今月の読本「日本史の森をゆく」(東京大学史料編纂所編 中公新書)史料を紐解き歴史を描くプロが集うアンソロジーは思索の叢林へと誘う

今月の読本「日本史の森をゆく」(東京大学史料編纂所編 中公新書)史料を紐解き歴史を描くプロが集うアンソロジーは思索の叢林へと誘う

異色の一冊と言っていいでしょう。

白亜の巨塔の総本山。しかも、研究と併せて講義を行う事をもう一つの生業とする大学教員とは一線を画す、史料の研究こそを本職とするプロ集団が一堂に会して書き下ろす、歴史史料アンソロジー(このアンソロジーという表現。どうしても、某ビックサイトで行われるイベントに大量に出展される「薄い本」を思い起こしてしまうのですが…)。

しかも、42名もの執筆陣を束ねるのは、中公新書の編集グループではありません。

はじめの言葉は所長自らが筆を執り、「編集後記」と銘打たれた、あとがきに書かれる「新書」編集小委員会という命名からも、執筆陣、そして当組織の本書に対する本気度が伝わってきます。あまり表に出てくることはない。でも、あらゆる日本史研究分野の底辺を支える(時には、NHKの大河ドラマや歴史番組を支えていたりもしますが)、日本史専門の史料研究機関「東京大学史料編纂所」が放つ、本気のアンソロジーが手軽に読める新書が登場です。

日本史の森をゆく 「日本史の森をゆく」です。

何分、多数のテーマを扱っていますので、各研究者の方に与えられたページ数は10ページにも足りません。従って、内容自体をじっくり読むような体裁ではなく、気に入ったテーマをつまみ食いするような形で読まれることを想定しているようです。ただし、テーマ毎に区切られた範囲では、歴史の古い順に並べて掲載されていますので、テーマの中は通読される方が良いかと思います。各テーマの名づけ方も、例えば天皇の事跡を扱った章では「雲の上にも諸事ありき」などと、捻りを効かせており、編集グループのちょっとした拘りが伺えます。

各章のラインナップです。

  1. 文章を読む、ということ : 史料編纂にまつわる話題
  2. 海を越えて : 海外と日本との関わり合いを示す史料から
  3. 雲の上にも諸事ありき : 天皇、貴族の記録、日記から
  4. 武芸ばかりが道にはあらず : 武家政権が遺した史料より
  5. 村の声、街の声を聞く : さまざまな史料に見え隠れする民衆の姿を拾って

そして、はじめにで、現在の編纂所長である久留島典子氏が述べている言葉が、本書の目的、伝えたいことを雄弁に物語っています。

—引用ここから—

このようにして書いてくると、史料編纂は個性を殺した職人仕事のように理解されてしまうかもしれません。

<中略>

しかし、史料編纂は、それに携わる者が研究者としての多様な問題関心、個性を持つからこそ、高い水準を維持できるのだと断言できます。

—引用ここまで—

時に、歴史編纂作業、史料編纂作業は正確さを重んじ、事実をありのままに記録し、伝える事が求められる場合があるかと思います。中には、著者の私的な判断を一切排除することを求められることもあるかと思いますし、歴史研究の分野には、そのような著述者の思想や思考を取り上げて研究される(時には指弾される)方もいらっしゃるようです。

しかしながら、最も古典的な歴史編纂物である史記ですら、そこには著者であり、歴史編纂者でもあった司馬遷の思想や時代認識が色濃く反映されています。

歴史は著述者によって描かれるもの。その描かれた歴史を多方面の史料を読み込むことによって立体的に理解し、自らの知見を踏まえて、より妥当であるという解釈を添えていく行為を繰り返し続ける事そのものが、更に新たな歴史を描いていく事に繋がる。そのような作業を営々と続けていらっしゃる歴史研究者の方々の更に下地を支える、編纂所の研究者の皆様が持っている、歴史研究者の好奇心の「ツボ」に触れられる一冊です。

扱われる時代は近世までですが、扱われるテーマは史料であれば何でもあり。テーマの中には、こんな研究していて何の役に立つのだろうかと、首を傾げてしまう内容もあるかもしれませんが、そのテーマの広さは、歴史ファンにとっては正に挑戦状。史料の繋ぎ合わせ方から、断片的な史料から読み解く発言の変化の考察といったテクニカルな話題。意外な広がりを見せる日本人と海外との関わり合い(実は、このテーマが本書で一番楽しかったりしました)。史料に見え隠れする人物の追跡記や記録に僅かに残る内容から当時のシーンを再現する手法。更には花押を読み解いて自分の花押を書いてみようといった読者への挑戦テーマに、宮さん宮さん…の歌が実は猥雑唄だっという衝撃の考察まで。これら多彩なテーマについていけるかどうかは、ひとえに読まれる皆さんの好奇心にかかっています。

確かに、これらの研究が無くても誰も困らないかもしれません。そもそも歴史研究の目的や意義そのものが問われている中で、それらの研究の下地となる史料編纂の意義となると更に疑問を呈されることが少なからずあるのかと思います。そのような危機感の中で生まれたであろう本書をご覧頂いて、少しでも興味を持たれるテーマがあるならば、その目的は充分に果たされているのではないでしょうか。

何かを遂げるための研究ももちろん必要ですが、史料の叢林を跋渉し、その中からより幅広い知見を得る事で、更なる豊かな発想、知見に繋げていく事も、研究としてはとても大切なことだと思います。

時に、プロの絵師や作家の皆さんが、息抜きとも思えないような本気の作品をビックサイトに送り出してくるように、史料編纂のプロの皆さんが、少し息抜き込みで描くアンソロジーとしての本書は、そんな研究者としての視点と思考のエッセンスが濃厚に詰まっているように思えます。

<おまけ>

本書にご興味を持たれた方。お読みになった方で、もっと各テーマの内容をじっくり読んでみたいと思われた方へ。歴史書専門の出版社である吉川弘文館から刊行されている叢書シリーズ「歴史文化ライブラリー」をお勧めします。本書の参考文献にも頻繁に引用される吉川弘文館さん。山川出版と並ぶ、日本史関係の論考集を出版される際に、研究者の皆さんがお世話になる版元さんが、一般の読者に向けて、比較的リーズナブルな価格(2000円以下)で、研究者の方々の歴史研究の興味とエッセンスにテーマを添えて送り出すシリーズです。この度、刊行400冊を達成するとの事で、こちらでちょっとご紹介させて頂いております。