今月の読本「大道 鎌倉時代の幹線道路」(岡陽一郎 吉川弘文館)考古学と文献史学が明滅する先に道の社会学を想う随筆

今月の読本「大道 鎌倉時代の幹線道路」(岡陽一郎 吉川弘文館)考古学と文献史学が明滅する先に道の社会学を想う随筆

日本の中世史を扱った書籍では通史としての大きな歴史と言うべき政治的な動きや、武士や公家、僧侶と言った個人、武士団、寺社などの集団をテーマにした歴史を扱った本が大多数を占めるかと思いますが、近年、それらの境界領域ともいえるテーマを扱った書籍も一般書として徐々に出回るようになってきています。

史料的な限界のある中世史という時代区分において、この分野では最も成功しているのではないかと思われるテーマとして、近年の進展が著しい考古学を援用した街道やその道を使った人々の動きを軸に歴史的な展開を描いていく著作群がありますが、更に一歩進めて「道」自体をテーマにしたこの一冊。非常に興味深いテーマではありますが、少々難物な読み物でもありました。

今回ご紹介するのは、吉川弘文館の歴史文化ライブラリーの最新刊より「大道 鎌倉時代の幹線道路」(岡陽一郎 吉川弘文館)です。

冒頭で提示される「かまくらかいどう」「あずまかいどう」という呼び名に対して、数多に溢れているこれらを呼称する古道達に対する著者の大きな疑念。それらを結び合わせても一筋の道が描けない事からも判りますように、後年の人々がある仮託を込めてそれらの名前で呼び習わし、現在に伝わった道筋たち。本書がこれらの道筋がどのように変遷したのかを辿りながらその道を作り使い続けた人々の姿を描いていく、考古学と文献史学をベースに歴史地理学と社会学が交差するテーマを深化させながら綴られる事を期待して読み進めていくと、ある意味大きな失望を受けることになります。

このように表現することは珍しいのですが、あとがきに書かれた著者の懸念と抱え続けるわだかまりがそのまま文中一杯に散りばめられてしまったかのような内容が展開する本文(著者より若輩ですが老婆心から述べさせていただくと、本書だけは「あとがき」は最後まで読まずに、とにかく本文を冒頭から追われる事を切に願う次第です)。

「大道」という名称の位置付けを語るかと思うと疫病と怨霊が渡る異界の扉としての道の話に飛ぶ。道の変遷を語り始めると近江の葛川から一気に現在の著者の研究フィールドである須川峠の山懐にある開拓地と領家を繋ぐ道の変遷の史料検討へ繋ぎ、更には学生時代に携わっていた鎌倉、犬懸坂、杉本寺の考古発掘調査の考察へと変転しながら東国の首都、鎌倉の盛衰を語る。鎌倉に話を飛ばすと、今度は大道や橋の維持に対して当時の公儀である幕府にその代行を買って出る事になる宗教者達、特に真言律宗の存在との共存関係から、重層的な支配関係の元にある当時の姿と政と聖の相互関係に思いを馳せる。

大道という言葉を頼りに、数頁から10数頁程度の小テーマが著者の思い至る範疇で書き連ねられ、これまでの検討や議論に対する著者の考察とも懸念とも取れる内容が随筆のように綴られていく本書。200ページを切る事もある歴史文化ライブラリーのシリーズとしてはやや過大とも思える全編294ページと言うボリュームで、これまでの研究者として歩んできた路傍に散らばり播かれた種を拾い集め愛おしく抱き抱えていく様な著者初の単著。散文的なその内容の要所には実に興味深い思索が含まれています。

「中世」の大道には古代王朝が生み出した大道とは異なる意味合いを考慮すべきであるという点。地形を穿つようなものではなく、多数の支配関係の間を縫うように繋がり、村と村、山村と市が立つような集落がある拠点の間を馬が通える道が通じれば、それは大道と呼ばれると指摘します。また中世の道の成立が交通の便宜、即ち軍旅であったり年貢や貢納の輸送の為に必要に応じて変遷していく点が古代の大道と大きく異なると指摘します。

その指摘の先に見出すのが、中央政権ではない鎌倉幕府の組織成立上の限界点。著者は為政者はその支配機構としてインフラ整備を行う者であり、それが当然であるという視点に大きな疑問を呈し、幕府として纏まった彼らが中央政権からスピンオフした軍事・警察機構に過ぎない点を忘れて、為政者としての過大な評価と期待を抱き過ぎて観ているのではないかと強い懸念を示します、その先に「鎌倉街道」を代表とした、当時の文献では使われる事のない単語を用い、我々を含めた後代の人々が中央に繋がるものへの憧れ、憧憬としての「大道」という幻想を抱いているのではないかと指摘します。ここで、鎌倉より北方の人々が抱く「中央感」と、より東国の中核に住む人々のそれが異なる点を「かまくらかいどう(鎌倉街道、かまくらみち)」「あずまかいどう」の呼び名の違いに見出す著者の視点は実に刺激的です。

更には、著者自身議論を控えているようですが、奥州の深部、奥大道の終着点で研究を続けられる方らしい視点ともいえる、当時の文物はいずれも京を交点に取り交わされるという如何にも一般的な視点を強く意識された見解が僅かながら語られます。近江の杣に当時の金額としても大きな十五貫文の銭を携えて木材を買い付けに美濃からやって来た地頭の下人の姿や、常滑焼の出土分布の向こうに、中央や鎌倉と地方と言う二元的な交流だけではない、物産を生み出す産地である地方と地方同士の交流史が見出せる素地があるのではないかという想いを滲ませていきます。

その上で著者が願う、考古学とも文献史学とも異なる、大道をテーマにした中世社会史と言う姿が描けるのか。研究者として既にベテランの域に達しつつある著者に、抱え込んだご自身の課題を解消された先に、一般書とはいえもう少しテーマを精査された一作も期待して。

同じ吉川弘文館の書籍の中には、前述の交流史を念頭に置いた多数の書籍が揃っています。頭の中に地図を思い浮かべながら、どのような人々が何を求めて行き交ったのか、現在の姿と重ねながら考えてみると、歴史を見る視点が更に広がるようです。

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今月の読本「頼朝と街道」(木村茂光 吉川弘文館)頼朝と一緒に中世東国史の起点を探す往来へ

今月の読本「頼朝と街道」(木村茂光 吉川弘文館)頼朝と一緒に中世東国史の起点を探す往来へ

最近の日本史に関する新刊のテーマを眺めていると、旅程や街道、文書を含めた往来の記録から時代背景を描き出そうという新しい切り口が見えてきます。

豊富な史料が残る近世、そして室町・戦国期に関しては、既に多くの書籍が登場していますが、時代を遡って中世から古代にかけても、徐々にそのようなテーマを掲げた本が増えてきたように思えます。

その中で、これはと思った一冊。以前にご紹介しております「動乱の東国史2 東国武士団と鎌倉幕府」に高い評価を与え、直接の影響を受けたと著者が述べられる一冊が上梓されました。

動乱の東国史2東国武士と鎌倉幕府と頼朝と街道今月の読本、吉川弘文館の歴史文化ライブラリー新刊から「頼朝と街道」をご紹介します。

ところで、本書にご興味のある方であれば、何故、平貞盛が将門に追われた際に千曲川を経てわざわざ山深い信濃を抜けて京に逃げ帰ったか疑問に思われたことはないでしょうか。そして、将門が新皇を名乗ったのが、関東でも外れに位置する下野の国府であった点を不思議に思われる事はないでしょうか。更には、木曽義仲がなぜその名前の如く、京に上る最短ルートである木曾から美濃に抜けるルートを取らずに日本海に出たのか、ちょっと変だと思われたかと思います。

そして、大蔵合戦から源平争乱期にかけて、更には鎌倉時代に入っても、全国の軍事力を掌握した筈の幕府内で、常に東国が南北に緊張関係を孕んでいたか疑問に感じる事があるかと思います。その行方が足利家と新田家を次の時代、南北朝期に飛躍させる源泉となった事にきっと着目されている筈です。

更には、東国に鎌倉府が成立し、京との二元政治体制になった後、鎌倉公方が権力を誇示しようと動く際に出陣する先が、何時も決まって府中であった点に東国史のファンの方なら必ず気が付かれているかと思います。

中世の始まりからのその終焉となる戦国期の入口まで。東国の政治状況の動向を俯瞰してくと、本書で述べられている点が全て当てはまっていく事になります。それは街道という名の人の往来を示すもの。

古代王朝が成立させたとされる、道幅も広く規格化された大道ではなく、現在の関東地方の交通ルートにも深く刻まれた、中世以降の往来の道筋を観ていくと、東国の歴史動向そのものが見えてきます。

本書ではまず、東山道から奥州へ抜けるメインルートであった、上野、下野を抜けていく街道筋に拠った将門とその一門の、奥州の権益の象徴であった累代の鎮守府将軍の地位が残した利益の継承を巡って争い始めた事が、中世を通じて続く東国の争いの原点であったと見做していきます。

古代王朝から続く東山道をベースにした街道を軸に勢力を張った藤原氏やその後に拠った源氏一門と、それ以前の段階で徐々に南下を始めた秩父党を始めとした平家の血筋たちは武蔵へ広く進出することになります。更には奥州での戦役を通じて後の嫡流となる源氏は南関東に地盤を持つようになりますが、この時点ではあくまでも主たるルートは東山道にあったとしています。

一度は失った南関東の地盤。頼朝の再起により房総半島を経て再び拠点となる鎌倉を目指す訳ですが、ここで既に平家に服従するようになっていた秩父党と武蔵の武士たちとの緊張関係が生じていた事が指摘されます。武蔵は既に抑えられていたため、頼朝としても街道から外れた地である、鎌倉に拠点を置かざるを得なかった事が見いだされていきます(但し、この見解には初期鎌倉の街路が東西方向に伸びている点を同じように指摘しながら、逆にその道を抜けて房総へ通じる海路こそが主たる交通路だったとする意見がある事も指摘しておかなければなりません)。

後世、武家の象徴として崇められる事になるイメージと全く異なる、軍事的な輝かしい戦果をほとんど持たない、引きこもり頼朝。鎌倉にどかっと腰を落ち着かせていたように見える頼朝は、実は度々軍を発し、巻狩りを繰り返しながら、自らも忙しく広範に広がる坂東の平野を行き来し、箱根を越えて威勢を示し、そして平泉攻めで見せた象徴的な示威行動を繰り返すことで、軍事的な勝利ではなく、連れ従う軍事力の大きさによる威圧によって圧伏していった事を示していきます(某研究者の方が、やくざの首魁に擬する様子、そのままですね)。著者はその度に、彼が通った道筋「街道」が軍事道路として整備されていったと指摘します。

自らの権力基盤を確立し、後顧の憂いを払った上で、いよいよ上洛を果たす段になって、頼朝はそれまでの古代王朝から引き継がれた東山道を経由したルートではなく、敢えて自らの新たな拠点である鎌倉に繋がる、東海道を経て西上することになります。歴代の源氏の拠点であった美濃、青墓の関ヶ原を前にして、東山道と東海道が交わる点であるという絶対的な地理的優位性と、その終着点として北に延びる道筋の先にある膨大な資源を擁する奥州、平泉。南に延びる新たな道筋の終点に整えられつつある武家の新たな本拠たる鎌倉。京をもう一方の支点として、東国へ向けて長く伸びる街道という名の軍事、経済ルートを完全に掌握した頼朝の自信が伺えます。これに本書では語られませんが、鎌倉期の最後まで関東御分国として維持される越後を加える事で、京を扇の要にして東国の街道を軸とした三方向の末端を確実に抑えていた事がはっきりします。

更に著者は、その後の東国史を決定付ける要素を政権を掌握した後の頼朝の動きから見出していきます。徹底的な警戒を崩さない、源平争乱期以前から東山道に拠った御家人たちへの態度。彼らはその後、室町時代の東国における、分裂した勢力の双方に対して自在に加担するもう一方のキープレーヤーとして力を誇示していきます。一方、その先の西に繋がるルートには源氏の一門を配することで、古来からの往来ルートの確保を目指しますが、その結果が室町期から戦国期における甲信地域の武士たちの在地性がやや低い、京の幕府と鎌倉との間で揺れ動く複雑な動向を生み出すことになります。

そして、旧来の街道を貫くように北へ伸びる「鎌倉街道」の先に広がる、本拠である鎌倉に隣り合う武蔵。秩父党の流れを汲み、広く分立する御家人たちを如何に懐柔して自らの味方として抱き込もうとする、遅れてやって来た、狭い鎌倉以外に地盤となる地を持たない頼朝とその後継者たちの不断の努力は、遥かに時を経た鎌倉府に参集した武士たちの代弁者、首班を期待された鎌倉公方、関東管領たちの動きすらも規定することになります。

最終的に最後の鎌倉公方である足利成氏が、伝統的な北関東への入口であり歴代の鎌倉公方が出陣した府中を経て、古河に動座することによって鎌倉府が消滅するまでの実に長い間、東国の動向を規定した鎌倉という存在と、それ以前から広大な坂東を縦横に結びつけてきた道筋を追いかけると、中世を横断した東国史の根底を鮮やかに描けることを実証した本書。

そのベースが、昨今大きな進展を見せている地域史、郷土史の研究成果の蓄積からもたらされた点に強い印象を受けながら、歴史を描き込む方法にまた新たな視点が生まれつつある事を嬉しく思いながら読んだ次第です。

まだまだ、東国の歴史はもっと、もっと面白くなる。

「頼朝と街道」と類書たち<おまけ>

本書に近いテーマを掲げた書籍のご紹介も