロラと黒点観測から始まり、現在の宇宙空間で行われている人工衛星による幅広い波長域での観測データによって、11年周期を以て鼓動を続ける太陽を捉える姿が時代と共に変わっていく点をじっくりと説明していきます。

太陽観測の歴史と共に語られる太陽の鼓動。黒点とオーロラ以外、目で直接見る事は出来ない、宇宙空間における磁場と可視光領域以外のダイナミックな動きが写真と共に語られていきますが、如何せんそれらの物理現象は余りにも巨大で身近な現象に置き換えて説明できない内容(解釈自体も依然として議論があると)のため、特に太陽活動の主軸となる磁力線の変化と付随するプロミネンス、コロナに関する部分の説明は慎重に読み進めることになります(それでもちゃんと駆動モデル理解できたか自信ないです)。

そして、太陽活動と我々の生活に密接な関わりがある点。全ての始まりであり、地球上のエネルギーの殆どを支えていると云える太陽の活動は、最近のお話では「宇宙天気予報」の言葉と共に伝えられるように、人類の文明が進化すると共に、無線通信や、電力送電に関して甚大な影響を与える可能性が示唆され、軌道上のデブリ、地球近傍に飛来する隕石の観測と併せて、天文学が社会と密接に関わる分野を生み出している点を指摘します(通信技術を学んだものとしては、電信の障害や送電トラブルが地球を貫く地磁気誘導電流により引き起こされると改めて解説されると、その見えないダイナミックな挙動に感嘆します)。更には、普段の生活からちょっと離れて、太陽風と銀河宇宙線の関係と言った惑星天文学に関するテーマにまで話を広げていきます。

太陽の活動が我々の身近な生活に大きな影響を与える事がある事を示す前半。しかしながら後半で語られる、我々の生活と更に密接に関わるもう一つのテーマ、地球環境と太陽活動のお話になると、少し様子が変わってきます。表題を見て手に取られた読者の方がもっとも気にされるであろう、地球温暖化と太陽活動の関係、更には近年の太陽活動低下に伴い、温暖化の認識とは逆に寒冷化に進んでいるのではないかというごく一部の論調。いずれも太陽活動が密接に関わる内容の筈ですが、著者はそのどちらにも肯定を与える事はありません。

18世紀まで遡る黒点観測、オーロラの観測から続く、長い太陽観測の歴史を改めてひも解きながら、その間の観測データの整合性を述べながら、太陽活動と各種の観測結果間にある程度の相関性は認められることを示しますが、最も地球環境に影響を与えるであろう、太陽自体の光の強さ、即ち可視光領域の光量変化は僅か0.1%程度に過ぎない事をデータから示します。

果たして表題の様に太陽活動が地球環境にどのような影響を与えて来たのか、唯、眩しく輝く「変わらぬ太陽」なのか。

現在も共同研究が続く野辺山の太陽観測施設。

太陽の活動が11年周期で変化する事は既に一般的な知識となっていますが、そのサイクルの繰り返しがどのように変化していくのか。更には、全ての源である一見「変わらぬ太陽」の何が変化すると地球環境に大きな影響を与えるのか。

我々人類が積み重ねた太陽に関する知見は、その活動時間のスケールから云えばほんの僅かな300年ほどしか蓄積が無い一方、その間に太陽活動や宇宙線への理解と応用が進んだ結果、地球環境の変化の記録を数万年単位で追えるようになってきています。更には、他の恒星の活動には太陽の活動の過去、未来を示唆する豊富な知見を伴って、今も星空で瞬いています。

著者が最後に述べるように、科学もまた時間を掛けて知見を蓄積する事で前へと進んでいく。その歴史的な研究の推移と共に、太陽と地球環境、人類の歴史をも綴る一冊。

テーマ故に少し取っ付き難く、多少専門的な知識への理解を要しますが、それ以上に幅広い好奇心に応えてくれる一冊です。

<おまけ>

野辺山宇宙電波観測所特別公開2019パンフレット

今年(2019年)の国立天文台 野辺山宇宙電波観測所の特別公開は8/24(土)です。

シンポジウムでは太陽観測関連のお話はありませんが、例年、研究施設の解説が実施されます。来年度以降、予算の大幅縮小により常時有人観測体制の解除もささやかれている野辺山天文台。このようなイベントが継続できる可能性も下がってきています。チャンスのある方は是非お越し頂ければと思います。

今月の読本「日本のイネ品種考」(佐藤洋一郎:編 臨川書店)第一人者が研究者達と共に綴るイネのこれまでと、お米のこれからを想う貴重なガイダンス

今月の読本「日本のイネ品種考」(佐藤洋一郎:編 臨川書店)第一人者が研究者達と共に綴るイネのこれまでと、お米のこれからを想う貴重なガイダンス

都会に住んでいると食事を摂る時にしか意識する事のない、お米。

でも、地方で暮らしていると、目の前に田んぼが広がる風景は比較的何処にでもある風景かも知れません。

普段の食事ではあまり意識する事のないお米の種類も、地元の方に分けて頂いたり、直売所で売っている珍しい品種のお米を炊いてみると驚きに巡り合うことも多々あります(武川の方に頂いた精米したてのコシヒカリや白州の方で買った農林48号は正に目から鱗、何の変哲もない電気炊飯器で炊いてもお米の味ってこれだけ違うのかと)。

お米の事が気になりだした時に何気なく古本屋さんで手に取った一冊。東海岸までの長距離フライトの間、ずっと読み続けてその内容に釘付けになった本の著者が編者として取り纏めた、正に読みたかった内容が詰まった一冊をご紹介します。

今回は「日本のイネ品種考」(佐藤洋一郎:編 臨川書店)のご紹介です。

編者の佐藤洋一郎先生は国立研究所に長く在籍された農学者。専門のイネの研究に留まらず、東アジアの食文化一般に関する多数の作品を著されています。

著者の研究テーマをフィールドワークを含めて一般の読者に向けて紹介する「イネの歴史」(京都大学学術出版会)に感銘を受けてから、イネやお米の品種、酒造の歴史に関する一般向けの本を見かけるとちょくちょく買い込んで読んでいたのですが、少し不満だったのが考古学や文献史学では極めて断片的なお米の扱われ方。特にイネの品種のお話になると、近代目前の亀ノ尾、神力、愛国の話とそれ以前のお話が断絶していて繋がって来ないというジレンマ。

我々の主食である日本のお米の歴史を俯瞰で捉えたいと願っていた中で刊行されたこの一冊。もちろん編者の方から多分「当たり」だろうと思って本屋さん(入れて頂きありがとうございます)で立ち読みを始めてすぐレジに向かったその本のテーマ一覧には正に欲しかった内容がずらりと並んでいました(歩きながら値段を観てギョッとなった事は…忘れましょう)。

4名の研究者の方による最先端の研究成果で栽培品種としてのイネの発生、渡来から現代の品種へと固定、特定の系統以外が淘汰されていく過程をそれぞれの専門分野で語る前半。編者の佐藤先生が書かれる総括としてのイネが品種として固定化されていく過程を専門の遺伝学的な見地と人の働きによって成された事実を綴る一篇に京都にある料理学校の先生とのお米を通した食に纏わる対談で構成される後半。

日本のお米と品種改良、お米と食事の関わりといった最も興味を持たれる方が多い部分に関しては、後半の佐藤先生が執筆を担当された部分だけ読まれれば充分なのかもしれません。しかしながら本書がとても貴重な点は、その一般論に入るために必要となる大事な前提を専門家の方が現在の研究水準で示してくれる点。

民俗学でも良く語られる赤米の伝播についても、その渡来から遺伝的形質の多様性、現代の品種とはちょっと意味が異なるようですが、品種化されて維持されてきた系統と、一方で田圃の畔に植えられて農家の身入りを陰となって助け続けた挙句、「白米」の等級を著しく悪くする「雑草イネ」と呼ばれて駆除される対象となってしまった系統(大唐米)も存在することを教えてくれます。

近世になって急に増えてきたように思えるイネの品種。実は考古学的な知見では籾サイズの標準偏差から近世と弥生時代で大して変わらないという結果を得る一方、膨大な木簡の調査から、既に奈良時代頃には全国的に通用する品種名が幾らか存在することを見出し、品種に地域性が存在し当時の歌でも詠まれている点には驚きを通り越して、地道な知見を積み上げていく考古学の実力をまざまざと見せつけられる気がしてきます(更には地方の国造層の旺盛な学習意欲の先に見る文書行政の浸透ぶり。こうなると何故平安初頭になると没落して負名層が浮かび上がって来るのかますます分らなくなるのですが…本書とはまた別のお話)。

そして、縄文時代に興味がある人間にとってはどうしても外せないイネの伝来と定着のストーリー。最近は日本人の起源のお話と重なるように(実際には時代が全然違いますが)、イネも南方から島伝いに伝来したという説が良く聞こえてきますが、大陸まで赴いてプラントオパールによるイネの伝播を追い続ける研究者の方は、やはり北方を経由して伝来したと考えた方が良いという見解を最新の知見を添えて紹介していきます。

個別の研究分野の中で語られるとそれだけで完結してしまうお話も、本書のような形でテーマを捉えて時代ごとに追っていくと徐々に輪郭が浮かび上がってくる。それぞれの内容はあくまでも詳細で緻密な著者達の研究成果のほんの一部をかいつまんで紹介しているに過ぎないかもしれませんが、むしろ私たちのような一読者にとっては、俯瞰で判り易く捉えるきっかけを与えてくれる内容になっているかと思います。

更に本書のテーマを色濃く伝える、イネから現代のお米へと繋がる橋渡しとしての、分子生物学が示すコシヒカリ一族へと繋がる道筋を辿り、その品種固定の過程を近代史の一ページとして織り込んでいく部分では、各地に残るコシヒカリの親たちの伝承に触れていきます。此処で特に嬉しかったのが宮沢賢治のエピソードを添えて頂いた点。どうしても詩人、文学者(最近ではxx等と言うお話まで)としての側面が強く出てしまいますが、本書では農業実務者としての賢治の言説を捉えており、それが現代の米作へ繋がる道筋を示している点に強く共感を持つところです。

考古学から分子生物学まで、1万年以上前の中国大陸にあったとされるイネから始まりこれから食卓に上るかもしれない新品種のお米まで。時代と空間を超越するイネとお米に関する貴重な内容に溢れる本書ですが、近年のお米復権(編者の認識はちょっと異なるようですが、実にコメ余りからコメ不足へ)とそれに連なる多彩な品種開発競争の華やかさとはちょっと距離を置いた発言が繰り返されます。

我々が普段食する「お米」としての品種の存在に隠れてしまう、栽培品種としての「イネ」に忍び寄る陰。

市場を圧倒的に支配するコシヒカリとその一族ですが、原種となるコシヒカリが誕生してから既に50年、もちろん品種登録された時の籾を今でも播種する訳ではない事は容易に理解できますが、固定化された筈の品種も実は種苗段階で「なるべく同じ形質」になるように人為的に制御され続ける事で、はじめて品種として維持されている点を指摘します。

極稀に聞く「品種がボケる」というニュアンスの言葉。東南アジア等の環境に合わせた雑多な品種の栽培を行う数多のフィールドを渡り歩いてきた編者は、そのボケすらも調整するのはまた人であるという認識の下で、イネの品種と言う微妙なバランスを作り出す育種の技術を称して育種家のセンス、芸術という言葉を用いて表現します。其処には遺伝子工学を含む科学的な手法による育種も、品種として固定化する時にはやはり人による主観が必要であるとの認識を添えていきます。

その上で、品種と呼ぶ以上は目的に応じた同一の形質を常に求められる栽培品種ではありますが、その元となる育種の為にはたとえ栽培品種であれ多様性が必要であり、多様性を失いかけている現在の「お米」品種、その味や香り、形質の画一化に強い危機感を著者達は示していきます(つい最近、コーヒーの栽培品種で同じような報告が出ていた事を思い出します)。

多彩な形質と特徴を有する「イネ」から我々が食す「お米」へ。日本のお米が辿った姿を研究者達のリレーで繋ぐ本書を読んでいくと、主食であり、ついこの間まで日本の農業の中核であったイネの豊かな実りの向こうには、先人たちが培ってきた、我々の生活にすぐ側にある様々な歴史がぎっしりと詰まっている事を実感させられます。

今月の読本「増補版 天下無双の建築学入門」(藤森照信 ちくま文庫)縄文と諏訪の神々の落とし子、フジモリ先生が往く大地と床を天まで貫く先はキッチン?

今月の読本「増補版 天下無双の建築学入門」(藤森照信 ちくま文庫)縄文と諏訪の神々の落とし子、フジモリ先生が往く大地と床を天まで貫く先はキッチン?

信州の真ん中より少し右下、八ヶ岳の麓に湖面を開く諏訪湖を中心とした一帯は、古から伝わる様々な歴史が今も脈々と息づいている土地です。

中でも最も有名なのは、二つの国宝土偶を擁する核心の地としての縄文文化、そして御柱祭を核に据えた諏訪信仰でしょうか。

いずれも古代から続く歴史ロマンと神秘性を秘めた物語の数々。そんな環境の中でも核心中の核心、諏訪大社の上社前宮と本宮の中間点、高部で幼少から青年時代を過ごした建築家がその故郷の地に建てた一連の建築物、諏訪信仰の伝統を今に伝える神長官守矢史料館と隣接する茶室たち。その姿は佇まいまでも含めて奇妙奇天烈を通り越して、アートなのか少々ふざけた大人の遊戯なのか首を傾げてしまう方もいらっしゃるかと思います。

今回の一冊は、そんな建築群を設計した建築家(建築史家)が敢えて問う、我々が住まう建物に仕掛けられた歴史の妙を教えてくれる一冊です。

増補版 天下無双の建築学入門」(藤森照信 ちくま文庫)のご紹介です。

改めての説明は不要かと思いますが、著者は現在、江戸東京博物館の館長を務められる、ユニークな語りと視点で建築家と言うフィールドを大きく超えた活躍をされている方。専攻である近代日本の建築物調査研究の先に、文化人の密やかな楽しみであった路上観察というジャンルをその著作と活動から私たちのコミュニケーションとしてのテーマへと送り出し、気軽に触れられるまでに押し広められた方です。

軽快な語り口と、時に無邪気さすら感じる筆致を縦横に操る氏の著作には多くのファンがいらっしゃるかと思いますが、本書は筑摩書房から刊行されていた雑誌、その後、大成建設の社内報へと媒体を変えながら綴れられた、氏の専門分野である建築をテーマにした連載記事を纏めてちくま新書として刊行された一冊の文庫収蔵版。実は連載のメインテーマであった(筈の)日本の住宅史というテーマは、今回の文庫収蔵に当たって書き起こされた巻末「日本の住宅の未来はどうなる?」に少し真面目な筆致で纏め込まれているため、帯に書かれた内容を端的にチェックしたい方は、20ページ程の増補部分だけを読まれれば充分なのかもしれません。

しかしながら、本書の真骨頂はやはり本文の筆致。表紙を手掛けられる南伸坊さんのイラストが示すように、如何にもインテリ芸術家肌風の著者が、その姿の通り縄文文化と日本の建築の関係について高い志を以て思索する内容にも見えますが、さにあらず。むしろ、二頭身キャラのような滑稽な土偶のボディとおかっぱ頭のコンビネーションが見せる様に、愉しく痛快に、時に脱線しながら日本建築のポイントを暗側面を含めて鋭く突いていきます(テーマに沿った挿絵も南伸坊さんが1話ごとに描かれるという、何気に超・豪華版です)。

全39話で綴られる、建築に用いられるパーツごとに分けてその成り立ちからなぜそのように使うのと言った素人には判りにくいポイント、更には東西を含む世界の建築との比較を添えながら、日本の建築の特異性と歴史的な一般性の双方を解説していきます。連載の一部が企業の社内報だったという事情もあるかと思いますが、時にちょっと奔放過ぎるかなとも思われる筆捌きも見られる軽快なタッチで綴るその内容。特に著者の学生時代(諏訪清陵高校のOB)の武勇伝は今であれば完璧にアウト!となってしまう内容も含まれますが、自らの失敗談や史料館に使う素材集めで行き着いた、鋳物師屋に住まわれた板金屋さんによる最後の割り板の技、自分の子どもたちとの「家づくり」から考えた、家に住まう事の原点などいったエピソードも巧みに話のテーマに組み込む、著者一流の読者を楽しませる仕掛けがそこかしこに設けられています。

そして、本書の狙いである日本の建築に対する入門としての側面。著者は「マイケンチク学」になってしまったと述べられていますが、その奔放さの先に日本の建築学自体が体系構築の過程にあるという研究者としての認識、さらに日本の建築自体も長い長い歴史的な過程を経て織り込まれた、体系を意識しない体系である点を指摘します。日本の住居に特有の姿、地面から上げられた床を持つ一方、わざわざ土足を脱いでその床に上がり、床の上では履物を用いない居住形態。唯でさえも可居住面積が少ない山がちな狭い国土の筈なのに、歴史上、長々と続く平屋主体の建屋。建屋の構造と逆を行く御柱を始めとする天に届かんとする柱を空に向けて建てようとする意識、深々とした傾斜の草葺きの屋根に土を盛り花を咲かせる特異な屋上構造。

軽妙に綴られる解説を読み進めていくと、縄文の息吹を伝え、太古の信仰を内に秘めた諏訪社の社叢に挟まれる高部で育まれた著者の想いが、思想や歴史面だけではなく、実践としての神長官守矢史料館を始めとした同地に建てられた建築群、著者の建築物に込められたコンセプトの中に、鮮やかにその輪郭として浮かび上がってきます。防寒としての竪穴式住居と掘り込まれた土間と囲炉裏、草葺きの屋根。心地よい風が抜け湿気を払う避暑としての高床式住居に平面性を美しく保つプレーンな床(それ故に近代に入ってからの照明への拘りや収納下手?の原因も)。天と地上の間を覆う膨大な森林の樹冠を貫き、天まで意思を伝えんとする柱がそれを支える。

文化の辺境である極東の島国に蓄積されていった、世界の建物の歴史が辿った残滓たちが形作り、意識の根底で様式となっていった日本の建物。その姿が明治の文明開化と共にどのように「住宅」へと変化していったのかを、近代建築で用いられるパーツを頼りに後半では綴っていきます。著者の専門分野である近代建築史を下敷きに、採り入れられた洋風とそれでも残る床暮らしの奇妙な同居。その先で勃発した戦後民主化と大量な住宅供給を求められた公団住宅(「団地」という言葉の発祥も含めて)成立の途上で奇妙な邂逅を遂げる事になる、LDKの記号に込められた住宅内における中心軸の客間から「ダイニングキッチン」への大胆な移動、家の主の交代を告げる時。著者はその変遷を焚き火を囲む縄文への回帰とほんの少しの揶揄を込めて述べていきます。

研究者の方が執筆する建築学入門と聞くと、間取りや様式、小難しい哲学が延々と述べられるのではないかと身構えてしまいますが、実践を含めて愉快に綴られる本書はそのエッセンスを著者ならではの日本の建築史(マイケンチク学)から伝えながら、氏の作品の本質に迫るきっかけを与えてくれる一冊。

是非この本を手に、八ヶ岳の裾野に広がる縄文遺跡と国宝土偶たちを愛でた後、諏訪大社、そして氏の作品たちに会いに来ませんか。

普段の生活の中で、建築家と建築がどんな想いを語りかけているのか、そんな視点を与えてくれる入口として。

 

今月の読本「黒部源流山小屋暮らし」(やまとけいこ 山と溪谷社)絶妙なタッチで描かれた、峰々の天上に披く季節を巡る観察記

今月の読本「黒部源流山小屋暮らし」(やまとけいこ 山と溪谷社)絶妙なタッチで描かれた、峰々の天上に披く季節を巡る観察記

久しぶりにとても気持ちの良い一冊に巡り合えました。

ここ数年、一時期の不振を振り払うかのような勢いで新刊を送り出してくる山と溪谷社さん。大ヒットとなった山怪を始めとした「黒本」シリーズに生き物関係や文庫に新書。もちろんメインラインとなる登山に関する書籍を含めて驚くほどラインナップが充実してきています。

本屋さんによってはヤマケイの本だけで小さなコーナーが出来てしまう程の充実ぶりの中、最近は広い読者層に向けた登山や自然に関するエッセイにも力を入れているようですが、その中からちょっと気になった今月の新刊から(今月は更にもう一冊読みたい新刊も)。

黒部源流山小屋暮らし」(やまとけいこ)をご紹介します。

著者のやまとけいこさんは美術家にしてイラストレーター。さまざまな出版物のイラストや美術館での展示作品もある方。その一方で、学生時代から山歩きと渓流釣りにのめり込み、美術を手掛けながら世界を廻りたいという夢を叶えるため、その元手を稼ぐ手段として山小屋勤めを見出された方。

根っからの山岳愛好家やアルピニストとはちょっと違う、山を生きる糧とする人々ともまた違う。山と登山、イワナたちが大好きで、それらを自らの生活サイクルの中にすっと組み入れてしまった著者による、黒部川源流の薬師沢にある山小屋を巡る、自らと其処に集う人々を綴る観察記。

通算12シーズン(冬季は閉鎖)に渡る実体験を綴る内容ですが、著者の手による表紙の可愛らしいイラストから察すると、中身もイラスト主体でかなり緩めなのかと思って読み始めたのですが、しっかりとした文体と内容にすっかり魅せられてしまいました。

軽やかでありながら落ち着いた筆致。イラストのイメージそのままに、時折くすっと微笑んでしまう内容も多く綴られていくのですが、山人らしいというのでしょうか、その視線は常に冷静さが保たれており、大きなトラブルも自らの想いを描く際でも殊更に誇張せず、自然に文中に収まっていきます。また、山小屋と言う限られた空間で繰り広げられる内容のため、登場する人物は必然的に限られますが、著者を含めて登場人物個人に視点を当てる事は少なく、あくまでも山小屋での日常シーンの一部として描いていきます。

黒部川源流の川縁に佇む山小屋を主人公にして季節を巡る、其処に集う人々と行き交う登山者たち。登山道、渓流、時にはヘリコプターと、舞台は時折変わりますが、そのいずれもが著者が愛おしく思う、傾きかけて床と机があべこべの向きを向いてしまうような山小屋があればこそ。バスが発着する登山口から片道7時間以上、深山の更に奥を行き交う事を許された限られた人々が集う、遥か峰々の向こうにあるもう一つの世界。

春の小屋開けに向かう富山地方鉄道の車窓から始まり、空が高くなり里より遥かに早く冬の足音が聞こえてくる体育の日の連休明けから始まる小屋閉めと下山の日まで。シーズンを通して彼の地に踏み入れた登山客と迎え入れる天上の住人達の日常風景をワンシーズンのスパンに収めて、朗らかに、しっかりとした足取りで綴っていきます。

シーズンを通して色々なテーマが描かれていきますが、著者は厨房長を名乗る為、一番の関心事は食糧。冬の間に忍び込んでは翌年の小屋開けの為に冬越しさせる貯蔵食料を食い荒らし、やりたい放題を尽くす野生動物たち。小屋を開けた後になると闖入してくるネズミやクマ!更には山小屋のマスコットでもあるヤマネが厨房や布団の上をおろおろと動き回る姿を、楽しくも時に少し厄介そうに綴る(鼠との我慢比べ、ちょっと楽しかったです)。あらゆる物資をヘリコプター輸送に頼る山小屋経営の厳しさと、傷みやすい野菜たちの保存方法や食材の仕込み量に頭を悩ませ、ハイシーズンになると起こるある「現象」に、ほんの少し申し訳なさそうな想いを語る。

また、知っているつもりでも山小屋ならではの生活の不便さやちょっと困った事(トイレやお風呂、お布団や居住空間)について、働いている側の視点で描かれる事は珍しいかもしれません。そして登山者を迎え入れる場所としての山小屋の姿。太郎平小屋を中核とした黒部山中の山小屋の歴史とそれを支え続ける山小屋で働く人々の姿。山小屋が単なる登山客の休養、宿泊施設ではなく、登山と言う人が山を往くバックボーンを支えている事を実感させられるシーンが描かれていきます。更には奥深い山中の山小屋と言う限られた空間故に、代わりを求める事も逃げ出す事も出来ない難しさを含めて、其処に集う人たちとの一期一会を大切にしたいという想いを強く重ねていきます。

黒部源流の山小屋と聞くと険しい渓谷を登り詰めた先、天上に拓かれた小さな宝箱のような別天地というロマンチックなイメージだけに目が行きがちですが、その足元にある山小屋の日常をしっかりと描き込んだ上で、ほんの少しのお休みには人と共に源流を生き抜くイワナ達と戯れ、山を歩く姿に瑞々しい天上の息吹を載せて。

微笑ましさと爽やかな川面を渡る風の様に心地よい読後感を与えてくれた一冊。素敵なイラストと文章たちへ殊更に魅せられたのは、流麗な文章以上に同年代の著者が描き出したその世界に、ほんの少し眩しさを感じているからなのかもしれません。

今月の読本「MINERVA世界史叢書6 情報がつなぐ世界史」(南塚信吾:責任編集 ミネルヴァ書房)「史料としてのメディア」の向こうに認識される世界を研究者達の眼差しで

今月の読本「MINERVA世界史叢書6 情報がつなぐ世界史」(南塚信吾:責任編集 ミネルヴァ書房)「史料としてのメディア」の向こうに認識される世界を研究者達の眼差しで

本屋さんで売られている歴史関係の新刊本は、特定のフォーマットや価格帯を意識したヒエラルキーを持っているかと思いますが、多くの場合はこんな感じで構成されるのでしょうか。

  • 毎月発売の文庫本/新書版 : ~1000円前後
  • 毎月発売の選書 : 1000円~2000円以内
  • 専門出版社の一般読者向けの叢書シリーズ : ~3000円程度
  • 研究者の方が著述される一般読者向け単著、訳書 : ~4000円圏内
  • 主に研究者向けの書籍類(装丁がシンプルな物たち) : 7000円~

今回ご紹介するのは、この範疇から微妙に外れる、一般向け叢書で5000円と言う、私の中の金銭感覚からすると明らかに購入に戸惑う(毎月の読書予算の過半、買うまでの躊躇はかなりありました)本。研究者の方々が著述される専門書だから当然なのでは言われればその通りかと思いますが、本屋さんで一読した感触は明らかに一般向け、しかもそのテーマ選定と著者陣の筆致が実に魅力的な一冊です(昨年12月の刊行でしたが、何と重版が掛かったようです!)。

MINERVA世界叢書6 情報がつなぐ世界史」(南塚信吾:責任編集 ミネルヴァ書房)のご紹介です。

一般書でも研究者の方や企業人、著述を生業にする方の著作でも専門性の高いテーマ(マニアックなどとは決して…)の書籍を扱っているミネルヴァ書房。ミネルヴァ日本評伝選等の日本史の叢書シリーズと共に、近現代史や教育関係に強いイメージがありますが、世界史に関しても多くの書籍を刊行されています。

今回ご紹介する一冊も昨年から刊行が始まった「MINERVA世界史叢書」シリーズの第三回配本分。「世界史の世界史」を描く事を標榜する全16巻の大型企画でもありその内容は多彩を極めますが、まずは読んでみたいと思い至ったのは前述のように今回のテーマ特異性と、多彩な執筆陣に惹かれたからに他なりません。

参考文献一覧が添えられた一章20ページ前後の本編10章と、その半分程度のボリュームで差し込まれるコラム6本で構成される本書。読書時間の確保が難しい中でも、一日1~2セクション位ずつで読み進められるように配慮された嬉しい構成。そのような構成を採る為、本書に本格的な議論を望むのは少々厳しい事かと思いますが、逆に今回のテーマにとっては非常に有利に働いていると思われます。

研究者の方々が日夜研鑽されている研究に必ず付いて廻る「史料」たち。その史料たちを読み解き、新たな知見を積み重ねていく事を自らの使命とする研究者にとって極めて大切な史料と向き合う際に見えて来る課題、その向こうに広がる世界への興味、好奇心の種を、世界史の狭間で自らの研究に添えるように語られる本書。

本書では研究者の方々が扱う史料達の中から、時代を越えて人々に情報を伝える媒体であるメディアに着目したテーマについて研究者の視点を通して語られていきます。

その著者陣は、既に名誉教授を称される大先達から海外の大学でPh.Dを取得した気鋭の研究者まで。ペルシャ語を専攻する若手研究者から郵便史研究家、更にはテレビ局の外報部記者出身で、NTVアメリカ元社長という海外ニュース報道のエキスパートまで。版元のイメージ通り多士済々という方々がこれぞという興味をテーマに掲げて筆を振るっています。

古代の写本から現在進行中のIoTとディープラーニングまでと言う幅広い時代を扱い、それぞれに異なる著者が執筆されるため、描かれる内容が統一した視点を有している訳ではありませんが、そのいずれに於いても実に興味深い見解が示されていきます。本当は一文では表現しきれないのですが、とにかくワンポイントで各章を紹介してみます。

第Ⅰ部 : 文字と図による伝達

  • 第1章 : 写本が伝える世界認識
    • 写本から零れ落ちたレイアウトと図に秘められたイスラムの世界認識再構築
  • 第2章 : 世界図はめぐる
    • プトレマイオス図の東辺に顕れる東南アジア交流路の実態とイドリースィー図にすら影響を与えた中華世界の地図たち
  • コラム : 地図屏風に見る世界像
    • 日本に遺される近世世界の地理感認識変遷と日本が与え挿入された地理感

第Ⅱ部 : 印刷物による伝達

  • 第3章 : 書籍がつなぐ世界
    • 訳本と訳者の系統から見る、イスラム世界への逆輸入まで果たした「千夜一夜物語」の実は猥雑な夜伽話の訳し方
  • コラム : 書籍商としての長崎屋
    • 江戸の一大情報サロンに集った人々と明治近代化を陰から支え潰えた長崎屋への想い
  • 第4章 : 近代的新聞の可能性と拘束性
    • 電信と挿絵が作り出した迅速、簡潔な伝達表現の向こうに横たわる、メディアと情報共有性の危うい幻想
  • コラム : 新聞の世界的ネットワーク
    • ナイジェリアの新聞発達史に映し出される、自立を始める植民地を繋ぐ知識人ネットワーク
  • 第5章 : イギリスのイラスト紙・誌が見せた十九世紀の世界
    • イラストが描く見下された「向こうの世界」とイギリス帝国主義の次に来る者達
  • コラム: 世界をつなぐ郵便制度
    • 世界最古にして最多の加盟国を誇る国際機関に至る道筋に先駆けたヨーロッパを繋ぐインテリジェンス一族の歴史
  • 第6章 : 反奴隷運動の情報ネットワークとメディア戦略
    • 「奴隷船ブルックス号」イラストとカメオのメダルに象徴される、イギリスの奴隷解放運動を支えた刊行物を広めあう男と女のネットワーク

第Ⅲ部 : 信号・音声・映像による伝達

  • 第7章 : 海底ケーブルと情報覇権
    • 技術と資金に乏しい日本の大陸進出橋頭保で勃発した帝国主義の代理戦争、序章編
  • コラム : 通信社の世界史
    • 帝国主義の下で世界のニュースを牛耳った三大通信社が進める原点回帰とある呪縛
  • 第8章 : アメリカの政府広報映画が描いた冷戦世界
    • アカデミー賞受賞ドキュメンタリー映画の向こう側に垣間見る、冷戦下の情報戦略に映し出された世界の姿
  • 第9章 : サイゴンの最も長い日
    • テレビの向こうに映る戦場報道のリアルと、戦場に持ち込まれた映らない政治闘争の陰
  • 第10章 : 衛星テレビのつくる世界史
    • 宇宙から繋ぐものが変えた、境界線を越えていく報道とネットワーク
  • コラム : インターネットとモバイル革命
    • インターネット、モバイルネットワーク小史と次のジェネレーションへの期待

このように実に幅広いテーマが描かれますが、殆どの章で、ある明確な執筆意図が認められます。

それは、読者に対してこれらのテーマで提示される認識のもう一歩先まで意識を広げて欲しいとう、執筆者たちの願いが込められている点です。

写本を語る章では、これまでの文献中心の史料研究に対して、添えられたであろう図表の研究への更なる配慮を求める。世界図を語る章では、明らかに東西で別々の認識であったとする世界観について、もっと情報の交流があったはずだと認識を改める必要性を訴える。

千夜一夜物語の逆輸入についても、その選ばれる訳書のバージョンや発禁とされる例を示して、訳出という側面と併せて出版による情報の統制とベクトルを語る。近世・近代の新聞やメディアについても、これは日本人研究者故と言う事情もありますが、当時の帝国主義による視点に対してそこには明らかな偏向があり、更には当時の日本、日本人自身もその渦中に突き進んでいった事を濃厚に示唆する。

第二次大戦後の世界におけるメディアを語る章では、東西冷戦という当時を経験した人々には当たり前であった視点自体が現在の研究では「冷戦的視点」とされ、日本人には遠く忘れ去られたベトナム戦争の影が今もアメリカの報道姿勢に重たい影を投げ掛け続けている事を、報道機関への不信に投影する(この不信の先に、特定の指向性を持つメディアへと選択傾向が先鋭化する現状が繋がるのでしょうか)。

更にその先にある、IoTによる末端にまで繋がるネットワークから引き出される、自らの価値を認めた対価として収集され続ける、膨大な個人情報という燃料を掘り当てた巨大企業による利便の代償と、政府による情報の収集とコントロールへの大きな懸念。

情報を伝え、世界を繋ぎ広めていく、それ自体が研究者の方々にとって日常の研究テーマであり、世界史の片鱗でもある媒体たちが、人々の認識という世界史を作り出す大きな力の一翼を担っていた事を示し、その背景までもを描き出そうという壮大なテーマに対して、研究者の方それぞれのエッセンスを読者へと伝えてくれる本書。

ほんの少し肩の力を抜いて一般読者に向けて書かれた、研究者の見出す気付きの向こうにこれまで見えてこなかった魅力的な世界史の姿を垣間見せてくれる一冊。多彩なテーマの向こうに、どんな世界史の一ページが見えるでしょうか。

ちなみに、私のお気に入りの一篇は澤田望先生のコラム。ナイジェリアと言う日本人にとってはマイナーな土地の新聞発展史をベースにして、帝国主義と世界的な通信社の伸張の先に続く植民地時代終焉の序章を、人物像まで織り込んだ魅力的な筆致を以て僅かなページ数で描き込んだその小論に感服した次第です。