今月の読本「武士の町 大坂」(薮田貫 講談社学術文庫)武鑑と日記を読む楽しさから見える、幕臣達が観た商都、大坂の姿

今月の読本「武士の町 大坂」(薮田貫 講談社学術文庫)武鑑と日記を読む楽しさから見える、幕臣達が観た商都、大坂の姿

その昔、大阪出身の司馬遼太郎は自らの著作の中で、その独自性を強調するが如く、其処に居る武士といえば諸藩の蔵役人以外、町奉行所の与力同心、二百人程だと記したとされます。ほんの少しでも幕府の職制をご存じであれば、そんな筈はない、城代から始まり地役人迄含めればもっと居た筈だという事がお判りでしょうが、このような論法を用いて、商都としての独自性を誇り、封建性のドグマ、更には東国を一際卑下する見解を公然と綴る関西系の著述者は意外と多かった(今でも)ようです。

そのような風潮に憤慨する、同じ大坂を地元とする歴史研究者が、彼の地での見識を改めることを狙って一般書として送り出した一冊。刊行後10年を経て、この度、文庫へと収蔵されることになりました。

今回は「武士の町 大坂」(薮田貫 講談社学術文庫)をご紹介します。

本書は比較的最近となる、2010年に中公新書から刊行された一冊。本来ですと、これほど早く版元を変えて文庫化されることはなかったと思われますが、近年積極的に他社の刊行物の再収蔵を進める学術文庫、そのテーマがシリーズに相応しい、普遍的価値を持つ、学術規範に則って綴られた手頃な一冊と判断されての今回の収蔵となったようです。

著者の薮田貫先生は関西大学名誉教授、現在は兵庫県立歴史博物館の館長を務められる近世史の研究者。大阪出身で、一貫して関西方面で研究を続けられてきた方ですが、前述のように、商人の町、大坂という表現とそれを大上段に構えて語られる内容に疑念を持ち続けた上で、研究を進められた内容を一般書として上梓された一冊。あとがきにもあるように、寝転がってでも読める余裕が必要との中公新書編集者の方による指摘を受けて綴られた内容は、抑揚を持ったテンポのある筆致で、大変読みやすく纏められています。

幕府の役職制度をある程度御存じの方であればすんなり読む事が出来る、刊行される書籍も少ない大坂の役人たちの姿を捉える本書。城代、定番、大番、加役、町奉行に与力・同心。そして代官と地役人達。彼らの動向がなぜ現在の大阪で語られないのか、彼らがどの程度の規模で、どのような職務に就き、日常を暮らしていたのか。その好奇心を追い求める過程を、著者と共に辿っていく事になります。

40万とも50万ともよばれた当時の大坂に住む住人達、それに対して8000人程とみられる武家とその使用人、家族。江戸に比べると圧倒的に少ない武士の数ですが、特定の日(本書をご覧いただければ)以外、彼らにとって武士たちは比較的身近な存在だったようです。江戸の屋敷に豊川稲荷を勧請して、初午の際に町人たちに参拝を許し開放した西大平藩(大岡忠相の後裔ですね)の姿と同様に、毎年初午の際には城代の下屋敷はもちろん、町奉行や代官まで屋敷の門を開け広げ、町奉行に至っては奉行自らが腰掛を出して訪れた町民たちに茶を振舞ったことが分かっています。一方、町人たちにしても、金銭を含むあらゆるトラブルを持ち込む場所、更には自らの仕事を円滑に進めるために必要となる口添えを得るために、彼らとの関係は非常に大切。そんな時に町人たちにとってのバイブルとなる、江戸の武鑑同様に存在した、大坂武鑑と大坂独特の様式で作られた浪華御役録の成立過程とその読み解きを行っていく、著者の研究における中核を成す部分を紹介する段は本書前半のハイライトです。

町人たちと町奉行の親しい関係と相互の依存。その象徴して導き出される、現在の大阪におけるランドマークでもある天保山。流域村落の様々な利害を調整することで実現した、河川による船運を確保し洪水を防ぐために浚渫した川砂を積み上げて出来上がった人工の山。その天保の大川浚を指揮した人物である新見正路が、浚渫を見届けたあと退任して江戸へと出立する際に、実に1000人近くの町民たちが奉行所に集まり、彼らからの礼を受けたと記されています。

江戸から幕府の役職に就任する事で大坂に訪れた役人たち。著者の弁を借りると、彼らの史料が現在の大阪に残らないのは、彼らが幕府の役人、大名たちだったため。著者の史料跋渉は城代、定番を務めた大名たちの領地から江戸に残る記録へと移っていきますが、その際に辿る人物たちには非常に興味深い点が見えてきます。前述の奉行である新見正路から始まり、矢部定謙、久須美祐明、跡部良弼、久須美祐雋。そして、代官の竹垣直道。いずれも江戸時代の幕府行政史に興味のある方ならご存じの人物たち。彼らのキャリアの途上にあった大坂への赴任、そこで綴られた私的、準公的な日記たち。東京大学在籍中にこれら史料を見出してきた、幕末の行政史研究に関する第一人者、藤田覚先生による研究成果を用いながら、その一端として、彼らが観た当時の大坂の姿を描き出していきます。

武士が少ない商都。物見遊山と食事には事欠かない一方、江戸に住んでいた彼らにとって夏は灼熱の地。文化的な豊潤さと豊かな資力を持つ住人達の姿(奉行着任の祝儀だけでも年収の約半分と。長崎奉行は蔵が建つではないですが、八朔含めて年間幾らの付け届けを手にすることになったのかと)。幕末期の幕臣らしい、学も教養も備えた彼らが綴る内容と交遊録は、東西の文化の懸け橋としての役割を図らずも(実は求めて)彼らが担っていた事がわかります。

中盤から後半にかけては、幕臣と大坂町人の友好的な関係が綴るられる内容ですが、その中に大きく横たわる、カネの匂い。本書のもう一方のクライマックスとなる、大坂の武士として象徴的に扱われる二人の町奉行与力、大塩平八郎とそのライバルに擬される内山彦次郎を巡る、大坂を発し、江戸表の政治すらも揺るがす事になる金の流れとその結末。乱を鎮める決定的な役割を果たした玉造口定番の与力であった坂本鉉之助と文人でもあった代官、竹垣直道との交遊録。大坂の地役を代表する人物たちの姿から、もう一方の大坂の武士の姿、豊かな資力と文化的素養を有するも昇進する事は叶わず、在地で年月を重ねながら内部昇格を続けるしかない彼らの屈折した思いと、その間を行き交う商人、町人たちとの密接な関りの一端を覗かせます。

現在に続くまで、武家の色合いを殆ど感じさせない大阪。その逆の姿を江戸時代の記録に求める著者ですが、最後は維新以降の姿に打ち消された武家の姿を見つけ出します。春になると桜の通り抜けで全国的に報道される大坂造幣局。その立地を示すことで、大坂に刻まれた武士の刻印の消滅を認める著者。

現在でも商人の町、天下の台所とステレオタイプに称されることに深い疑念を持った著者が、その姿の片りんを探し当てた足取りを綴る本書。

史料が語りだすその姿と、どうしても江戸からの視点で見てしまう幕府と大名、旗本たちの姿の中にある、密接な関わり合いがあった「商人の町」を生きた姿を捉える切っ掛けとして、大変楽しく読む事が出来た一冊です。

今月の読本「日本の開国と多摩」(藤田覚 吉川弘文館)郷土史に記す数字が語りだす、終焉期の幕府を支えた飛躍する多摩とその背景

今月の読本「日本の開国と多摩」(藤田覚 吉川弘文館)郷土史に記す数字が語りだす、終焉期の幕府を支えた飛躍する多摩とその背景

歴史の本をよく読みますが、その多くは国や広い地域の政治、文化的な動きや、中心となった人物を題材にした内容ではないかと思います。よく「大きな歴史」と称される枠組み。学生時代に授業で習うメインストーリーの元となるそれらの著述以外に、「郷土史」と呼ばれる、ある特定の地域に絞った歴史、人物について著述する分野もあるかと思います。

時に、大きな歴史無くして地域史、郷土史の議論はあり得ないと語られる事もありますが、その大きな歴史を長きに渡って研究されてきた方が郷土史を見つめなおすと、どんな世界が見えてくるのでしょうか。

今回は、毎回新刊を楽しみにしている、吉川弘文館の歴史文化ライブラリーより「日本の開国と多摩」(藤田覚)をご紹介します。

著者の藤田覚先生は、近世の幕府、朝廷政治史の研究者として大変著名な方。現在は東京大学名誉教授で、先年、通巻300冊を達成した、同版元さんから長年に渡って刊行が継続されている叢書シリーズ「人物叢書」の編集も行っている、日本歴史学会の会長を務められる、日本史研究の第一人者の方です。

江戸時代初期から幕末にかけての政治、行政、人物に関する一般向けの膨大な著作も有する歴史著述家としても有名な著者ですが、実は2009年から長らく居住されている八王子市の委託を受けて、『新八王子市史』の編纂を手掛けられており(編集委員長、近世部会長)、本書は2017年に刊行された新八王子市史、通史編4近世下を執筆する際に纏められた内容を下敷きとして綴られています。

徳川幕府政治史の大家ともいえる方が、これまでの自らの研究内容を「上からの目線」と称し、課題だとされる市井から成長していく民衆の姿を捉える事を目指した、郷土史研究で見出した興味をテーマ別のダイジェストで綴る本書。

その着目点は、著者の前著である「勘定奉行の江戸時代」(ちくま新書)にも通じる、大きな歴史の著述ではほとんどの場合省かれてしまう、残された史料に綴られた「数字」に着目し、現代の我々ではイメージしにくい当時の姿を、数字の変化から読み解けるように綴られていきます。

本書でインデックスとして用いられる三つのテーマ、「生糸・農兵・武州一揆」そのいずれの姿を示す際にも、当時の人々が書き残した「数字」を多数引用していきます。

甲州街道が山裾へと差し掛かる入り口に位置し、物資の集散地として繁栄する宿場町、八王子。千人同心でも知られる幕府にとって要地ともいえる場所に更なる繁栄をもたらした横浜開港による膨大な生糸、蚕の需要。物資の集散地、養蚕地帯として出発した八王子は、既に国内製糸産業で著名であった上州や信州上田には劣る存在だったようですが、その後の品質の向上と貿易港である横浜に近いという有利な立地、更には外国人が移動できる範囲(10里、約40km)に含まれる事もあり、製糸業の一大集積地へと飛躍したようです。

日本の近代シルクロード、現在の横浜線の沿線に並行して伸びる道筋に位置する鑓水に史料を紐解きながら、その利益(年間取引1000両以上が鑓水だけで5家も現れる)の膨大さと取引の大きさを示します。そして、開港による激しいインフレが生活を困窮させたとよく綴られる幕末の経済状況ですが、著者はその中で驚くような記録を見出します。開港とそれに伴う幕府の膨大な出費を賄うために繰り返された「出目」(改鋳)によるインフレは実に物価を4倍に引き上げる事になりますが、それにも拘らず米を買っている(買えるだけの金銭収入が得られている)と綴る日記。一方、寒冷な春が訪れると桑が育たず、蚕を育てる事も叶わなくなると途端に苦しくなる、近代の到来を待たず、一足早く商品経済に組み込まれていく近郊農村の姿を映し出していきます。

膨大な利益が舞い込む一方、大きな浮沈を繰り返すことになる経済状況の中、自力救済が求めらえる社会からあぶれ出す人々により不穏な世相が生み出されることは自明の結果ですが、その中からもう一つのテーマ、農兵が生まれます。

当時の幕府は博徒などの傾奇者が生み出されることを抑制するため、農民に対して武芸稽古の禁止を通達していましたが、不穏な情勢に対応すべく、武芸の稽古に没入していく地域や、道場を中心とした彼らを指導する人物たちの存在を指摘します。ここで、八王子を含む南関東広域の幕領を支配していた韮山代官(江川家)は不穏な情勢への対処と幕府自体の戦力確保を目指し農兵の創設を目指しますが、武家政権として四民(士農工商、この表現は最近避けられる傾向にありますが)にそれを委ねる事を躊躇する幕府首脳陣を粘り強く説得する事で実現を見る事になります。農民自らが与えられた銃を持ち自ら戦う姿を示した農兵。更に、旗本の戦力補充のために多摩地域各地に対して兵卒の供出を求めていきますが、此処で興味深いのが、割り当てれた人数を差し出すはずが、順次金納、傭兵化へと進んでいってしまう点。多摩地域の経済的な繁栄がここでも見出されますが、更に興味深い著述が加えられます。

詳細に残された史料を辿る事で分かる、兵卒を送り出す費用とその給金の姿。近年、もてはやされる感もある江戸時代の生活を称揚する文筆。その中に描かれる江戸の町民や武家奉公人の最下層を示す所謂「三一」(給金が年3両のこと)というイメージと大きく異なる、江戸に出るだけで一人当たりの支度金が10両単位、更に従軍などに要する費用や旗本領や組合村が供出した軍役金の金額を見ていくと、インフレと出目による通貨価値下落による影響の大きさから、江戸時代末期の金銭生活は決して楽ではないことががまざまざと映し出されます。このような供出、実は幕府や代官所に対してだけではなく、関東取締出役の了解を得て徘徊する浪人に対しても金銭を渡す、一揆を防ぐためにやむを得ず供出金を出す、禁令に触れる形でも「押借」を認める等、不安定な情勢すら、その根源である金銭で解決していく姿が見出されていきます。特に宿場町として繁栄してた八王子と、佐藤彦五郎が在住した日野とその周辺の村落から生み出された幕末の浪士たち、武州一揆での農兵の活躍を比較して、地域の中に息づく気風の違いを著者は興味深く指摘します。その違いは、後に多摩地方西部から秩父にかけての広い範囲で発生した武州一揆、その一揆勢をけん制するために農兵たちが出撃する際に明らかになるのですが、数千人規模の群衆に対して僅かな人数に過ぎない農兵たちが銃を構えて数人を打ち取ると群衆は四散する。当時の一揆の姿と格段の装備の違い(それ以前からあった拝借鉄砲や猟師では全く役に立たず、新たに輸入した銃を支給していた)、弱さと苦しさゆえに集まった一揆勢の戦力的な脆弱さと対照的に好戦的な農兵たちの様子、その双方が見えてきます。

商人的な気質を有し、開港による飛躍的な発展を遂げる八王子と、水田には恵まれない一方、早くから江戸の商品経済圏の一翼を担い、家康の関東入部から続く甲州筋の喉元を抑える要地としての韮山代官支配領域と多数の旗本領が錯綜する、武張った流儀を良しとする幕府、江戸の後背地としての多摩地域。

開港から幕府倒壊までの僅か14年間、傾き続ける幕府を支えたのは一方では通貨発行権を握る「出目」による膨大な改鋳差益ですが、それを側面から支えたのが前述の素朴で武張った、佐幕的な兵卒、農兵の供給地としての存在と、開港というチャンスを掴み、逞しい商才を発揮して稼ぎ出した利益から膨大な上納金を納め続けた多摩地域の経済力であった事が見えてきます。

本書の全般を通して綴られていく膨大な金銭の上納、軍費の負担。形としては「受け取って頂く」という体裁なのでしょうが、実際には旗本領含めて殆ど浪人賄いに等しい「巻き上げ」に過ぎないのですが、それに応え続けた地域の経済力の大きさ、綴られる金額の大きさ。数百両単位は当たり前、千両を軽く超える数字が並んでいくと、自分の知識の中にある江戸時代の金銭感覚が麻痺していきます(因みに将軍、家茂の三度目となる上洛に掛った費用は実に437万両…と)。著者はこれらの経済資本の立ち上がりを明治期に於ける殖産興業の勃興として好意的に認めつつも、その高騰するインフレ対策が後の新政権への重い課題として残された点を指摘します。

開国という未曽有の変化の中、一躍飛躍のきっかけを掴んだ地域の繁栄する姿と、同時進行で進む幕府倒壊への動きの中で渦巻く不穏な動きの双方を人と金銭の動きを綴る事で具体性を持たせて示す本書。

大きな歴史の動きを描く中では失われてしまう民衆の姿という輪郭を、金銭という尺度が判る形で示すことでその一端を補い、地域の歴史をから大きな歴史へのアプローチを示す著者の新たな試み。

歴史を多面的に捉えるために、郷土史とその編纂が果たす役割の一端を示すインデックスとして。

今月の読本「金魚と日本人」(鈴木克美 講談社学術文庫)身近過ぎて忘れがちな「魚」に凝縮された自然を愛でる想い

今月の読本「金魚と日本人」(鈴木克美 講談社学術文庫)身近過ぎて忘れがちな「魚」に凝縮された自然を愛でる想い

夏になると縁日等で頻繁に見かける「金魚」

もう、金魚売りが家々を廻る事はないかと思いますが、それでも夏の風物詩として語り継がれる風景に重ねられる、赤金色に輝く魚が涼しげな桶の中を群泳する姿は、ちょっとした懐かしさも添えた一服の涼。

最近では綺麗な金魚鉢や江戸時代に回帰してしまったかのような小さな鉢の中で金魚を飼うのが静かなブームにもなっていますが、そもそもなぜ、日本人は金魚を飼育し、飼い続けたのでしょうか。

そんな疑問の一端に答える、真夏を迎えて文庫へ収蔵された一冊のご紹介です。

高原は既に秋空ですが、盛夏の最中に読み続けていた「金魚と日本人」(鈴木克美 講談社学術文庫)です。

著者の鈴木克美先生は、戦後最も早い時期にオープンした民間の水族館である(旧)江ノ島水族館開設当初のスタッフとして、その後、現在のテーマパークの先駆けとなった娯楽施設、金沢ヘルスセンターに併設された金沢水族館を立ち上げ、科学教育機関と本格的な水族館の融合を目指した東海大学海洋科学博物館の館長、東海大学海洋学部の教授を務められた方。同時にスキューバ(アクアラング)を使用した水中写真撮影の先駆者として数多くの写真集、書籍を著されている方です。

水族館学、魚類生態学が専門の著者作品群ではちょっと異色な文化史をテーマにした一冊。原著は1997年刊行とほんの少し古い作品ですが、唯一無二と言っていい、魚類学と文化史としての日本の金魚を同時に語る貴重なポジショニングが評価されたのでしょうか、この度、版元さんを超えての文庫収蔵となったようです(このようなポジショニングにある作品は、著者も「鯛」をテーマに一冊を執筆されている、法政大学出版局が刊行を続けている「ものと人間の文化史」というシリーズがあります)。

生物学、遺伝学的な好奇心から始まる日本への金魚伝来と在来魚種とのルーツを探る内容から始まる本書。今回の文庫化に当たって新たに用意された、金魚絵師(金魚養画)、深堀隆介氏による美しくも涼やかな表紙と帯の内容に惹かれて文化史の本だと思って手に取られると、少々面食らう内容も挿入されていきますが、魚類としての金魚、更には品種改良の歴史を理解するためには必須の内容。むしろ著者の専門分野である魚類生態学をある程度封印して、専門外とも思われる日本、更には中国における歴史的な金魚の扱われ方、江戸の文化史をそれこそ該博な知識を以て伝説から物語、実録を含めてふんだんに拾い上げていきます。

本書を読んでいて驚く点、それは日本人にとって最も馴染みが深い魚(今では鮪、サーモンの方かも…)、江戸の文化史ではあらゆるシーンで語られ、現在は何処でも簡単に手に入って見る事が出来る金魚ですが、意外な事に伝来のタイミングも、大流行した江戸時代における金魚生産の姿も、現在はある程度固定化されている品種固定の過程も、文化史の根底になくてはならない背景、そのほぼすべてが「判らない」という事実に突き当たります。

本書では一般的に流布しているこれらの言説について、著者が直接の教えを乞うた金魚研究の第一人者と呼ばれた故・松井佳一博士の説を含めて各種の書籍や言説を比較しながら検討を加えていきますが、特に江戸時代における江戸近郊での金魚の育成、供給の実態ついては全く判らないと述べています(上野、池之端の件については本文中で繰り返し検討を行っていますが結論には至らず)。名付けについても「りゅうきん」「おらんだししがしら」などの名称が直接琉球やオランダから渡って来た訳ではないとはっきり否定した上で、日本人特有の舶来指向(唐物指向)や長崎方面から伝わった事を示す表記であることを示唆します。また品種改良の歴史についても、江戸時代のそれは中国で営々と続けられてきた品種改良の歴史と比較して、珍しい物が偶然に現れる、単に飼育していたに過ぎないと、魚類学者としてやや厳しめの断定をしていきます。

更に著者は、中国における金魚の飼育史と好まれる品種の違いからその経緯を見出していきます。

赤い色、金色を尊ぶのは中国も日本も同じですが、中国で春節の際に貼られる金魚の切り絵のように目が上を向いた姿を珍重する、成長と上昇志向の現れ、珍奇な物を秘蔵する文士層の存在が素地にある中国における金魚の姿。一方で日本に於いては疱瘡除けとしての願いをその色に込める一方、生き物の美しさを小さな鉢の中で楽しむ、植木や朝顔と同じような、自然を矮小化して愛でる江戸の住人たち、特にそれらを広大な屋敷の中で飼育し、実際に副収入の糧としていたのではないかと推察する江戸の御家人層や、地方から転がり込むように都市に集住した欠落農民層が往時の姿を鉢植えや水鉢の中に見出していたのではないかと考えていきます。

第一線の水族館運営を長く続けた著者から見る、日本人と金魚を愛でるその姿。

用水の溜池や庭の池から、水鉢、金魚鉢から観魚室と水槽(紀伊国屋文左衛門の天井水槽は強度/防水構造上も有り得ず、フィクションだとも)そして水族館へ。日本人の群衆指向と見世物好き、舶来崇拝。その根底に伏流する厳しい自然と折り合う姿を美しくも矮小化した様式として昇華させた、箱庭の自然美を突き詰めた一つの姿としての金魚を愛でる日本人の嗜好。

その扱いが水族館では蔑まされ、学術的にも疎外されている感が長く続いてきた点に対して、当事者の一人として、魚が好きになった著者の原風景を回顧しながら贖罪の想いも込めて綴られた一冊。

実は近年の分子遺伝学の分野で、金魚の遺伝子系統分析が顕著に進んできている点を文庫版のあとがきで述べて、著者の想いが僅かながらも後継の研究者達に受け継がれている事に喝采を与える本書は、科学的な理解が飛躍的に進む中でも、生活のほんの片隅を捉えて自然を愛おしむ事を忘れられない、日本人が抱く心の原点を思い出させるきっかけとして、再び登場する機会が巡って来たようです。

著者があとがきでその推移に期待を示した、国立遺伝学研究所による金魚のゲノム解析。昨年発表された解析結果を伝えるレポートには、野生型のキンギョから、江戸、チャイナ、ランチュウの三つのグループに分かれ、それぞれの固有の形態を採る際のゲノムも確認したと記されています。著者が願って止まなかった、学術としてのキンギョ研究が漸く途に就いたようです(2020.7.2追記)

著者である鈴木克美先生には多数の著作がありますが、その水族館人生を綴った自伝的な一冊「水族館日記 いつでも明日に夢があった」(東海大学出版部)も併せてご紹介させて頂きます。

今月の読本「海辺を行き交うお触れ書き」(水本邦彦 吉川弘文館)著者と全国を巡る古文書の蓄積から見出す情報ネットワークの変遷

今月の読本「海辺を行き交うお触れ書き」(水本邦彦 吉川弘文館)著者と全国を巡る古文書の蓄積から見出す情報ネットワークの変遷

近年、江戸時代の行政システムや市民生活に対する積極的な再評価が行われつつありますが、これら再評価の大前提となっているのが、各地に集積、翻刻されつつある古文書の蓄積、その分析にあるかと思います。

幕藩体制と呼ばれる江戸時代、統治機構は御領と私領、寺社領の縦割り的な分断、身分制度は武士を頂点とした垂直・固定的と評される事が多いですが、これらの認識も近年の研究により大分異なる様相が見えてきています。

今回ご紹介するのも、そのような旧来の視点に立脚した江戸時代の統治機構に対して、横断的な検討からその変化を読み解こうとする一冊です。

何時も新刊を楽しみにしている吉川弘文館の歴史文化ライブラリー最新刊から「海辺を行き交うお触れ書き」(水本邦彦 吉川弘文館)のご紹介です。

著者の水本邦彦先生は近世幕藩体制下における村落行政史研究者の方。既に第一線の教壇から降りられた方ですが、一般向けの書籍を含めて、現在に至るまで多くの著作を有されています。

非常に手慣れた筆致で描かれる本作。本書で描かれる内容を手掛けるきっかけとなった伊予、大洲と三河、刈谷に残された古文書に書かれた、長崎へ渡航する筈が遥か銚子に流されてしまった清からの貿易船乗組員を帰帆させるために行われた長崎への回航と沿岸各集落に対してその航海への援護を求める一文。「浦触」と呼ばれたその書面の文面が全く同一であることに驚く一方、付けられた発送元と廻覧先に興味を抱いた著者はその送付ルートの変化に着目していきます。

この南京船の漂流と帰帆の物語については、別の書籍(書名失念)で読んだ際にその経緯や帰帆するまでの足取を追った記録に大いに興味を抱いたのですが、本書では事情を知らせる浦触、その文書自体に焦点を当てていきます。

流石に多数の著作を有する著者と版元さんの連携が産んだのでしょうか、ここで本書はその発送ルートや廻覧方法の時系列変化やイベントに対して章を設けるのではなく、著者自らがその変化を探るために全国の古文書の原本や翻刻、研究者達の元を訪ね巡るというスタイルを用いていきます。

愛媛大学に籍を置いていた著者にとって馴染みの深い伊予、大洲を旅立ち、四国を巡り南の九州からもう一つの文書と巡り合った刈谷を経て北へ。陸奥、津軽藩と松前との関わりを追った後は日本海を下って西へ廻り瀬戸内海へ至る。浦触を探し求める旅を著者と共に続けることで、浦触のはじまりやその目的、廻覧されるパターンの変化を辿る事になります。各地に数多残る古文書、それらを翻刻する地元の教育委員会や研究者達が積み重ねてきた研究成果、著者と同世代の研究者達による古文書研究の過程で見出された浦触に関する情報を集めながら、事例を重ねながら全国を通じて行われた文書行政の変化を丁寧に紐解いていきます。

著者が見出したその変化、所謂幕藩体制の中核をなす、幕府、老中から各藩(留守居などを通じて)、所領に対して下達という形で伝えられ、各藩が有する藩内の伝達ルートを伝わっていく垂直型の伝達ルートに対して、特定の幕府職制、又はその業務を請け負った大商人や特定の藩が発信元となり、指定された廻覧ルートを辿り連判状のように各集落毎に印をおしていく(時には印を集めておいて藩庁や郡奉行所で一括押印、到着時刻表記の捏造?いえいえ、ISO運用にも見える日本の文書システムらしい形式主義を端から見透かす現場主義が掲げるルーズさまで…)姿が出来上がっていく事を見出していきます。

本来であれば支配違いの領地を跨ぐ行政文書の受け渡しなど想定しにくい江戸時代の支配制度ですが、多い時には年に数回と言う頻度で昼夜を問わずこれらの文書を所領を越えて隣り合う集落間で受け渡し、藩庁側の確認が後手に回る事すらあったことを古文書から見出していきます。浦々を伝わってそれこそ全国の海岸線を巡った文書行政の通達システム、浦触。徐々に完成を見た、浦々を継ぎながら繋ぎ合わされて押印された膨大な請印帳を見ると、その貫徹振りに、幕藩体制のもう一方の側面、全国政権であった徳川幕府の支配領域を超えて発揮、駆使された行政能力(実際に受け持つのは末端の各名主層と郡奉行たち)に感嘆させられます。

最後に著者は浦触の類似の姿としての広域行政文書の伝達例として、街道を継がれた伝達や海陸を含めた好事例である伊能忠敬の全国測量に伴う伝馬証文に続く先触の文書を示すことで、海陸を含むこのような文書行政による所領支配を越えて地域を水平に繋いでいく全国的な指示系統が存在した点を認めていきます。また、最後の指摘として、幕末の長州征伐中に発送された浦触に添えられた文書と配送結果から、その後の中央集権的な近代国家に脱し得ない幕藩体制の限界も併せて示していきます。

幕府による全国的な行政システムの実例を示す「浦触」の推移を著者と一緒に海岸線を巡りながら理解を深めていく本書。実例を理解しつつ網羅的に変遷を追いかけたいと願う読者にとって非常に楽しく、興味深く読む事が出来る内容なのですが、ひとつ、とても残念な点があります。

浦触れの伝達形態が各領地の行政権に委ねられる下達型から直接住民が携わる著者曰くの横断型へ、発信元が老中から勘定奉行や各地の代官所、大阪船手等の実務部門、現地部門へと移っていく点は、正に権限と運用が実情に合わせて現場へと委譲されている姿を明確に示しているのですが、惜しい事にその移譲の経緯や該当する幕府内での議論の推移に対して、本書では殆ど言及が為されていない事です。

著者には主著として「近世の村社会と国家」(東京大学出版会)があるので、前述のような疑問であればそちらを参照せよという事なのかもしれませんが、本書の帯にも描かれた、副題にも掲げられた「徳川の情報網、国家統治システム」を描くにあって、上位の為政者である幕府の動きをほぼスポイルしてしまった上で、終盤で「公儀」が与る情報伝達への言及がなされても、その背景が見えてこないようにも思われます。

主題である浦触の姿を著者と一緒に全国を追いかけるという文意に沿った内容としては素晴らしいと思いますが、掲げられた表題からみると、ちょっと片手落ちの感が否めなかったのは致し方ないのでしょうか。

 

今月の読本「島原の乱」(神田千里 講談社学術文庫)中世から見た最後の一揆と百姓たち

今月の読本「島原の乱」(神田千里 講談社学術文庫)中世から見た最後の一揆と百姓たち

世界文化遺産登録に伴って、各種の書籍やTVで多く扱われるようになった、長崎を中心とした近世のキリシタンとその信仰。

テーマの中核に据えられた、苛烈な弾圧に耐えながら敬虔な祈りと信仰をひっそりと護り続けたという扱われ方については、以前からその信仰形態や弾圧の実際について史学、宗教学の観点からより慎重な議論が必要であるという見解もまた見受けられます。

特に、その宗旨と信仰心から、領主の圧政が主因であるとも述べられる、最大にして最後のキリシタン蜂起である「島原の乱」と前述のテーマには、印象として大きなかい離がある事も事実です。

様々に述べられる乱の本質について、それは宗教一揆であると明確に述べられる一冊を今回はご紹介します。

今回ご紹介するのは、2005年に中公新書から刊行され、今年の8月に講談社学術文庫に収蔵された「島原の乱」(神田千里)です。

著者の神田千里先生は中世史の研究者。特に一向一揆や中世の信仰に関する多くの著作を有される方です。九州北部や長崎を拠点に研究を行われる方が多い、前述のテーマを扱われる研究者の方々とは少し系統の異なる、どちらかというと中央における歴史の推移を研究されてきた方。

本書を綴るにあたって、そのバックボーンとなる九州におけるキリスト教の受容や禁教に入った以降の潜伏した宣教師、キリシタンたちの信仰的な態度について述べられる指摘の多くは、前述の研究者の方の研究成果を引用する形で紹介していきます。領地を挙げて改宗を受け入れた先で、既存の神社仏閣を破壊し、信者、神職や僧侶を在所から追い立てた、伝道の勝者としてのカトリック。その中でも会派や宣教師よって異なる為政者への近づき方、その見返りに求められた苛烈を極めた既存宗教への「弾圧」といった、受容しなかった側が受けた迫害の側面の指摘はそのまま踏襲されています。

その上で、中世史の研究者である著者が着目する点は、乱の趨勢を決めるキーとなった「百姓」達の動き。

著者の視点では、近世に入った当時でも中央に於ける兵農分離の掛け声とは裏腹に、統治者としての武士と百姓の力関係、共存の関係はそれほど変わっておらず、乱を起こす側も鎮圧する側のどちらも百姓たちの「一揆」を取り纏めなければ始まらないという点を、島原の乱に参戦した幕府側の陣容も示した上で明示します。

私領の集積である近世幕藩体制において、それ以前の豊臣政権期から中央からの威令の伝播が領地ごとに大きくばらつきが出る点を指摘する著者。それは宗教政策としてのキリシタン禁令についても同じことが言えると指摘します。追記されたあとがきでは、更に他の研究者の方によるその後の研究成果を引用して、乱の僅か4年前まで当地では宣教師が潜伏し信仰が継続していた事を採り上げ、信仰を核とした一揆としての百姓たち、それを先導した指導者層の棄教はそれほど進んでいなかった点を指摘します。

水面下で持続していた信仰とそれでも年々強まる禁圧、領主の圧政、飢饉という複数の要因が重なって始まった乱。その発端はこれまで述べられてきた説を踏襲しますが、著者はより伝道の勝者としての過去の側面、排他的な形態を採る事を厭わなかった、堅く信仰に立ち返った人々と、著者が述べる「日本宗」と称すべき本地垂迹から続く神仏習合の信心を踏まえた人々、為政者たる武士たちの間を、中世の一揆同様に自らの生存を賭けて行き交う百姓たちの趨勢が乱を動かしたと示していきます。

乱の発生から緒戦の圧倒的なキリシタン勢力の攻勢の一方で、要地である長崎へ侵攻できなかった事で一地方反乱に留まる事となった乱の現実。迅速な周辺諸藩の参戦により乱が大きく波及することを狙った指導者たちの思惑が外れると、逼塞の中から再び蠢動を始める百姓たち。双方に付いた百姓たちは決して堅固な意思を以て従っていた訳ではない事を、離反した人々の言葉を集めて解説していきます。豊富に述べられる戦乱自体の推移からみた双方の思惑。籠城後も依然として外部、殊の外に他のキリスト教勢力からの支援を受けられる可能性に一縷の望みを繋ぐ籠城指導者層の思惑を挫く、オランダ船の砲撃(国辱であるという意見を汲み入れて松平伊豆守は引き上げさせたようですが)。自殺を許されないその信仰から、滅亡を望む籠城はそもそも有り得ず、中世の一揆の戦法を引き継ぐ指導者たちも打開策を具えない籠城を選択する筈はないと断言します。

要地を抑えて更なる同心者を募るか救援を待つ、さもなくば緒戦の勢いに乗じて相手が戦力を結集させる前に、妥協としては最も有利かつ唯一の条件と考える、水面下では僅かに見逃されてきた「信仰の維持」を呑ませるか。

その信仰する姿が素朴で現世利益的な民俗信仰的とも評価され、カトリックの信仰を継承していないと見做される事もある中世期の日本におけるキリスト教の受容。それ故にこの乱が一部の指導者による信仰心とはかけ離れた扇動であるように指摘する論調に対して、一向一揆の研究を通して日本の宗教史にも深い造詣を持つ著者は、譬えそのような側面があったとしても信仰心に違いはないと明確に指摘します(それがなぜ苛烈な方向に進んだのかについても)。その一方で、2万から4万人弱とも謂われる籠城者達のうち約1万人は籠城中に逃散した事が推定されてきており、中世の一揆同様に自らの生存の為であればどちらへとでも動く百姓たちの生き抜くための姿も認めていきます。

援軍と妥協、どちらも叶わなかった先に対峙した原城での攻防。これまでの経緯から更に信仰への危機感を感じた時の為政者たる幕府は、その後に繋がる頑として信仰を受け入れられないという姿勢を乱の推移を通じて固める結果となったようです。

乱の本質に対して、宗教的な知見からではなく、少し前の世代の百姓たちの動き、その結集点である「一揆」を軸に読みとこく事を目指した本書。近世の途上に起きた百姓たちによる最後の武装蜂起の姿は、その後逼塞することになりますが、百姓たちの合議による集落を単位とした社会構造は近世を通じて維持され、その中で場所を変え、あるいは乱に参加することを良しとせず、カクレキリシタン(潜伏キリシタン)として息づいていった点も、文庫収蔵時に追記されたあとがきで示していきます。

本書は原著が2005年と近年の世界文化遺産登録に関連した書籍が揃いはじめる前に刊行された事もあり、著者によるとその内容を並置される事には忸怩たる思いがあるそうで、「学術文庫版へのあとがき」として20頁程の追記がされています。

特に、近年の潜伏キリシタン関係研究成果への言及や、同書の後に刊行された同一テーマの著作については書名を挙げて検討を加えています。その中で上記に掲載しています一冊については、伝教期や潜伏期のキリシタン動向を著者自身も多く引用するキリシタン研究者の著作。当該書を最後までお読みになった方は、著者と同じようにそのスタンスに対する疑問を持たれたかもしれません。

乱の推移を中軸に置き、中世史と言う歴史的な流れから乱の本質を説き起こそうという本書に対して、カトリック伝来から説き起こしていく事でキリシタン信仰の受容と強勢、禁教という一連の信仰の流れから乱の姿を読み解いていく一冊。併せてお読みいただくと、より一層の議論が深まる筈です。