今月の読本『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎 KADOKAWA)日本人とキリスト教を巡るすれ違う二つの想い

今月の読本『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎 KADOKAWA)日本人とキリスト教を巡るすれ違う二つの想い

New!(2018.4.7) : 本書の著者、宮崎賢太郎先生(現:長崎純心大学客員教授)のインタビューが、版元であるKADOKAWAの文芸書紹介サイト「カドブン」に掲載されています。

ご自身の出自から、研究へ踏み出した経緯とカクレの皆さんとの交流、そして本書並びに一連のカクレキリシタンに関する執筆への想いを述べられています。

 

<本文此処から>

今年、長崎のキリスト教伝教関連の歴史遺産が世界遺産として登録される運びとなっています。

このユネスコの世界遺産登録。同じユネスコが関与する世界ジオパークでも同じような事が生じていますが、本来の趣旨と若干異なる点で指摘を受けることにより審査を受けなおす、内容を見直す事例が散見されています。

今回の登録の経緯に際しても、その受容から現在までの過程を俯瞰で捉えるのではなく、より禁教期を重視した内容に変更するようにとの指摘を受けて修正を経た上での申請となりました。

この指摘、ある程度事情をご存知の方であれば、キリスト教の奇跡としての側面を強く重視した指摘である点はご理解されているかと思いますが、この点について以前から敢然と誤った理解であるとの意見を述べ続けられる、地元長崎で長く研究を続けている方がいらっしゃいます。

今回ご紹介するのは、その方が所属される大学を離れられた後で初めて上梓する、これまでの研究成果を通じて、長崎における伝道と禁教、復活から今に至る歴史を、キリスト者(クリスチャン)として一般の方に伝える為に書かれた一冊です。

潜伏キリシタンは何を信じていたのか』(宮崎賢太郎 KADOKAWA角川書店)のご紹介です。

著者は長崎純心大学で隠れキリシタンの研究を30年に渡って続けられていた方。主に天草および島嶼地区を丹念に回り、現在でも信仰を維持されている方々の元へ繰り返し訪れてインタビューを行い、詳細にその信仰の全容を解明する研究を続けていらっしゃいました。

依然としてその全容を解明出来た訳ではなく、更には現在まで信仰を維持されてる方は著者の認識では僅かに80軒程度(厳密な形でとの前提)まで激減しており、もはや全容を把握する事は不可能になりつつあるという認識を示しています。そのような状況の中でフィールドワークを続けた記録は、本ページでもご紹介している前著「カクレキリシタンの実像」(吉川弘文館)で詳述されているように、その信仰は一神教(クリスチャンなので正確には三位一体)とはかけ離れた、先祖崇拝をベースに、シャーマニズムによる隠蔽性を秘匿と置き換えた、多神教の集合崇拝における一つの神としての「カクレ」であるとの認識を、キリスト者でもある著者は繰り返し示しています。

本書では、上記の認識に基づき、より一般の読者に向けて、隠れキリシタン(本書では著者の認識に従い、潜伏期はカクレキリシタン、教義としてはカクレ、一般名称としての現在の信者の方々を含むその信仰形態全般を、昨今の事情を鑑みて潜伏キリシタンと称します)の現在の信仰や生活と、禁教期における記録に残る信仰の姿を述べると共に、ザビエルの伝教から長崎における布教期、禁教に至るまでの経緯といった、日本におけるキリスト教の伝教を理解するために必須となる基本的な内容と、現在の信仰、特にカトリックとの関わり合いについて述べていきます。

伝教期に於いて、その大多数は集団改宗であり、満足な宗教的知識を持ち得なかった点。禁教期において伝え続けられた内容は、式文などには僅かにその面影が残るものの、内容は全く理解されずに唱えられていた点。一神教ではあり得ない、他の神仏と並べられて祀られるカクレの神。その延長で述べられる、現在の長崎におけるカトリック信者(全国でも最多の人口比)に含まれる禁教期を経てカトリックへ戻って来た方々の一部に対して、神父の方が指摘される「第三のキリスト教」と表現される「カトリックの檀家」との衝撃の発言。

本書の内容を初めて読まれた方は少し奇妙に思われるかもしれません。著者は明らかにクリスチャンの方なのですが、その著述内容は明らかに隠れキリシタンの信仰を自身の信仰と同じと見做される事を忌避されているように見えてきます。更には海外、特に同じクリスチャンを中心に、カクレの間で受け継がれてきた信仰を奇跡として捉える事に対して、その理解は浦上四番崩れに際して、それ以前の開国時にフランスから上陸した宣教師たちにより再改宗された際に捏造された印象であると、敢然と否定の意思を示します。カトリック教義との整合性に対する否定的な見解の先に、著者は隠れキリシタンの解説を大きく逸脱して、自らの信仰、教会を戒める数々の指摘を文中で繰り返し述べていきます。

カクレキリシタンが受け継いできた、そして今も潜伏キリシタンとして、更にはカトリックに復帰された方々の信仰すらも、本質的なカトリックとは異なると述べる著者。その一方で、奇妙なことに同じ文脈を用いてまったく逆の議論を始めます。これほどまでにキリスト教による教育環境の恩恵に浴し、キリスト教の風習に親しみ、国の象徴たる一族すらその宗旨と深い関わり合いを持っているこの国は、キリスト教(≒クリスチャン)に一番好感を持っているのではないかと。著者はその認識に基づいて、本論と同じくらいの力を注いで、なぜ日本人にキリスト教が受け入れられないのかを綴ります。

本書を表題や帯のように、隠れキリシタンの歴史とその姿を伝える本として捉える場合に、これ以降の内容はあまりにも本論と噛み合わなくなってきますので割愛させて頂きますが、著者が憂い、新宗教まで引き合いに出して議論される、僅かに人口比の1%にも満たない現在の教勢を語るに際して述べられる要因(即ち、カクレキリシタンが現代まで受け継いできた信仰心そのもの)。その指摘は肯定できる内容ですが、決定的に欠落していると思われる事、それは指摘されている内容(これは日本人であれば多かれ少なかれ自意識の中に潜在している事では)ではなく、それを「憂い」という視点で捉え続ける限りは、決して交わることは出来ないという事ではないでしょうか(完全に個人的な見解です)。

その豊富なフィールドワークによる研究成果から導き出された、世界遺産としての長崎のキリスト教伝教と今に至る受容の姿が正しく認識されることを願って綴られた本書。世界遺産登録を目前にした今、ロマンや奇跡という喧伝を離れて、改めてその歴史的な経緯に触れてみてはいかがでしょうか。

追記(2018.6.6) : 本書の著者及び著作の内容に直接言及して、カトリックとしての視点に対して疑問を投げかける著作が6月初旬に刊行されました。

フリーランスのライターの方が書かれた、第24回小学館ノンフィクション大賞の受賞を経て刊行に至った一冊「消された信仰」(広野真嗣 小学館)です。主に行月島の学芸員の方との間で持ち上がった、カクレの信仰がキリスト的かとの論点と、世界遺産登録に至る間に起った行月島の扱いへの疑念を辿ったルポルタージュ。既に本屋さんに並んでいますが、ご興味のある方へ(私は現状、立ち読みレベルなのでこれ以上は言及できません)。

 

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今月の読本「カクレキリシタンの実像」(宮崎賢太郎 吉川弘文館)土着した最後の姿を看取るキリスト者としての想い

今月の読本「カクレキリシタンの実像」(宮崎賢太郎 吉川弘文館)土着した最後の姿を看取るキリスト者としての想い

日本でキリスト教徒(ローマカトリック、正教、プロテスタント)の人口比率は近年、1%程度の水準で殆ど変化がないとの事ですが、日本の歴史上、もっとも信者の多かった時代は、禁教前の桃山時代とみられており、その総数は人口の3%程度、最大でも76万人程度とみられているようです。

何時の時代でも、日本ではマイノリティなキリスト教ですが、その中でも弾圧と粛清、禁教の時代である江戸時代におけるキリスト教信者は、現在では一般的に「隠れキリシタン」と呼ばれて、弾圧の中、宗教的な生活を守り抜いた一種の奇跡として、特に海外などでは賞賛を以て、捉えられる事が多いようです。

そんな「カクレキリシタン」の今を取材した貴重な一冊が、今回ご紹介する「カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容」(宮崎賢太郎 吉川弘文館)です。

カクレキリシタンの実像まず、このマイナーなテーマを一般新書として、極めて安価(2300円)で刊行された、版元の吉川弘文館様の英断に敬意を表したいと思います。歴史文化遺産登録絡みで刊行を決断されたことは、容易に理解できますが、どう考えても決して多くの冊数が望める内容ではない、このような研究書を一般向けに刊行されることは、社内的にも随分と議論があったのかと思います(そのような意味では、本書を日本で一番海から遠い、ここ信州の山里に、しかも新刊棚に表紙を向けて陳列された、いつもお世話になっている、岡谷、笠原書店本店様の選定眼にも感激しています。門外漢なので、読むの結構辛かったですが)。

著者は、長崎のカトリック系大学に奉職するキリスト者(クリスチャン、ローマカトリック信者)であり、正確な宗教的理解に基づいて、現在まで生き残ったカクレキリシタンの宗教的行事の調査を、25年もの長きに渡って行っています。その地道なフィールドワークによって得られた、カクレキリシタンの信仰と、自身の宗教的理解に基づくカトリックとしてのキリスト教の理解との相違について、本書は極めて丁寧に描いていきます。

どのような宗教行事が残っているのか、元となったカトリックの典礼とどこが異なっているのか、司祭もいないまま、だれが400年もの長きに渡って、教義を守って来たのか。

著者は主な調査フィールドであった行月島を中心として、広く長崎地方に広がるカクレキリシタンの皆さんの信仰生活を、出来うる限り広範に収録していっています。年々信者が減少し、厳しい宗教儀礼を維持することが困難になったために、解散を迫られる信者集団が増える中、著者は最後の記録を残すべく、精力的な取材を続けます。

同じカクレキリシタンでも、一浦超えるごとに、オラショも、行事も、信奉する神々の姿も、最も神聖でどの信仰集団でも最後まで継承されてきた聖水の取り扱いも、全く異なっている事に驚かされるとともに、厳しい規制の中で、口伝と記憶に頼る継承の限界を、まざまざと見せつけられます。

そして、海外のメディア等でも奇跡として扱われている、禁教時代を乗り越えて維持されてきた教義について、キリスト者である著者は冷徹な結論を導き出します。

「カクレキリシタンはキリスト者ではない」、と。

厳しい弾圧と、口伝と記憶に頼らざるを得なかった継承の結果、教義が崩れてしまったことを指摘しているのかと思われる方も多いかもしれません。しかしながら、著者は更に検証を加えながら、ザビエル伝承当初から、日本人にはキリスト教の教義が殆ど受容されていなかったと判断していきます。

八百万の神々を信奉する、先祖崇拝を規範とする日本人の信仰観に於いて、多くの神の中の一つとして、習合の一形態として受容されたと理解していきます。それはキリスト者である著者にとっては、非常に厳しい判断だったかと思いますが、キリスト者故の教義理解から判断すると、現在のカクレキリシタンの皆様が堅持してきた教義に否定的な見解を与えざるを得ないという、厳しい眼差しが見えてきます。

彼ら自身が、その習合の中で最も崇高な位置付けを以て堅持してきた、カクレの崇拝儀礼や諸道具、檀家制度の影響で、仏式の葬儀を迫られた故に、編み出した清めの儀式、多くは失われてしまったが、それでも毎週のごとく行われる宗教儀式の意味合い、その全てが本来の意味を失い、形式や式文にこそカトリックの僅かな香りが残っていますが、内容的には完全に日本人の信仰観に合されている事を、繰り返し行われた信者の方へのインタビューで明らかにしてきます。ローマカトリックの典礼の影を引きずった、先祖崇拝を基軸とした未開のアミニズムと。

更には、命を賭して守り抜いてきた信仰自身も、神への信仰ではなく、先祖崇拝を基底とした、先祖より受け継いできた崇高な伝承を後世に伝えることへの使命でしかないと著者は語ります。もはや、ローマカトリックの信者としては、その内容を受容しがたいという想いを重ねて。

キリスト者、特にクリスチャンの方々にとっては、殆ど失望にも近い結論が繰り返されていく本書ですが、その事について、最後に著者は自らの信仰、教会を戒めるような文章で締めくくっています。

それは、ローマカトリックはおろか、キリスト教全体が日本の社会に受け入れられない現状に対する、研究者としての発露。その中で、弾圧を潜り抜けて、本来の教義を失いながらも継承を続けてきたカクレの教義に対する、キリスト者としての羨ましさすら感じさせる想いが見え隠れしていきます。

最後の数ページを使って著者が述べている意見は、決して一般の方々が受容できる見解ではないかもしれません。でも、そこまでの解釈を迫られるほど、日本にキリスト教が受容されない理由が見いだせない、現在の教勢への焦りと、キリスト者としての深い悩みが見え隠れする一冊でした。

<お願いとお詫び>

  • 私自身、キリスト者(クリスチャン、牧徒、信徒)ではありませんので、本ページの記述に対して、宗教的に見た場合、多々の誤謬が含まれていると思われます。あくまでも、葬式檀家でしかない、無宗派の一読者の感想として、寛容に捉えて頂けますよう、お願いする次第です。明白な誤謬があれば、コメント欄等より、ご指摘いただければ幸いです。

<おまけ>

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