今月の読本「日本人ときのこ」(岡村稔久 ヤマケイ新書)日本人と松茸の素敵な関係は里山の開発と共に

今月の読本「日本人ときのこ」(岡村稔久 ヤマケイ新書)日本人と松茸の素敵な関係は里山の開発と共に

秋の到来を味覚から告げてくれるのも、新米や栗、果物もいいですが、やはりとびきり嬉しいのは庶民的な秋刀魚に、秋の味覚の王者たる松茸。今年はどちらも不振を極めて寂しい便りが伝わってきていますが、いずれも秋の味覚に欠かせないもの。では、なぜ数ある椎茸類のうち、松茸が味覚の王様になったのか、歴史を紐解いてみると、興味深い物語が隠されています。

今回ご紹介するのは「日本人ときのこ」(岡村稔久 ヤマケイ新書)です。

一般の書店において微妙な扱われ方をされる場合が多いヤマケイ新書。特に装丁がグリーンのシリーズは、ブルーの装丁が施されたアウトドア、登山、釣りといった山と溪谷社のメインストリームとは少しテーマの離れた自然科学的なテーマを扱っており、本屋さんでの扱われ方もバラバラ。ブルーバックスと一緒に並んでいたり、丈のある図鑑用の書棚の脇にそれこそ申し訳なさそうに置かれるなど、結構不遇な扱われ方をしているかもしれません。

そんなあまり目立つ事のない新書シリーズですが、送り出されるラインナップは学術的側面を具えていたり、社会問題にまで通じる等、実に興味深く、何時も新刊を楽しみにしていたりします。特に今回の一冊はその版元さんのイメージとはかなりかけ離れる「日本史」をテーマに置いた一冊。著者の経歴を拝見すると、実は松茸をテーマとして2冊も同じ版元さんから本を出されている事が判ります。従いまして、本書は「きのこ」を表題に置いていますが、その内容は圧倒的に松茸のお話、詩歌で詠われ、物語で語られる姿を綴り、その印象を語る筆致で占められています。特に平安後期から近世までは一貫して松茸のお話に終始します(なお、近世に入ると本草学と菌類図譜でみる、きのこの形態識別と毒の有無に対する認識の違いや、椎茸の榾木の作り方の進化といった現代に繋がるきのこのお話も豊富に語られます)。

新書として手に取りやすい形に纏め直した感もある今回の一冊。しかしながら前著ではメインであった富士山を離れて、本書では江戸時代以前はほぼ一貫して西国、京都がその舞台となります。古くは奈良時代の歌に詠まれたヒラタケから始まり、平安時代になると徐々に唄や史料に見えてくる松茸。室町から安土桃山の頃になると、京都の周辺ではそれこそ大量に松茸が採れたことが史料から判ります。特に、戦国期に入って物資が窮乏する京都における公家や宮家の皇子までも山に分け入り松茸を嬉しそうに追い、巧く収穫にありつければ、縁者に差し入れたりその場で酒盛りを始めてしまう等々、日記に描かれるその姿は、厳しい生活の中でも微笑ましくさえあります。更には、この種の日本の食生活の歴史を綴る書籍では外す事の出来ない史料である、山科家三代の記録から拾われた戦国時代の公家の食事ときのこの登場の仕方、そして醤油の発生による調理、保存方法の変化についても述べられていきます。

近世にはいって江戸が政治だけではなく文化の中心としての繁栄を遂げる頃、数々の唄や読み物に登場するきのこ達の中で、奇妙なことに松茸を珍重するのは京都をはじめ西国が中心であり、江戸ではハツタケが売られるばかりで、松茸はあまり出回っていなかったことが判ります。そして、京都に於いても今や超高級品である丹波の松茸は、江戸時代に於いては卑しまれていた事が判ります。

印象的に語られる与謝蕪村が宇治田原で詠んだ歌の一節。宇治拾遺物語に引っ掛けてなぜヒラタケが物語に出て来るのに、松茸は出てこないのかと訝しがる点に、本書のもう一つのテーマが隠されています。

それは松茸の生育と深くかかわりのある背景。現在、松茸の生産量の6割を占める長野県、その生育場所は程よく手入れのされた山裾のアカマツ林であることは常に云われ続けている事かと思います。モンスーン気候の影響を受ける東北以南の日本列島において森林の極相は広葉樹林であり、アカマツのような針葉樹は遷移の序盤に先駆種として現れる樹種。そのような樹木が山林に存在するのは、その生育場所自体が何らかのかく乱を受け続けている証拠になります。

京都を中心として歴史上、人々の記録の中に営々と綴られてきた松茸。実は、大規模な木造建築によって広葉樹を切り出した後に生育したアカマツがあったからこそ松茸が豊富に採れたのではないかと、最新の植物学と分析考古学の研究結果を紐解きながら述べていきます。大規模な寺社、都作りの度に伐り出される木材。杣として伐り出された伐採地は、伐り出す樹木が無くなると、杣山としての後山から里山としての農耕付随地へ転換していきます。完全な農耕地へ転換する前の秣取り等で人手が頻繁に入る、木々がまばらとなった山に良く育つのが松茸。都の周囲で刈り出す木が無くなる度に、更に遠くから木材を伐り出すため、松茸の取れる場所も徐々に京都から離れていったことが残された記録、唄や物語からはっきりと見出す事が出来ます(今や長野がその里山を最も豊富に持つ場所になったのでしょうか)。

日本人が愛してやまない愛おしいそのきのこが、実は日本人、特に都の人々の暮らしとその環境に密接に関わって来たと知れば、その貴重さと共に、自然に生きる生物ではなく、日本人の暮らしと共生してきた生き物であるという実感が湧いてこないでしょうか。

未だ人工栽培できない、自然のままにしか生きられないようなその生き物が、実は人の手を借りなければ育つ事すらままならないという点にちょっとした愛おしさすら感じながら、きっと京に暮らした人々も、そんな自分たちの生活に寄り添ってきた愛すべき「きのこ」への想いを今に至るまで綴って来たのでしょうか。

本書と併せて読みたい、京都周辺における里山の成立と歴史的な発展を、本書と全く同じアプローチで(引用原典はどちらも同じです)詳述する「里山の成立」(水野章二 吉川弘文館)。そして、時代史の研究では極めて有名な山科家三代の日記から、敢えて日々の食事の記載だけを抜き出して詳細に検討を加えた上で、日本の食生活と食文化の萌芽を読み解くという、貴重かつ、この分野では極めて先駆的なアプローチであったため、本書を始めあらゆる日本の食文化史の書籍で引用される名著「日本の食と酒」(吉田元 講談社学術文庫)。どちらも本ページでご紹介しています。

 

今月の読本「里山の成立」(水野章二 吉川弘文館)境界の地へと開発を推し進める荘園の歴史から里山を再定義する

今月の読本「里山の成立」(水野章二 吉川弘文館)境界の地へと開発を推し進める荘園の歴史から里山を再定義する

「里山」この流行語となった単語をテーマに掲げた書籍が昨今、沢山出てきていますが、その多くが郷愁を誘うもの、経済活動や地域振興であったり、自然をテーマにした作品であったかと思います。

そんな中でも異色の一冊、歴史専門書籍出版社が手掛ける「里山本」は、ちょっと違ったアプローチで里山の本質に迫ろうとしています。

里山の成立今月の読本は「里山の成立」(水野章二 吉川弘文館)です。

著者は滋賀県立大学の教授で、中世の荘園、村落研究では極めて有名な、琵琶湖の畔にある菅浦をテーマにした研究をされている方です。先進地域でもある畿内の荘園研究スペシャリストが手掛ける里山本。本書はその殆どを近江、伊賀、山城、紀伊を中心とした畿内における荘園の成立から進展、隣接する荘園同士の競合に至る経緯を示しながら、荘園の付属地としての里山の成立を俯瞰していきます。

主に平安遺文、鎌倉遺文に掲載された事例から引用していく荘園同士、更には権門、神域を含む寺社地との競合の物語。その中で、著者はそもそも里山の重要なアイコンである後山や棚田が実際にはこれらの競合によって成長していった物であることを明確に示していきます。

里山の名称。その起源は、里山という名称に呼応する、林業地としての杣や中央政府(国府)が資源として預かる、公有地、無主の地が含まれる後山。そして人跡僅かで修行者たちが行き交うような神域とも見做されれる奥山との対比から生まれた事を史料から見出していきます。その言葉の成立を逆手に取れば、旧来から開発の進んでいた荘園内の水田、畑に対する次の拡張過程、更には収穫を維持する為に大量に必要となる水源、秣や草肥の獲得場所として、徐々に山裾へと開発の手が伸びていった結果、その場所を示す用語として発祥したと見做してきます。つまり、日本の原風景や自然景観といったファンタジックな表現とは全く逆の、農村開発の最前線に立つ地勢を表す用語であった事を示していきます。

そして、里山という言葉の成立とほぼ同じくして、現在に続く中世の村落形成が進行していったことを史料、そして発掘成果から見出していきます。古く班田収授まで遡って土地の利用法を検証した結果、荘園化による周囲の無主の地、未開発地、榜示で示される地を越えた山林への荘園の拡張、隣接する荘園との競合を続けながら、中世村落という現在に繋がる農村集落の形成に至った事を示していきます。居住跡が随時変遷してく王朝国家時代から、鎌倉期、そして室町期に至ると、居住跡の遺跡が減少する点を評し、村落の領域が固まっていく事で現在の集落と整合していく(現在の集落と同じ場所に集積されるため、遺跡とならない)と考察していきます。

更には、本来は荘園としての領域ではなかった牧、杣の地も荘園の開発の進展、更には山林伐採による木材供給地としての役割を終えた事で、荘園の付属地、即ち里山として農地の一部に組み込まれていった事を史料、そしてこの種の史料を重視した歴史関係書籍では異例ともいえる、遺跡から発掘される花粉の分析結果等から示していきます。

史料だけではなく、自然科学的な研究成果に基づく結果との整合にも配慮した荘園研究の結果としての里山の発祥と成立。そこには、著者があとがきで述べる、他分野の研究者との協業に於いて、人文系の研究成果がどうしてもおざなりにされたり、逆に史学が自然科学の研究成果を顧みないという歯がゆさを、少しでも改善したいという想いが込められています。

そのようなアプローチに立って述べられる、里山の開発とその景観の定義には興味深い考察も述べられていきます。所謂黒ボク土、日本の土壌を代表する草木類が炭化したことにより生成されると考えられている土壌ですが、これらの土壌の分布や利用方法を以て、日本各地に広大な草原が広がっていたとする、自然科学的な見解に異論を唱えていきます。縄文時代から継続的に草原として利用していたとの見解についても、縄文期当時の許容されるべき人口は僅かに20万人強であることから、これほどの広大な草原を維持する事は不可能であったと見做し、更に時代が下がって牧として用いられていた時代でも、全面的に草原が広がるのは例外的であり、残存している絵図や絵巻などを用いて、農閑期には田畑を用いて、それ以外の時期でも林間の下草を用いた放牧が為されていた程度であると見做していきます(この部分に関して、著述が牛耕中心の西国をベースにしており、軍馬や農耕馬は議論していない点に注意)。

また、森林伐採による水害の発生についても、禿山の表記が遡ったとしても鎌倉、南北朝から現れている点を指摘した上で、中世の水害や飢饉に対し、山林の過剰な開発が直接的に結び付く訳ではなく、最近述べられるようになってきた近世の山林における過剰な開発による禿山の発生に関しても、木材需要に応えるための山林開発よりむしろ(例示が無いのが残念ながら)照明用の松根油採取による、切り株まで根こそぎ掘り尽くしたことによる治山としての保水力の喪失が原因であると述べている点は、いち早く商品経済に包摂される事となる畿内の先進地における農村の一側面として、興味深い着目点です。

人と自然と交わり合う地としての里山ではなく、農村の開発における最先端地としての里山。それ故に、周辺村落との間では、近世まで続く利権関係の紛争や時には命懸けの闘争を伴う競合を常に強いられ、厳しい環境の中、乏しい資源の開発を迫られた里山の維持管理には村落を挙げて取り組まなければならなかったことを史料から導き出していきます。多くの皆様が里山に持たれる情景、里山云々主義のベースとなる持続可能な小さな経済活動への想いや地域共同体への依拠も、歴史的に見れば、開発の厳しさの裏返しとして出来上がってきたことを明快に示していくれる本書。時に、経済面や自然科学によるアプローチを飛び越えて、史学にその考察を委ねてみる事の大切さを示す好例の一冊として。

里山の風景

黄金色の景色2

里山の成立と類書<おまけ>

本ページで掲載している、本書の類似のテーマの書籍のご紹介を。