今月の読本「島原の乱」(神田千里 講談社学術文庫)中世から見た最後の一揆と百姓たち

今月の読本「島原の乱」(神田千里 講談社学術文庫)中世から見た最後の一揆と百姓たち

世界文化遺産登録に伴って、各種の書籍やTVで多く扱われるようになった、長崎を中心とした近世のキリシタンとその信仰。

テーマの中核に据えられた、苛烈な弾圧に耐えながら敬虔な祈りと信仰をひっそりと護り続けたという扱われ方については、以前からその信仰形態や弾圧の実際について史学、宗教学の観点からより慎重な議論が必要であるという見解もまた見受けられます。

特に、その宗旨と信仰心から、領主の圧政が主因であるとも述べられる、最大にして最後のキリシタン蜂起である「島原の乱」と前述のテーマには、印象として大きなかい離がある事も事実です。

様々に述べられる乱の本質について、それは宗教一揆であると明確に述べられる一冊を今回はご紹介します。

今回ご紹介するのは、2005年に中公新書から刊行され、今年の8月に講談社学術文庫に収蔵された「島原の乱」(神田千里)です。

著者の神田千里先生は中世史の研究者。特に一向一揆や中世の信仰に関する多くの著作を有される方です。九州北部や長崎を拠点に研究を行われる方が多い、前述のテーマを扱われる研究者の方々とは少し系統の異なる、どちらかというと中央における歴史の推移を研究されてきた方。

本書を綴るにあたって、そのバックボーンとなる九州におけるキリスト教の受容や禁教に入った以降の潜伏した宣教師、キリシタンたちの信仰的な態度について述べられる指摘の多くは、前述の研究者の方の研究成果を引用する形で紹介していきます。領地を挙げて改宗を受け入れた先で、既存の神社仏閣を破壊し、信者、神職や僧侶を在所から追い立てた、伝道の勝者としてのカトリック。その中でも会派や宣教師よって異なる為政者への近づき方、その見返りに求められた苛烈を極めた既存宗教への「弾圧」といった、受容しなかった側が受けた迫害の側面の指摘はそのまま踏襲されています。

その上で、中世史の研究者である著者が着目する点は、乱の趨勢を決めるキーとなった「百姓」達の動き。

著者の視点では、近世に入った当時でも中央に於ける兵農分離の掛け声とは裏腹に、統治者としての武士と百姓の力関係、共存の関係はそれほど変わっておらず、乱を起こす側も鎮圧する側のどちらも百姓たちの「一揆」を取り纏めなければ始まらないという点を、島原の乱に参戦した幕府側の陣容も示した上で明示します。

私領の集積である近世幕藩体制において、それ以前の豊臣政権期から中央からの威令の伝播が領地ごとに大きくばらつきが出る点を指摘する著者。それは宗教政策としてのキリシタン禁令についても同じことが言えると指摘します。追記されたあとがきでは、更に他の研究者の方によるその後の研究成果を引用して、乱の僅か4年前まで当地では宣教師が潜伏し信仰が継続していた事を採り上げ、信仰を核とした一揆としての百姓たち、それを先導した指導者層の棄教はそれほど進んでいなかった点を指摘します。

水面下で持続していた信仰とそれでも年々強まる禁圧、領主の圧政、飢饉という複数の要因が重なって始まった乱。その発端はこれまで述べられてきた説を踏襲しますが、著者はより伝道の勝者としての過去の側面、排他的な形態を採る事を厭わなかった、堅く信仰に立ち返った人々と、著者が述べる「日本宗」と称すべき本地垂迹から続く神仏習合の信心を踏まえた人々、為政者たる武士たちの間を、中世の一揆同様に自らの生存を賭けて行き交う百姓たちの趨勢が乱を動かしたと示していきます。

乱の発生から緒戦の圧倒的なキリシタン勢力の攻勢の一方で、要地である長崎へ侵攻できなかった事で一地方反乱に留まる事となった乱の現実。迅速な周辺諸藩の参戦により乱が大きく波及することを狙った指導者たちの思惑が外れると、逼塞の中から再び蠢動を始める百姓たち。双方に付いた百姓たちは決して堅固な意思を以て従っていた訳ではない事を、離反した人々の言葉を集めて解説していきます。豊富に述べられる戦乱自体の推移からみた双方の思惑。籠城後も依然として外部、殊の外に他のキリスト教勢力からの支援を受けられる可能性に一縷の望みを繋ぐ籠城指導者層の思惑を挫く、オランダ船の砲撃(国辱であるという意見を汲み入れて松平伊豆守は引き上げさせたようですが)。自殺を許されないその信仰から、滅亡を望む籠城はそもそも有り得ず、中世の一揆の戦法を引き継ぐ指導者たちも打開策を具えない籠城を選択する筈はないと断言します。

要地を抑えて更なる同心者を募るか救援を待つ、さもなくば緒戦の勢いに乗じて相手が戦力を結集させる前に、妥協としては最も有利かつ唯一の条件と考える、水面下では僅かに見逃されてきた「信仰の維持」を呑ませるか。

その信仰する姿が素朴で現世利益的な民俗信仰的とも評価され、カトリックの信仰を継承していないと見做される事もある中世期の日本におけるキリスト教の受容。それ故にこの乱が一部の指導者による信仰心とはかけ離れた扇動であるように指摘する論調に対して、一向一揆の研究を通して日本の宗教史にも深い造詣を持つ著者は、譬えそのような側面があったとしても信仰心に違いはないと明確に指摘します(それがなぜ苛烈な方向に進んだのかについても)。その一方で、2万から4万人弱とも謂われる籠城者達のうち約1万人は籠城中に逃散した事が推定されてきており、中世の一揆同様に自らの生存の為であればどちらへとでも動く百姓たちの生き抜くための姿も認めていきます。

援軍と妥協、どちらも叶わなかった先に対峙した原城での攻防。これまでの経緯から更に信仰への危機感を感じた時の為政者たる幕府は、その後に繋がる頑として信仰を受け入れられないという姿勢を乱の推移を通じて固める結果となったようです。

乱の本質に対して、宗教的な知見からではなく、少し前の世代の百姓たちの動き、その結集点である「一揆」を軸に読みとこく事を目指した本書。近世の途上に起きた百姓たちによる最後の武装蜂起の姿は、その後逼塞することになりますが、百姓たちの合議による集落を単位とした社会構造は近世を通じて維持され、その中で場所を変え、あるいは乱に参加することを良しとせず、カクレキリシタン(潜伏キリシタン)として息づいていった点も、文庫収蔵時に追記されたあとがきで示していきます。

本書は原著が2005年と近年の世界文化遺産登録に関連した書籍が揃いはじめる前に刊行された事もあり、著者によるとその内容を並置される事には忸怩たる思いがあるそうで、「学術文庫版へのあとがき」として20頁程の追記がされています。

特に、近年の潜伏キリシタン関係研究成果への言及や、同書の後に刊行された同一テーマの著作については書名を挙げて検討を加えています。その中で上記に掲載しています一冊については、伝教期や潜伏期のキリシタン動向を著者自身も多く引用するキリシタン研究者の著作。当該書を最後までお読みになった方は、著者と同じようにそのスタンスに対する疑問を持たれたかもしれません。

乱の推移を中軸に置き、中世史と言う歴史的な流れから乱の本質を説き起こそうという本書に対して、カトリック伝来から説き起こしていく事でキリシタン信仰の受容と強勢、禁教という一連の信仰の流れから乱の姿を読み解いていく一冊。併せてお読みいただくと、より一層の議論が深まる筈です。

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諏訪市博物館の特別展「日本最古!?諏訪で発見された300年前の押し葉・押し花」と講演会(科学と実学の端緒を示す貴重な発見へ)

諏訪市博物館の特別展「日本最古!?諏訪で発見された300年前の押し葉・押し花」と講演会(科学と実学の端緒を示す貴重な発見へ)

先月、国立科学博物館で公開された、諏訪市在住の方が所蔵されていた江戸時代中期の押し葉・押し花の展示。NHKの全国ニュースでも報道されていたように、現時点で国内最古の年代が確定できる押し葉・押し花と認知されているようです。

国立科学博物館との共同研究という形で発表された今回の発見。先行展示となった東京から所有者が在住する諏訪へ戻され、今回寄託を受けることになった諏訪市博物館での凱旋展示が始まりました。

駐車場に掲示された案内看板。エントランスに向かう通路の両脇にも幟が立ち並び、今回の展示に向けられた博物館の意欲が伺えます。

講演会が始まる20分ほど前に到着したのですが、何時もは閑散としている駐車場が満車になろうかという程の入り具合。連休とはいえ、ちょっと驚きながら館内へ。

展示は1週間前から始まっていたのですが、本日(9/22)は今回の収蔵と分析を指揮し展示の監修も行った、国立科学博物館の鈴木一義先生の講演会を聴講する為に訪れました。

三連休初日の土曜の午後、地元マスコミの取材も入り、ロビーには人が溢れ定員50名に対して急遽増席を行う程の盛況となった講演会。登壇者のプロフィールが館長から紹介されると、一瞬、きょとんとされている聴講者の方が多かったようです。

歴史学か自然科学の研究者が紹介されるのかと構えていると、所縁として語られるのはお隣の下諏訪町にある儀象堂(現:しもすわ今昔館おいでや)の中庭に据えられた巨大な水運儀象台の復元プロジェクト。江戸時代の学問や技術史にご興味のある方でしたら「からくり人形」復元でも知られる、近世、近代の技術史研究者の方です。

冒頭の国立科学博物館が調査協力を行うまでの経緯と今回の収蔵に当たっての史料の分析、保存処置に関する説明。虫食いも殆ど無く、実際に展示を見ても驚くほど鮮やかな墨跡が残る点は、諏訪と言う冷涼で乾燥した土地で江戸時代から蔵の中に保存されいた事が長期の保存に繋がったと紹介されています。その一方で今回発見された史料から僅かに遅れる享保9年の記録が残る京極家に伝えられた物が既にあり、今回の発見が諏訪という土地だからという地元贔屓的な視点はあまり持たない方が良さそうです(展示に添えられて掲示されていた内容と寄託者のお知り合いの方々がおしゃべりしている内容を聞いていると、30年前に蔵から出して色紙にテープで張って額装にして、ご自身の経営する会社で飾っていたとの事。保存措置から発表まで約1年を掛ける事になったのも、一部の史料の出自が不明確となったのも、その際の処置にあるような…)。

今回の発見。前述のように江戸時代の植物標本(プロジェクトチームで同定を担当した植物学担当の方によると、採集部分が標本の要件を具えていないので「西洋科学」的には標本とは見做せないため、あくまでも押し葉・押し花だと)は数多存在し、今回の発見より更に古いと見做される標本例の話も多数持ち込まれるそうですが、決定的に異なる点を指摘しています。それは

「採集年と採集場所、採集者が史料に付され、その記録の確証が取れている点」

科学にとって記録が為されているという事が如何に大事かというお話を起点に、中華圏における本草学を受容して日本で発展した本草学とその後の蘭学の受容、幕末以降の近代科学技術への驚くほどの順応性を見せた際の、日本の本草学先駆性を西洋科学との時間軸的な対比から説き起こしていきます。

曰く、リンネの分類法が発表された時代と、今回の発見はほぼ同年代であり、その後の将軍徳川吉宗による国内物産振興政策に基づく本草学の発展と蘭学の受容があったからこそ、シーボルトが来日した際に、当時の儒学をベースにした素養の上に築かれた蘭学の知識を持った学者たちには、既に彼の学識を充分に受け止める素地が出来上がっていたと指摘します。日本の科学技術が明治以降の文明開化によって西洋からもたらされたという視点に対して真っ向から異議を唱える見解。既に記録収集の作法を身に着けていた日本の本草学が蘭学を受容した先で科学への橋渡し役となった宇田川榕菴に繋がるのか。蘭学者の系譜を綴る線表の解説を聞いていると、その発端に今回の発見が繋がるのかが今後の大きな研究課題となりそうです。

そしてもう一つのお話、日本人がこれらの採集をどのような想いを以て行っていたか。色や形への命名法を比較しながら、「物の名前」で分類を行おうとする日本人と「分類する記号としての名称」を行う西洋の手法、その延長にある細密に分類していくことを基盤とする科学と、実際に作られた物、技法や手法への視点を重視する本草学の先に花開いた日本のオリジナリティとの違いを、実学という言葉を使って技術者の立場から見つめていきます。パトロンとしての王侯貴族の好奇心を満たすための科学と、領民に安寧を与える事を学者たちに求めた歴代将軍や大名の、領土的野心を放棄した先で代を継いで自らの領地をより良くしていくという意義の先に見る実学と言う視点には疑問を挟まない訳でもない(氏は徳川家の関連団体で評議員を務めているそうです)ですが、氏の研究テーマとしての日本の技術史と言う意味では(逆説的には基礎科学、原理や法則軽視という意味でも)とても良く理解できる講演内容。

展示会場は撮禁、発表直後の速報段階での今回の公開となったため、図録等の準備もまだの状況でしたが、渋江隼之丞や藩主である諏訪忠虎の動きと史料が対比できるように配慮された、国立科学博物館の協力による同定作業の結果をまとめたシートが配られています。

展示内容は、今回発見された史料(前述の状態から洗浄、復元処置を受けた後に、収蔵庫に収めやすいようにでしょうか、セットごとに書付と組み合わせでボードに留め具で嵌められて収容された押し葉・押し花)を中心に、採集者である渋江隼之丞の出自やその後に新知取立てとなった際の石高、藩内での職制を示す史料(これらが他家の史料から読み解ける点が、実に諏訪における史料保存が良い証拠)。更には、今回の講演者である鈴木一義先生の影響を多分に受けたと思える、江戸時代の本草関連書籍の展示(貝原益軒の大和本草?だったと思いますが、一組み揃いで中央に一段高く飾られていたのは如何にもといった感じで、特に印象的でした)。明治期以降の霧ヶ峰における植物採集の記録など、本草から植物学へと言うテーマを強く印象付ける展示内容になっています。

講演会の後に会場から出ていかれる方々のおしゃべりに耳を傾けていると、多く参加されていたご年配の女性の方を始め、明らかにこの講演会を目当てにされていた植物や自然環境、郷土史にご興味のある方には肩透かしだったのかな、と思わせる反応も(私はヨーロッパを含む近世技術史も大好きですので、とても楽しかったです)。

確かに植物学的な知見や歴史的背景といった点では明らかにベクトルの異なるお話でしたし、日本史や地域史としての視点で採集や発見の経緯を聞きたかった方にとっては物足りなさも感じた内容だったかもしれません。しかしながら、発見から漸く速報としての展示に漕ぎ着けたばかりの今回の特別展。現在の環境では情報のスピードを競うのは研究成果や博物館の展示も全く同じで、まずは史料の保存状態を万全にして日本最古との学術的なお墨付きを与え、その貴重な記録が江戸時代中期と言う、西洋に伍して極めて早い段階で築かれたという事実を定義づける事の周知を第一とした今回の展示。

深く長い歴史を積み重ねてきた諏訪の地。旧家が多く残り、厳しい寒さの一方で恵まれた保存環境にあるこの地で、今回に続く新たな発見はまだまだ続くはず。今回の発見成果を歴史や科学の一端として語るにはまだまだ時間が必要な事でしょう。

更なる研究の先にどんな事実が見いだされるのか。諏訪の地に戻ってきたその史料たちが更なる知見を与えてくれるように、大切に保管される環境と多くの方々に周知される機会が得られたことをまずは喜びながら。

諏訪市博物館の特別展「日本最古!?300年前の諏訪で発見された押し葉・押し花」10/14までです。

 

今月の読本「刀の明治維新」(尾脇秀和 吉川弘文館)帯刀から廃刀まで、武装と虚栄の狭間を綴る近世史

今月の読本「刀の明治維新」(尾脇秀和 吉川弘文館)帯刀から廃刀まで、武装と虚栄の狭間を綴る近世史

日本では銃刀類を所持する事は法律で厳しく規制されていますが、太平洋の向こう側、アメリカでは様々な議論や悲劇的な事件が繰り返されつつも決して全面規制には至らない理由に「所持する権利と自己防衛」という論点が繰り返し述べられている事は、よく知られていると思います。

時に野蛮なと捉えられるアメリカでの銃の所持。では日本では昔から武士以外は武器を持つ事も、それを使用する事もなかったなどという筈は無いかと思います。

何時の頃からか武装することを止めた日本人。今回ご紹介するのは、その変遷を近世史として俯瞰で教えてくれる一冊です。

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館の歴史文化ライブラリーより、7月の新刊から「刀の明治維新」(尾脇秀和 吉川弘文館)です。

著者の経歴を見るとおやっと思ってしまいます。仏教系大学で学位を修められていますが、その専攻は近世の農村と百姓の研究。本書の表題だけに着目してしまうと、今年は多数の新刊が各社から刊行されている、幕末から明治維新期を扱った作品の一環とも見えますが、本書の過半は江戸開府以前から幕末までの記述で占められており、より広範な近世史として捉えられる一冊になっています。

200ページ前後が多い本シリーズの中では少しボリュームのある260ページオーバーの前後編に近い形で綴られる本書。明治維新を境にその内容は大きく変わりますが、著者が着目するテーマは一貫しています。刀を帯びる(=帯刀)という意味合いと、庶民は武装していたのかという二つの扱いが混乱している点を整理したうえで、近世史におけるその推移を追っていきます。

刀を帯びる事の事例を拾うに当たり、著者が選んだ場所は幕府の法令が明確に示される江戸と、旧来からの因習が江戸期に入っても強く残る京、そして都市部との比較としての農村と言う三つの舞台を比較していきますが、冒頭である通説に対する否定を述べていきます。

即ち、秀吉の刀狩によって民衆が刀の所持を放棄し、それによって兵農分離が進んだという教科書的な見方は極めて限定的であると明確に否定し、江戸幕府は刀を保持することを否定しておらず、旅行時や特に農村において刀を帯びる事は明治の廃刀令が出されるまで営々と続いていた事を明示します。その上で、武士以外の刀を携帯する様式を規制したのは、傾き者対策の一環として、都市部における町人と武家の識別を行う事(=帯刀、二本差し)から始まったと指摘します。市中の風俗対策として始まった制度、従って幕府としては町民や農民が刀を帯びる事を全く否定はしておらず、そのような意味では西部開拓時代同等、自力救済的な武装を容認していた事が判ります。但し、威圧的な形で刀を帯びる事自体が風紀を乱すと見做された経緯からも、その形態には様々な規制が掛けられ、アメリカの銃規制そのままに、長大な刀から脇差として寸法が狭められていく過程を、刀剣の形態や携帯する方法の変化から示していきます。

また、本書で極めて興味深いのが、前述のような経緯を更に補完する為に京における事例を添えていく点です。近世の特徴として為政者たちの支配領域の重複が数多ある中、支配する側としては相互の干渉を嫌う一方、その立ち位置故に双方に従属せざるを得なかった、旧来の支配家の差配による朝廷の行事や神事、仏事に携わる市中の町民(広義の地下官人)や郷士(土佐の郷士とは異なる、由緒のある農家)に対して、非常帯刀という、その職務に当たる時だけ帯刀を許すという、回避手段を設けた点を示しています。

武士とその他の人々を峻別し、それを苗字帯刀と言う形で示すようになったのは漸く元禄を越えた辺り、更には前述の人々や修験者など例外が数多くあった事を示し、此処に初めて武士だけではない、現代で云う公職に限りなく近い身分を示す「帯刀人」という、新たな階層が生まれた事を見出していきます。

前述のように、その規制が始まった段階から複雑な例外が設けられていた帯刀と帯刀する人々。幕府が安定してくると、早くもその例外を通じて帯刀を求め始める人が現れてきます。始めは前述の京における非常帯刀と同じ、元来町民身分でありながら幕府の役を務めていた家の当主が、規制によって生じた(差)を埋める事を求めて運動を始めます。町民と武士を識別する為に生み出された、見える形での差を示す帯刀。既に武器としての役割を果たさなくなった帯刀が生み出す、今度は視認による身分差、家格差、優越感。更には火事場、大工や水主等の現場作業における上下関係を威圧として示すため、標識としての帯刀が渇望されていく様子が描かれていきます。

田中丘隅の言葉を借りて、他者に対する優越感を生み出すその悪弊を指弾する意見に同意を示す著者は、これ以降に頻発される(田沼時代から増加するという見解に対して、そのように見做せると)褒賞や対価を伴う利権化した「名字帯刀」に対して苦々しい想いを隠さず、更には由緒を捻じ曲げてでも帯刀する格式を求める人々に対して否定的な想いを込めて、その推移を虚栄と弛緩と捉えて述べていきます。また、褒賞を受けて権利を得た町民たちだけでなく、武家奉公人としての職務を離れた者や神人、医師、鋳物師等の旧来の免許制度の延長に帯刀を求める人々が刀を帯びる姿から、江戸時代は武士だけが刀(=帯刀、二本差し)を帯びるというイメージとは大きく異なり、多くの町民や農民たち、更には女性であっても護身のためには当然として、普段は腰に帯びなくても仏事や神事ではいずれも威儀を正すために刀を差し、数多の武士以外の帯刀人も都度に合わせて帯刀をしていた事を示していきます。

自己防衛のための武器と言う位置付けから大きく離れて、威儀やステータスとして刀を持つ事は当たり前のように記される江戸期から、明治維新期に入るとその姿は大きく変わっていきます。所謂廃刀令をピークに段階的に規制される刀の所持。その意義を検討する中で、著者は興味深い視点を提示していきます。すなわち、明治新政府にとっての廃刀令の端緒は、幕末に弛緩した帯刀の権利を制限する過程で生まれたと見做していく点です。表面上は四民平等を謳いながらも、実質的には新たな官吏とそれまでの権利を保持する士族、その他の平民と言う3段の階層構造を持ち込む事で、旧来から続く、藩と幕府、武家と町民、更には公家や地下官人、神社寺院などの複雑に入り組む階層構造と、顕彰や一種の公職としての地位の清算を狙った政策。この政策の完成された姿としての、士族を含む官吏以外のすべての市民の武装を取り除く(所持までは否定されていない点に注意)事で、平等化したことを視覚的にも示す廃刀令。

ここで更に興味深い点が、刀を携帯するという、江戸時代にはステータスとされた権利を旧弊の象徴として意味づけを置換していく過程で、著者が福沢諭吉を持ち出す点です。曰く、「斬捨御免」と言う言葉自体、彼が生み出した造語であり、旧弊の象徴として、その武具である刀を保持する事への、幕末期の世情を踏まえた嫌悪感を醸成させたと見做していきます。加えて、官吏の洋装化が帯刀の不便さを助長させ、官吏側から常時帯刀の解除を求める請願が集まって来た点を捉えて、最終的には帯刀だけではなく刀(=武器)を保持する事自体に否定的な世情を生み出した上での廃刀令に至った点を当時の新聞記事などを援用しながら解説していきます。

戦国の混乱期から長く続いた全員武装状態から、現在まで続く自衛手段を含めて日常的に非武装となった日本人。その過程で生じた「帯刀」という名の、識別子がどのように変化していったのかを辿る本書。著者は刀狩りから続く偃武の完成が武装を放棄させたと見做す視点に明確な否定を示し、むしろ江戸時代を通じて遥か彼方に遠ざかっていた武装する意味合いを再び目の当たりにする事になった、白刃が斬り交わされた幕末維新期の不穏で殺伐とした状況への嫌悪感が、個人が武装するという中世末から連綿と続く状況の否定を容易に受け入れる素地となったと指摘します。

廃刀令によって生み出された物、それは近世と言う封建身分制最後の時代にその象徴として捉えられる感もある帯刀に重ねられた虚飾に対しての否定ではなく、その本質であった武装するという姿が否定された結果、初めて武器を持たない市民と言う現代の姿が生まれた事を示唆します。

歴史文化ライブラリーらしいテーマの中に、当時の識者の言に託して要所に著者の想いを織り込みながら。江戸期における為政者側の認識や視点がやや見え難い点がちょっと残念なところもありますが、興味深い著者の視点が豊富に盛り込まれた、余りに当たり前のようで実は充分に理解されていない歴史上のポイントとして、改めて考え直してみたくなる一冊です。

 

今月の読本「踏絵を踏んだキリシタン」(安高啓明 吉川弘文館)聖具から道具へ、 行政史が示す踏ませることの意味

今月の読本「踏絵を踏んだキリシタン」(安高啓明 吉川弘文館)聖具から道具へ、 行政史が示す踏ませることの意味

今年は長崎のキリスト教関連史跡が2度目の挑戦となる世界遺産登録を目前としている事もあり、各社から多数の関連書籍が刊行されています。

特に、歴史的な悲劇としての迫害と弾圧、奇跡と復興と言うイメージを強く印象付ける作品や、それらの視点の根底にあるカトリックとしてのキリスト教受容を問う内容に関する書籍は既に一部で採り上げられるようになってきましたが、その素地となる史学としての研究成果については、あまり言及されていないのが実情のようにも感じられます。

そのような中で、禁教期の象徴として捉えられる遺物に纏わるテーマを史学として正面から捉えようという一冊が登場しました。

今回ご紹介するのは、何時も新刊を楽しみにしている、吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリー最新刊から、「踏絵を踏んだキリシタン」(安高啓明 吉川弘文館)をご紹介します。

本作の著者は熊本大学で教職に就かれている近世史の研究者、特に江戸時代の長崎を中心とした行政、法制史を専門とされている方です。従って、昨今多く刊行されている関連書籍の著者や登場される方々とは逆の立場、禁教を推進した側、当時の江戸幕府や長崎奉行、九州各地の藩や天領支配からみた禁教政策を描くことになります。

一時期、カトリック系の大学に籍を置かれていた事をあとがきに記されていますが、本書では中立的な著述を踏まえると敢えて述べており、心情的な筆致は最後に述べられる遠藤周作の『沈黙』が描く踏絵の姿を評する際に、僅かに添えられるに過ぎません。

長崎に生まれ、九州をフィールドとする近世史の研究者である著者が綴る「踏絵」のストーリー。冒頭では教科書記述の錯誤を正し、読者の歴史認識を整理する為に、ザビエルによるキリスト教の伝来から禁教に至る経緯から述べる本書。禁教期の幕府や各藩の政策やキリシタンの露見、そして開国後の禁教政策の段階を追った解除に至るまでの概要を示しますが、まずは多く流布しているこれらに関するお話や認識が、あまりにも誤謬と誤解に塗れている事に改めて気づかされます。前述のように総論の記述は高等学校の日本史教科書レベルの筈なのですが、江戸時代の禁教政策がどのような形で始まり、開国後も最終的には大日本帝国憲法の発布を待つまで(ほぼ)解除されなかったのかを、史学、特に法制史や外交史として再認識する必要がある事を指摘します。其処には、江戸幕府から明治新政府における文書行政による法秩序、対外的な施策を含む政策の継承性、一貫性と言う近世国家が作り上げていった規範の推移が、禁教政策を事例として示されていきます。

史学としての理解を前提とした上で述べられる各論。長崎奉行、代官の成立から職務範囲、その中で踏絵の発祥と成立から議論が始められますが、ここで判っているようで全く判っていなかった事実に突き当たります。踏絵が何処までの範囲でどのように実施されていたのか。本書の中核となる、九州各地における踏絵の実態に追っていきます。「絵踏」(「踏絵」と、この呼び方の検証は本書の冒頭にて議論されています)と呼ばれる行為自体が九州でも限られた地域、そして踏まれた遺物の分布をみても、長崎奉行と九州の極僅かな藩が所有する以外には会津に存在したことが判っているだけで、極めて限られた地域での実施であった事を示します。また、各地で鋳造や絵で描かれた踏絵が作られたとされていますが、その殆どが明治以降のキリシタンブームによって捏造、模造された物であると指摘します。現在東京国立博物館に収蔵されている、長崎県令から明治政府の教部省を経て、最終的には時の太政大臣、三条実美の決裁により国が管理する事になったこれらの踏絵や江戸時代に長崎奉行が管理していたキリスト教関連遺物。外交問題としても捉えられるほどに重要な物品として取り扱われる踏絵の管理は幕末まで厳重を極め、その管理や連年繰り返される各藩への貸与自体が、九州における幕府、特に出先機関である長崎奉行の権威と統制を示す行為の一環であったことを認めます。

そして、絵踏みを行う行為について、著者は行政史の専門家としてその実態を各地の記録から丹念に拾い上げていきます。その中で著者が繰り返し述べていく事、「踏絵」という行為の変質。本来はカクレキリシタンをしらみつぶしに探し出すために、メダイやプラケット、宗教画をモチーフにした「聖具」を踏ませることによる、信仰心を突き、宗教的良心の圧迫と背徳感をもたらせるための異端探索であった絵踏みが、寺請制度と組み合わされた、人別帳確認としての行政行為の一環、制度が守られている事を確認する作業を遂行するための「道具」へと、長崎奉行所が主導して造られた、現在残されている鋳造品の踏絵を用い始めた時点で変質していったと指摘します。

為政者によってコピーされ、聖具としての魂の込められていない「道具」としての踏絵。それでも、連年九州各地(ここで薩摩や福岡、佐賀といった大藩や薩摩の属領を含む日向では行われていなかった点にも注目)、後に天領となった五箇荘にまで長崎代官所の役人を送り込んで行われる絵踏み。その行為は、前述のように長崎奉行所を軸に九州各地の藩や天領における住民に対する支配体制や法令順守の再確認の場であったことを示していきます。その結果、人別確認的な指向の強い非常に厳密に行われていた制度自体が、江戸後期になると藩によっては名誉的な名字帯刀を与えるのと同じような形で免除を与えたり、絵を踏む側の住民達にとっても、大勢が集まり、並んで絵踏みを待つ人を目当てにした屋台などが並ぶ「ハレの場」へと変容を遂げていた事を記録から認めていきます。

では、踏絵の本質であったキリシタンの詮索という目的が失われてしまったのか。此処で、著者は思いがけない見解を示します。禁教が続いてからも断続的に発覚した「崩れ」と呼ばれる潜伏キリシタン(この表現にしておきます)の発覚。しかしながら、江戸後期に至ると、発覚者自体を「キリシタン」とは認めず、別の理由を付けた処置を行う事になります。法制史が専門の著者の見解が存分に示される部分。天草崩れや浦上三番崩れ処置の過程から、為政者にとって「踏絵」を行っている以上、キリシタンは存在しないものという行政にとっての一貫性に対する誤謬を認める事は出来ず、類似した行為が発覚したとしても、それを「キリシタン」であると証明する手段が踏絵以外に存在しなければ、「キリシタン」ではない別の異端者である(この辺りは江戸時代の本山制度の理解も。処罰の対象は檀家寺側に)と定義づけられることになります。

隠れでもカクレでもない、もちろん(潜伏)でもない。そもそも「幕府が公認する」キリシタンではない。踏絵を踏み続け、先祖伝来の「異宗」を守り唱え続けた「心得違い」の者たち。

更には、天草崩れ発覚の経緯から、これらの前提がむしろ支配体制の弛緩をカクレキリシタン探索として幕府に暗示された先に発覚(島原藩が自ら長崎奉行に届け出る形に)した可能性すら匂わせていきます。本書でも述べられるように、余りの発覚者の多さに地域社会が崩壊することを懸念した長崎奉行を始めとした幕閣が敢えてカクレキリシタンとしての認定を回避したとも謂われる、江戸後期に起こった一連の崩れの処分(一方で、浦上四番崩れは自ら教会に駆け込みキリシタンであることを明確にしており、開国後の対外的な禁教維持の姿勢を示す必要性からも処罰に至ったと)。穿った見方をすれば、この本質の変容が、カクレキリシタンをしてカトリックとしての信仰継承性を有しないという一部にある論に対する、近世史からの暗喩にも思えてきます

その延長として、一部で喧伝される「出島のオランダ人も毎年踏絵を行った」という記述に対しても、その後のペリーによる回顧通り、唐人屋敷に集住する清から往来した貿易従事者達や漂流者(帰還した日本人を含む)と異なり、オランダ人には外交上の配慮から踏絵を課される事が無かったと改めて指摘します。

内政だけではなく、貿易や外交なども包括する時の政府(幕府)としての政策の一環であった、九州地方における絵踏という行為と、その継続性を示す道具である「踏絵」。

幕府のお膝元から遠く離れた地における支配体制の強化の一環とも捉えられるその制度の本質が変化していく過程を、行政としての「絵踏」から捉えた本作。表題にある「キリシタン」の部分は巻末の僅かな記述に留められていますが、その道具に秘められた歴史的な位置づけを史学として冷静に捉える。歴史と文化、其処に残された文物を学問的背景に基づいて綴る事をテーマにした本シリーズらしい一冊。

折角の機会ですので、豊富になってきたこれらのテーマを扱った書籍を手に取って、色々と読み比べてみるのも面白いかもしれませんね。

 

今月の読本「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)江戸の科学技術を育んだ技巧者ネットワーク列伝

今月の読本「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)江戸の科学技術を育んだ技巧者ネットワーク列伝

実質的には長く鎖国状態にあった江戸時代の日本。それにもかかわらず、幕府も各藩も、更には民衆ですらも開国後の急速な海外から流入する言語や文化、道具や技術に柔軟に対応したように見えます。享保の改革以降に禁書政策が弛められた成果が大きい事には論を待ちませんが、それらの書籍を使いこなし、実際に自らの力に変えていった多くの人々によって、その素地が培われていたはずです。

今回ご紹介するのは、珍しい切り口でその伏流の一端を伝記として語る一冊「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)です。

まず、著者の珍しい経歴に驚かされます。ニコラ・テスラ(エジソンと直流/交流送電で争った人物、磁束密度の単位Tの元になった)の日本における顕彰活動を続けている方、およそ本書の執筆内容と異なるような感覚もありますが、時代背景的には同じ産業革命から近代工業が勃興する時代に生きた人物。チャールズ・バベッジ(階差機関の発明者)を扱った著作もある、近代初頭の工業技術に関して、造詣が深い方です。魅惑の付録が発売の度に大きなおともだちの心(とお財布)を鷲掴みにするシリーズのWeb版、学研が主宰する「大人の科学.net」に連載した記事に、登場人物を大幅に増やして書籍化した一冊。その人物選定には、前述の経歴がいかんなく発揮されています。

  • 関孝和
  • 平賀源内
  • 司馬江漢
  • 志筑忠雄
  • 橋本宗吉
  • 高橋至時
  • 国友一貫斎
  • 宇田川榕菴
  • 田中久重
  • 緒方洪庵
  • 川本幸民

出生年別に並べてみましたが(冒頭に年譜が付いています)、知らない人ばかりで、なんで有名なこの人が居ないのと首をかしげる方が多いのではないでしょうか。一方で、著者の略歴を踏まえ、その連載元のテーマをご存知の方であれば、納得の人選がラインナップされています。

その選定には学者や文人というより、むしろ技巧派揃いの職人列伝といった雰囲気が濃厚に漂います。内容のほうも人物伝と言うより「学研 おとな偉人伝」といった筆致で綴られており、時折称揚が過ぎたり、筆が上ずり気味なくらいにのめり込んで綴られる内容に、少し微笑ましくなってしまう事もあります。特に田中久重、国友一貫斎といった技巧派(からくり師)を扱った部分は特にそのような感触が強いですし、平賀源内や司馬江漢に対する技巧者を越えて先取りしすぎたプロモーター的な人物への強い情景、橋本宗吉の紹介に至っては、完全に著者によるオマージュで綴られます)。

個々の人物像に惚れ込んでいないとなかなか描けない熱のこもった筆致。それ故に、要所では突っ込んだ内容も描かれますが、全体としては読物風な内容に留まる点は致し方なところもありますし、表題だけを見て手に取られた方にはその人物選定を含めて物足りなさが感じられるかもしれません。

しかしながら、本書を通して読んでいくとある点に気が付かれるはずです。本文中ではテーマごとに並べられていますが、時代ごとに彼らを並べ、その書かれている内容、繋いできた知識、著作、人物関係を俯瞰していくと、幕末から明治に至るまで、綺麗に彼らの系譜が繋がっていく事になります。登場する彼ら一人一人が直接的に出逢っていた訳ではありません。現代より遥かに交通事情が悪く、情報伝達や出版事情に至っては雲泥の差があった江戸時代。僅かな伝手や人と人を繋ぐネットワーク、表現が良くないかもしれませんが「徒弟制度、学閥、閨閥」といった人の繋がりの中で脈々と受け継がれてきた技術や知識が、当時の学問的共通基盤、儒学をベースに普く彼らの中で行き渡っていった先に、明治以降の海外からの文化、技術の受け皿としての素養が育まれていた事がはっきりと判るかと思います。

彼らが活躍する源泉となる情報と文物のネットワークを構築し、先進的な思考を伝えるプロモーターとしての役割を果たした源内と、そのネットワークに学問と言う重み付を与えて、現代の大学制度に至る教育を通して技術者を生み出す基盤を作り上げた洪庵。その中を埋めていく、特異な技量と旺盛な好奇心、不断の努力で技術水準を上げていった江漢、宗吉、一貫斎、久重。学問的な素地を高めて、鎖国や言語と言ったハンデを乗り越える足場を築き上げていった孝和、忠雄、至時、榕菴。そして、現代の科学技術への橋渡し役を務めた幸民。

江戸時代を通じた、彼らが培った技術とネットワークの蓄積に思いを馳せるとき、どんな情報でも瞬時に集められる現代の我々が見失ってしまった本当の価値が見えて来る。本書の元となった「大人の科学」シリーズが標榜するテーマとも交差する、その原点を見つめ直す一冊です。

 

今月の読本「日本の砂糖近世史」(荒尾美代 八坂書房)憧れ続けた旨味を磨き上げる原点を南蛮貿易の先に追って

今月の読本「日本の砂糖近世史」(荒尾美代 八坂書房)憧れ続けた旨味を磨き上げる原点を南蛮貿易の先に追って

日本人の味覚にとって、甘みは旨味とも評されるように、醤油と塩がベースの調味料に対してコクと照りを与える砂糖は、その入手が難しかった時代から今に至るまで、ちょっとした背徳感(お腹周り…)を持ち合わせながらも、憧れ続ける調味料、味覚だと思います。

そんな味覚の王様ともいえる砂糖ですが、お店で一般的に売られている上白糖がほぼ日本固有の物である事をご存知の方はあまり多くないかもしれません。砂糖をいっぱい使うイメージがあるアメリカ等で一般に砂糖と表現されるのはグラニュー糖。上白糖はグラニュー糖より甘味が強いことが知られており、精製後にわざわざ未精製の原料糖を添加しています。そして日本固有の砂糖としてとくに有名な和三盆。こちらも真っ白なと表現されますが実際には遠心分離で蜜を飛ばすグラニュー糖には及ばず、やはり転化糖成分が多いことが判っています。

日本人が愛してやまない旨味のカギが、他の西洋諸国と少し異なる点を追いかけ始めると、実は日本における製糖技術の歩みが見えてくることになります。

今回ご紹介するのは、その足取りと、僅かばかりに残った当時の製法を海外にまで追った貴重な記録を合わせて一冊にまとめた「日本の砂糖近世史」(荒尾美代 八坂書房)です。

著者は大学で学術博士号を取得された南蛮文化の研究者。戦国末期から幕末の開国に至るまで、オランダや清の船舶で輸入される物資の多くが砂糖だったことはよく知られているかと思いますが、日本人が好んで購入した砂糖が、手間暇かけて精製した白砂糖より、精製の甘い粗糖や黒砂糖だったことが当時の貿易史料などから判ってきています。貿易相手のオランダなどにとっては安価な粗糖が高額な白砂糖よりはるかに高く売れるという、濡れ手に粟の構図が続く日本との貿易(だからこそ出島に押し込められてでも貿易関係を継続する価値があったとも)。もちろん日本にとって、特に貿易による銀の流出に悩む幕府にとって砂糖の国産化は是が非でも実現する必要がある重大テーマだったと言えます。

本書は、その砂糖の国産化にあたっての経緯を、主に幕府主導による国産化の先駆を担った、大師河原の名主、池上家に残った記録を軸に描いていきます。あの田村藍水(と平賀源内)が実際に試作を行った記録を含む、江戸時代中期から幕末にかけてのサトウキビの栽培から黒砂糖、そして和三盆に至る砂糖国産化の記録を丹念に追跡、鹿児島から幕府の手を経て、または民間で全国へとその製造方法が広まっていく足取りを史料で追える範囲で広範に辿っていきます。

この追跡過程で著者が疑問を持った点。黒砂糖についてはいずれも同じような製造方法で広まっていきますが、一方で白砂糖のほうは異なった様相を見せていきます。日本伝統の砂糖製造方法として紹介される、日本酒や醤油などの発酵醸造製品を作る際の絞り取りに使われる押し船を応用した和三盆の製法が確立する前段階。現在の遠心分離で蜜の成分を除ける方法を使わずに砂糖を白くする方法として、漏斗による重力で蜜を滴下させる手法と併せて、蜜を含んだ砂糖に土を被せると白砂糖が得られるという記録が出てきます。

俄かに信じられない、土を被せると蜜が混ざった糖蜜が白くなるという史料の記述。ここで著者は大阪、泉南という商業が盛んで温暖な気候を有する、しかも江戸時代に砂糖の生産が行われていたとう記録が残る場所における発掘成果から確かな証拠を得る事になります。縄文土器の深鉢の底を抜いてしまったような素焼きの土器。植木鉢にしては自立する事が出来ず用を成さないこの出土物を疑問に思った考古学者の相談を受けて現物を確認した著者は、遂に確信を得ることになります。これこそが糖蜜を重力で落下させる際につかう漏斗「瓦漏」に違いないと。しかしながら、出土物からはこの瓦漏と組み合わされたであろう土を被せたという証拠を得る事は出来ません。

著者のイメージが史料と発掘成果との間で交わる先に描かれる更なる物語は、南蛮交易のルートを追って海の向こうに飛躍します。著者の研究におけるスタート地点、ベトナム中部での調査旅行において、これら史料の内容および発掘成果とほとんど同じ砂糖の製法が依然として残っていることを突き止めます。南蛮文化研究者の面目躍如ともいうべき、当時の貿易から見いだされる砂糖の生産地であったベトナム(当時の交趾)。本書の執筆から19年を遡る当時、依然としてその製法を使い続けているという作業場で見せられたのは文献と発掘物にそのまま直結する内容。糖蜜を漏斗に入れた後、土を被せてその上から水で土を濡らして重力による水分の滲出によって蜜を鉢の底から抜き取って漂白する工程を目の当たりにすることになります。ここで著者は水分の滲出だけではなく、被せた土がからからに乾くまで放置し続ける点に着目して、藍水の残した実験の史料と照らし合わせた上で、毛細管現象によって蜜の成分が土に吸着されるのはないかとの仮説を述べていますが、当時のベトナムで行った再現例ではあまり上手く示せていないようです。

サトウキビを絞った目の前で煮詰め、漏斗に入れて、重力を頼りに何か月も放置して被せた土から染み出す水を使って蜜を抜くという手法自体、流石に現在はベトナムでも絶えてしまい、製法再現は不可能になってしまったようですが、その一方で従来の製法で作られた砂糖の風味をわざわざ再現する製品が根強く作り続けられていることを改めての取材で目の当たりにする著者。グラニュー糖に糖蜜を加えて擂鉢状の容器で溶かしてから改めて蜜を抜きながら固めるという、当時の製法の雰囲気までも再現して同じ名前で売られるドン・ムンと呼ばれる砂糖の塊。そのまま食したり、料理の材料として使われるようですが、そのこだわりを見ていると、日本人も上白糖という名称を付けて、わざわざ工業的に蜜を含ませた砂糖を日常的に使い続けているという事実を思い返してしまいます。

日本人が愛して止まない旨味を作り出すハーモニーが、当時の作り方から営々と私たちの舌を捉えて離さない点に少し驚きながらも、丁寧に探求された記録からその驚きの製法の原点にまで辿ることができる魅力的な一冊。版元さんらしくあくまでも史学として纏められた内容ですが、歴史が大好きで食にも興味がある方にはきっと楽しく読めるかと思います。

今月の読本『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎 KADOKAWA)日本人とキリスト教を巡るすれ違う二つの想い

今月の読本『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎 KADOKAWA)日本人とキリスト教を巡るすれ違う二つの想い

New!(2018.4.7) : 本書の著者、宮崎賢太郎先生(現:長崎純心大学客員教授)のインタビューが、版元であるKADOKAWAの文芸書紹介サイト「カドブン」に掲載されています。

ご自身の出自から、研究へ踏み出した経緯とカクレの皆さんとの交流、そして本書並びに一連のカクレキリシタンに関する執筆への想いを述べられています。

 

<本文此処から>

今年、長崎のキリスト教伝教関連の歴史遺産が世界遺産として登録される運びとなっています。

このユネスコの世界遺産登録。同じユネスコが関与する世界ジオパークでも同じような事が生じていますが、本来の趣旨と若干異なる点で指摘を受けることにより審査を受けなおす、内容を見直す事例が散見されています。

今回の登録の経緯に際しても、その受容から現在までの過程を俯瞰で捉えるのではなく、より禁教期を重視した内容に変更するようにとの指摘を受けて修正を経た上での申請となりました。

この指摘、ある程度事情をご存知の方であれば、キリスト教の奇跡としての側面を強く重視した指摘である点はご理解されているかと思いますが、この点について以前から敢然と誤った理解であるとの意見を述べ続けられる、地元長崎で長く研究を続けている方がいらっしゃいます。

今回ご紹介するのは、その方が所属される大学を離れられた後で初めて上梓する、これまでの研究成果を通じて、長崎における伝道と禁教、復活から今に至る歴史を、キリスト者(クリスチャン)として一般の方に伝える為に書かれた一冊です。

潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎 KADOKAWA角川書店)のご紹介です。

著者は長崎純心大学で隠れキリシタンの研究を30年に渡って続けられていた方。主に天草および島嶼地区を丹念に回り、現在でも信仰を維持されている方々の元へ繰り返し訪れてインタビューを行い、詳細にその信仰の全容を解明する研究を続けていらっしゃいました。

依然としてその全容を解明出来た訳ではなく、更には現在まで信仰を維持されてる方は著者の認識では僅かに80軒程度(厳密な形でとの前提)まで激減しており、もはや全容を把握する事は不可能になりつつあるという認識を示しています。そのような状況の中でフィールドワークを続けた記録は、本ページでもご紹介している前著「カクレキリシタンの実像」(吉川弘文館)で詳述されているように、その信仰は一神教(クリスチャンなので正確には三位一体)とはかけ離れた、先祖崇拝をベースに、シャーマニズムによる隠蔽性を秘匿と置き換えた、多神教の集合崇拝における一つの神としての「カクレ」であるとの認識を、キリスト者でもある著者は繰り返し示しています。

本書では、上記の認識に基づき、より一般の読者に向けて、隠れキリシタン(本書では著者の認識に従い、潜伏期はカクレキリシタン、教義としてはカクレ、一般名称としての現在の信者の方々を含むその信仰形態全般を、昨今の事情を鑑みて潜伏キリシタンと称します)の現在の信仰や生活と、禁教期における記録に残る信仰の姿を述べると共に、ザビエルの伝教から長崎における布教期、禁教に至るまでの経緯といった、日本におけるキリスト教の伝教を理解するために必須となる基本的な内容と、現在の信仰、特にカトリックとの関わり合いについて述べていきます。

伝教期に於いて、その大多数は集団改宗であり、満足な宗教的知識を持ち得なかった点。禁教期において伝え続けられた内容は、式文などには僅かにその面影が残るものの、内容は全く理解されずに唱えられていた点。一神教ではあり得ない、他の神仏と並べられて祀られるカクレの神。その延長で述べられる、現在の長崎におけるカトリック信者(全国でも最多の人口比)に含まれる禁教期を経てカトリックへ戻って来た方々の一部に対して、神父の方が指摘される「第三のキリスト教」と表現される「カトリックの檀家」との衝撃の発言。

本書の内容を初めて読まれた方は少し奇妙に思われるかもしれません。著者は明らかにクリスチャンの方なのですが、その著述内容は明らかに隠れキリシタンの信仰を自身の信仰と同じと見做される事を忌避されているように見えてきます。更には海外、特に同じクリスチャンを中心に、カクレの間で受け継がれてきた信仰を奇跡として捉える事に対して、その理解は浦上四番崩れに際して、それ以前の開国時にフランスから上陸した宣教師たちにより再改宗された際に捏造された印象であると、敢然と否定の意思を示します。カトリック教義との整合性に対する否定的な見解の先に、著者は隠れキリシタンの解説を大きく逸脱して、自らの信仰、教会を戒める数々の指摘を文中で繰り返し述べていきます。

カクレキリシタンが受け継いできた、そして今も潜伏キリシタンとして、更にはカトリックに復帰された方々の信仰すらも、本質的なカトリックとは異なると述べる著者。その一方で、奇妙なことに同じ文脈を用いてまったく逆の議論を始めます。これほどまでにキリスト教による教育環境の恩恵に浴し、キリスト教の風習に親しみ、国の象徴たる一族すらその宗旨と深い関わり合いを持っているこの国は、キリスト教(≒クリスチャン)に一番好感を持っているのではないかと。著者はその認識に基づいて、本論と同じくらいの力を注いで、なぜ日本人にキリスト教が受け入れられないのかを綴ります。

本書を表題や帯のように、隠れキリシタンの歴史とその姿を伝える本として捉える場合に、これ以降の内容はあまりにも本論と噛み合わなくなってきますので割愛させて頂きますが、著者が憂い、新宗教まで引き合いに出して議論される、僅かに人口比の1%にも満たない現在の教勢を語るに際して述べられる要因(即ち、カクレキリシタンが現代まで受け継いできた信仰心そのもの)。その指摘は肯定できる内容ですが、決定的に欠落していると思われる事、それは指摘されている内容(これは日本人であれば多かれ少なかれ自意識の中に潜在している事では)ではなく、それを「憂い」という視点で捉え続ける限りは、決して交わることは出来ないという事ではないでしょうか(完全に個人的な見解です)。

その豊富なフィールドワークによる研究成果から導き出された、世界遺産としての長崎のキリスト教伝教と今に至る受容の姿が正しく認識されることを願って綴られた本書。世界遺産登録を目前にした今、ロマンや奇跡という喧伝を離れて、改めてその歴史的な経緯に触れてみてはいかがでしょうか。

追記(2018.6.6) : 本書の著者及び著作の内容に直接言及して、カトリックとしての視点に対して疑問を投げかける著作が6月初旬に刊行されました。

フリーランスのライターの方が書かれた、第24回小学館ノンフィクション大賞の受賞を経て刊行に至った一冊「消された信仰」(広野真嗣 小学館)です。主に行月島の学芸員の方との間で持ち上がった、カクレの信仰がキリスト的かとの論点と、世界遺産登録に至る間に起った行月島の扱いへの疑念を辿ったルポルタージュ。既に本屋さんに並んでいますが、ご興味のある方へ(私は現状、立ち読みレベルなのでこれ以上は言及できません)。