今月の読本「黄色いテント」(田淵行男 ヤマケイ文庫)澄んだ言葉が響く山に抱かれたナチュラリストの視線

今月の読本「黄色いテント」(田淵行男 ヤマケイ文庫)澄んだ言葉が響く山に抱かれたナチュラリストの視線

安曇野のナチュラリストと称され、豊科町に居を構えた山岳写真家、細密画家。高山蝶の研究でも知られる田淵行男氏は、数多くの著作を残されていますが、その多くが山岳写真や蝶、昆虫類の画集や写真集で占められています。

三十数冊になる著作の中で表題と共にひときわ異彩を放つ一冊、著者唯一のエッセイ集と称される一冊が、この度文庫に収蔵される事になりました。今回は「黄色いテント」(田淵行男 ヤマケイ文庫)をご紹介します。

本書のあとがきを読んでいくと、その成立には長い紆余曲折とそれこそ一冊の本が書けてしまうくらいの著者が執筆に腰を据えるまでのエピソードが添えられています(この辺りの経緯は、数年前に制作されたNHKのドラマや、同じ版元から刊行された「安曇野のナチュラリスト 田淵行男」を読んだ方が良いのかもしれません)。

実に戦前から1980年代初頭までに渡る、雑誌に寄稿されたコラムを含む一連の執筆作品を30年近く書き溜めた書き下ろしに追加して再編集したエッセイ集。山小屋でのいびきや山中での河畔の音は顕著に気になると回想するように、やや神経質で完璧主義者で知られた著者らしい、歳月の推移を感じさせない簡潔でかつ、透徹な文体で綺麗に整理、再編成された、著者自らが監修する、山岳、自然観察語録と呼べる一冊に仕上がっています。

こう書いてしまうと、ちょっとお堅い印象を持たれてしまうかもしれませんが、後半は版元さんが今もっとも得意とされている山の怪談・奇談のオンパレード。特に本物の山師たちとの山小屋での一夜の話など背筋どころか首筋まで寒くなりますが、山でしか体験する事が出来ないちょっとユーモラスな内容も綴られていきます。

写真や絵で表現することを旨とする著者による、文章を連ねる事でその想いを表現する本書。山での貴重な経験から始まり、著者の主たるテーマとなる高山蝶と密接な関係にある高山の花や樹木たちを語る前半。浅間山への想いと大雪山の調査行を中軸に置き、後半は前述の怪談・奇談やご本人のごく身近な山での心象と言ったエッセイらしい内容を集めて、一編十数頁で纏められた短文がテーマごとにぎっしりと詰め込まれています。

著者をご存知の方であれば、全編を通して読むという形より、むしろご興味に近い、気に入られたテーマの章をつまみ食い的に読まれる方がより楽しめる編集スタイル。今回の文庫版収蔵に当たり、ページ数の都合(丁度400頁、ジャスト1000円への配慮でしょうか)で残念ながら6編がカットされており、その中には「山とカメラ」が含まれているのは、山岳写真に関する想いを綴る部分があまり多くない本書にとって痛恨ではありますが、より多くの方に著作を手に取って頂くにはやむを得ない処置だったようです(親版の編集者の方が外部の編集者として今回も協力、解説で経緯を述べられています)。

表題にある著者のテーマカラー「黄色いテント」を背負い、山での単独行動を好み、山岳写真を撮りながら、貴重な高山蝶の観察、収集を続けた、日本のナチュラリスト創世記を生きた著者の活動。

偶然に出会ったライチョウ親子の縦列をハイマツの中に追いかけ、アルビノの高山植物を探し求め、行き交う道沿いに連なる木々に名を付け枯れ木となった先まで愛おしく観察する。山中でビバークしながら撮影のチャンスを待つ間も山々の移り変わる姿に目を配り続け、咄嗟の変化から得た機会を物にした大きな充足感に満たされる想い。添えられる写真と無駄のない透き通った筆致で描かれる山を往く姿を綴る文章は、何処までも澄んだトーンに満たされています。

その一方で、噴火中の浅間山火口まで3度も登頂し、山ではザックに入れる程のその山体を模した大きな石を拾っては自宅に持ち帰り、現在では許さない高山蝶を僅かな手続きで採取する一方、ケルンの林立には苦言を呈し、古の静かだった山への懐かしみを込めた筆致。特に執筆当時の登山ブームに辟易する一方で安易な登山者たちへの警句を発し、今でも議論が絶えない高山の絶滅危惧種たちへの接し方やその行動には、現在であれば自制を求められるどころか、社会的な非難を浴びる事は免れない内容も綴られています。流石に刊行年が1985年と自然環境保護や登山の安全性を強く叫ばれるようになった頃であり、著者は文中でその蛮行を反省する記述を添える一方、自然環境への眼差しまでも曲げるつもりは無い事をはっきりと述べていきます。

既に著者の時代でも減少が著しかった高山植物やその植物たちや木々を生活の糧とする高山蝶。その一方で容易に餌を得る事が出来る登山者たちの残飯を執拗に狙い続ける大雪山のヒグマとテントに襲来する鳥達、シマリス。一度餌を与えると小屋の中まで侵入してくるキタキツネ。著者からの手渡しで容易に餌を採る北岳のイワヒバリ。

静かな山の姿を独り占めしたいという、先駆者としてのちょっとした我儘心も見え隠れする一方、その自然の中に人が踏み入れれば容易に取り込まれていくことを包み隠さず述べる筆致。中盤の一節「コリヤス幻想」とそれに続く著者のベースである北アルプスを離れて大雪山での調査行から沸き起こった想い。そのような姿を全否定してしまう風潮に対して「自然は遠くにあって思うもの」にしてしまってよいのかという、山に抱かれ続けた著者の真摯な想いが述べられていきます。

山中に往く事を良しとし、抱かれつつ見つめ続けた雄大な姿をカメラで、愛おしく観察を続けた蝶たちを細密な絵筆で捉え続けた著者の眼差しが文章として綴られる一冊。自ら踏破し、山々に抱かれた先で向き合った繊細にして透き通った視点は、自然を愛でつつも常に折り合いを付ける事を求められる現在を生きる我々にとっても変わらない示唆を与え続けてくれます。

著者が終の棲家とした、豊科(現在の安曇野市)にある田淵行男記念館。実は田淵行男賞を受賞した写真家さんの受賞記念展示を見に行くために訪れたのですが、記念館に展示された当時の赤外写真と添えられる透徹な言葉にすっかり圧倒され、魅了されてしまったのが、著者を知る切っ掛けでした。

本書の解説において原著の担当編集を務めた方が絶賛する、生誕100年記念の展示会の為に制作された図録「生誕100年記念 ナチュラリスト・田淵行男の世界」(東京都写真美術館:2005)。展示会が開かれていた地階の展示室真横にある閲覧コーナーで、見学者の足並みが途切れるまで読み耽っていました。

どうしても欲しくなって購入した手元にあるこの一冊、実は田淵行男記念館で販売されていた最後の一冊です(職員の方から伝えられました)。小雪が舞う中、かなりの後ろめたさを抱えながら帰路に就いた事を今でも思い出す、ちょっとほろ苦い思い出。全く足元にも及びませんが、著者も足繁く通った同じフィールドでカメラを手に取る私にとって、写真が何を伝えるのかという意味を今も語りかけてくる、大切な一冊です。

 

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暖かな晩秋の午後、落葉松林で(2018.11.11)

暖かな晩秋の午後、落葉松林で(2018.11.11)

11月に入って冷え込みは一旦、和らぐ日々。

過ごしやすい気候が続きますが、空模様は少し落ち着きがなくなってきたようです。

強い雨が降った後、一日中強風が吹き続けた土曜日から漸く風が止んで青空が広がった日曜日の午後。少しお出かけします。

日射したっぷりで暖かな午後。標高1200m付近まで上がると、落葉松の黄葉はもう終盤。昨日の強風で、樹上以外はすっかり葉を落としています。

最後の黄葉を魅せる木々。葉を落とした落葉松林は日射しに溢れています。

頭上高くに延びる落葉松の木々。

晴れ渡った空に延びる落葉松の枝と黄葉。晩秋の彩。

丁度、上空を西に向けて飛行機が飛んでいきました。

西日を受けて輝く落葉松のはるか上を飛び去っていく飛行機雲。

もうすっかり葉を落として彩を失った林の中。西日を受けて琥珀色に染まる木の葉。

もう少し林の中を歩いていきます。

落葉松林をバックに色付く木々。

足早に傾いていく午後の日射しを受ける眩しい黄葉。

午後の日射しを浴びる、牧草地の向こうに広がる落葉松林。

そろそろ夕暮れ、蓼科山と北横岳も少しずつ夕暮れ色に変わっていきます。

すっかり色濃くなった八ヶ岳西麓の落葉松林。西岳の山裾もぐっと色濃くなっています。

高い空を往く飛行機が次々と飛行機雲を残しいていく夕暮れの空。

どっぷりと日が暮れると、西の空に浮かぶ雲を夕焼けが焦がしていきます。

暖かで穏やかな日曜日の夕暮れ。

明日からは再び天気が崩れてしまうようです。

今月の読本「武士の起源を解きあかす」(桃崎有一朗 ちくま新書)有閑弓騎から滝口へ。王臣子孫と郡司で描く収奪の古代史電車道の先に開く玄関口

今月の読本「武士の起源を解きあかす」(桃崎有一朗 ちくま新書)有閑弓騎から滝口へ。王臣子孫と郡司で描く収奪の古代史電車道の先に開く玄関口

多くの読者に読まれる事を想定した、毎月刊行される新書。

飽和気味と言う言葉を遥かに超えた勢いの刊行数で毎月送り出されくるため、その内容には「まとめ系」であったり、明確な差別化やテーマ性の強い作品が求められる傾向が、近年特に高まってきているようです。

四六判の選書や叢書とは扱われ方が異なる「戦乱」の中に、明らかに議論を呼ぶテーマを掲げて、専門家ではないと断言する研究者が飛び込んだこの一冊。

今回は「武士の起源を解きあかす」(桃崎有一朗 ちくま新書)をご紹介します。

著者は中世史の研究者ですが、儀礼、儀式から社会的な秩序を体系化する研究に携わっているとの事で、本書がテーマで掲げる武士が専門の研究者ではありません。また、前著となる「平安京はいらなかった」(吉川弘文館)も著者の研究テーマである儀礼の空間としての平安京をテーマに、京都学の講義を行った内容を書き下ろした一冊。著者の研究内容から見るとサイドメニューに相当する本のようです(サイドメニューは当該叢書シリーズが掲げるテーマですので、むしろ的を得た設定です)。

本書についても、著者の研究を進めるにあたってどうしても決着を付けておかなければならなかったテーマと称して議論を進めていきますが、その議論にはある前提が付されています。

武士論を掲げる数多の書籍、研究者、執筆者の中で、下向井龍彦氏と高橋昌明氏の両名の研究成果を軸に綴られる議論の骨格(更に補足すれば、古代史研究者の森公章氏の豪族に関する研究)。両者の基本的なスタンスに同意を示すと同時に、その論点における弱点を突き、傍証が足らないもしくは出来ないと断定する部分に対して著者自らの試案を組み入れていきます。

新書と言うフォーマットではやや厚めな300ページ越えですが、聖武帝以前から始まり、平将門の乱で一旦議論が終わる長大な時代扱う一冊。唯一点の結論が得られれば良いと称して、その間の著述は正に電車道の如く、他の議論を排しながら一本調子で突き進んでいきます。

本文中に織り込まれる著者の視点、古代豪族に発祥を持つとする「有閑弓騎」と、滝口の人員から見た律令国家の病巣の元凶と見做す王臣家からの武士の発祥、更には武士と言う名称の生み出された素地。

自らの高校時代における弓道の経験(前著で著者は鍋島武士の家系であることを述べています)を起点に、前述二人の研究者が提唱した内容に対して著者の独自性を求めます。蝦夷の騎馬と抜刀技術より更に古い、弓と騎乗の技術をもった古代豪族の子弟を称する「有閑弓騎」の系譜を受け継ぐ郡司とその末裔たち。墾田永年私財法を起点に地方からの収奪を目指す王臣家とその手先となった末裔たちである王臣家人。彼らの母系とその間に降り立った、間引きされ大量に臣籍降下した直近の王族たちの男系が地方で結びつく事で、正に「武士が生み出された」としていきます(ここで著者が利仁将軍こと藤原利仁や俵藤太こと藤原秀郷の出自特異性について拘る点は論拠含めて要注目で)。更には、彼らが京と往還する事になる送り込まれた先が、正にその名称が使われる発端となった「滝口」で有る事を将門の伝承から認めていきます(つまり冒頭では一点と称するが、実はハイブリッドであることを著者自らが示します)。

前著に於いて、古代王朝が律令制を受容するにはその国力規模も実力も不相応だったと断じた著者。律令制崩壊の起点である、土地政策の弛緩化から中世の胎動を見せはじめる段階までを、律令国家を支えたであろう朝廷や天皇、廷臣たちの姿をある意味嘲笑するかのように、地方行政の混乱を惹き起こした張本人たちこそ、その制度下では有限のポストに代を継ぐことであぶれてしまう彼ら王臣家と其れに繋がる者達であると断罪し、彼らの存在こそが武士の発祥を促したとの筆致で貫かれていく本書(著者は武家社会こそ貴族制であると応えます)。

一見非常に明快で、先行研究を一瞬で置き去りにしていく筆致に読まれた方には爽快感すら与えられるかもしれませんが、素直には喜べない実情もあります。

前述のように、本書の基本的な骨子は著者の視点による地方を重視した古代行政史を軸に、前述の研究者の方による先行研究の成果を援用する形で描いており、その弱点を著者独自の視点で置換していきます。実は表題や帯にあるような決定打的な表現とは裏腹に、その基盤となる議論の推移は先行する数多くの研究者の成果に依拠しており、ピンポイントで著者の持論を持ち込み推移の中に織り込む事で、それが全体観であると言っているようにも感じられてしまいます。更にその持論を投じる際も、他の先行研究に関しては検証できない、答えていないと断じる一方、自らが挙げた論点については「可能性」「十分」といった言葉をあっさりと使ってしまうため、かなりの片手落ちに感じる事も事実です。

むしろ本書は、同じテーマを扱ってきた書籍では断片的、ないしは迂遠で読みにくかった内容を著者の豪快な筆致に身を任せで読み進める事で、俯瞰で読ませた上で著者が投じたとする(かもしれない仮説):P.278に対する疑問、武士の発祥という議論のテーマへと導くための玄関口としての一冊。

冒頭で述べられるように、本書では新書で省略される事の多い注が敢えて添えられており(補注としての記述まであればなお良かったですが、それは文庫化の時にでも)、本文中に指摘される先行研究者の方が書かれた、比較的入手しやすい一般向け書籍も参考文献として列挙されています。

文章量はやや多く表現などは荒っぽいところもありますが、一気呵成の筆致で綴る内容は好奇心へと導いてくれる一冊。本書をきっかけとして、それこそ数多ある武士を扱った本を手に取った上で、色々と読み比べて考えてみるのも歴史に興味のある一般人の読書としての楽しみかもしれません。

それこそが不振を極める本屋さんの書棚の中でも貴重な、常に新刊が溢れ続ける新書という書籍がその先に広がる読書への入口としての役割と自負してきた起源でしょうから。

今月の読本「土 地球最後のナゾ」(藤井一至 光文社新書)粘土と植物を化学と地理学で喋る、世界を巡り人類を支える12の土壌と黒ボク土への想い

今月の読本「土 地球最後のナゾ」(藤井一至 光文社新書)粘土と植物を化学と地理学で喋る、世界を巡り人類を支える12の土壌と黒ボク土への想い

関東地方に住んでいる人間にとって、子どもの頃からの泥んこ遊びと言えば、赤茶けた関東ローム層に塗れることかもしれませんが、場所が変われば土の色も変わる。地質にご興味がある方であれば、当たり前のように思えるかもしれませんが、その事を本気で追求し始めると、話は人類全体へと飛躍するようです。

今回はそんなテーマを追い求めた研究者が綴る一冊「土 地球最後のナゾ」(藤井一至 光文社新書)をご紹介します。

本書の著者はちょっと珍しい土壌の研究者。スコップを握りしめて世界の地面を這い回り、その土壌を集め続けてた先に現職(国立研究所の主任研究員)に至っていますが、本書の前半では研究者としての現在に至る経緯を含めて、土壌を採取する為に世界を廻った物語と共に、その地にある代表的な土壌について解説が述べられていきます。

永久凍土より寒々しい親父ギャグ(著者はまだ30代です)がそれこそ蚊柱の如く間断なく襲い掛かる、手軽に読まれる事を念頭に置いた新書ではありますが、過去幾百冊と読んできた中でもこれほどまでに「酷い」文体(きっとギャグの分量だけで50ページ位にはなるのでは)は見た事ないと言い切れる壊れた本文。更には、日本における理系研究者の方が書かれる、自らの研究を題材とした本に典型的に見られる、主題を差し置いて迂遠に呟き続ける自らの生い立ちと研究苦労四方山話の数々。これがまた本文いっぱいに散りばめられているため(こちらも多分50ページ分くらい)、表題にあるテーマが描かれる部分はかなり絞られてしまいます(でも、この二つが無かったら新書としての体裁も整わなかったかも)。

五月蠅い程の余談の猛攻に読書意欲が度々折れそうになってしまいますが、それらを蹴り飛ばしながら読み進めた先にある、本来のテーマに込められた内容は実に興味深く、要所では読者の好奇心を巧く引き止める筆致に溢れていることが判ります。

土壌という意味の説明から始まる本書ですが、メインは著者自らが世界を廻って実際に集めてきた世界を代表する12種類の土壌の解説と現地での採集シーン。更にはユニークな視点で綴る、その地に暮らす人々の生活。ここで著者は園芸関係の方が読まれる事を念頭に記述を進めているようですが、本書が楽しく読めるのは実は植物や地質、更には地理学にご興味がある方ではないかと思えてきます。

なぜ12種類の土壌が生まれるのか。火星や月の土との比較から土壌が生まれる過程を説明していきますが、そこには大きなポイントが用意されています。地殻からもたらされる、土として供給される母体から土壌として作り出される間に生み出される粘土、媒介する微生物と植物たち。

土そのものがどのように変化して土壌となっていくのかを前述した三つのポイントを踏まえて、地殻の風化から微生物、菌類、植物、そして水が仲介する化学反応として捉える事で、その過程を易しく理解できるように解説してくれます。そして風化を促す地球レベルでの大地の移動と気候の変動。風と水が作り出す肥沃な大地とそれを保持する粘土の生成、植物にとっては諸刃の刃となる、土の元となる地殻からもたらされる金属イオンと引き寄せられるナトリウムイオン。園芸関係にご興味のある方であれば、施肥などを含めて植物がどのようにして土壌と上手く折り合っているのかを理解する上で特に興味深く読む事が出来るはず。一方、私のような樹木、特に「針葉樹」好きにとっては、極地や針葉樹林帯に分布する土壌と樹木の相互関係について、もう一歩説明が欲しかったところでもあります(腐植ですぐ分解される話だけではなく、寒冷地の土壌を作り出す遠大な過程の話もちょっと聞いてみたかったです)。

自らの研究の出発点となる裏山から始まり、極北から赤道付近へと降りていく、温度と水のマトリックスから順序を追って土壌の生成の違いを述べていく事で、気候的な要因を振り出しにその生成過程が変化していく姿を捉えていきます。副題にあるように100億人の人口を養うための土壌を探すことをテーマに据えて辿る12の土壌とその生成要因。前述のように脱線が過ぎるのは事実なのですが、不真面目な本だと軽く見ているとちょっと足元を掬われます。

世界を巡る物語の後半で述べられる、研究のベースに置いた東南アジアの地で、スコップ一本からできる土壌改良で世界を救うという壮大なテーマを掲げた著者の挑戦記。道程は遥か遠くのようですが、その過程では鋭い指摘が繰り出されていきます。著者もその一員として作成に携わった、世界の土壌分布から見た人を養える土壌面積の余りの少なさ、遍在性、その地にしがみ付く様に集住する人類。それ故に土壌改良の母材として表土を深く剥ぎ取られて海外に売られていくウクライナのチェルノーゼムと植民地の再来を思わせる農地の買い占め。農地に適さない事を理由に僅かな表土すら剥ぎ取られ、唯、骨材として売り払われるインドネシアの砂。そしてプレーリー(私の本は第3版ですが図版内の記述が「プレーソー」のままではと…)を覆ったダストボールと大規模集約農業における農地維持の限界。人類が生きていくためには農作物とそれを養う大地、土壌が必要だが、その維持にも開発にも常に有限の土壌を消費し、改質する事のリスクを負っている事を明確に示していきます。著者がマヨネーズ一本を持ち合わせなかったことを悔やんだ、赤茶けた表土が広がる野辺山の大地。

 

世界を廻った土壌の物語は最後に研究のスタートラインである裏山、そして「黒ボク土」から故郷の水田という、モンスーンに包まれ、世界的にも特異な土壌を多く有する日本へと戻ってきます。

霧ヶ峰における野焼きの失火の跡。梅雨を挟んで僅か2ヶ月ほどで此処まで緑が戻ってくるのが日本の環境。本書でも指摘のように、この地は縄文人たちが集住していた頃から火が入れられ、「黒ボク土」を生み出す元となったとも云われています。

 

現職関係者への忖度なのでしょうか、中盤まであれほど猛威を振るっていた筆致はすっかり影を潜め、真摯に現在の日本における農業と土壌について語り出す著者(これは少々狡いかと)。宮沢賢治の研究テーマからの示唆を添えながら、持続性のある農業、日本の農業を礼賛するような形で話を締めていきます。

黒々とした土の向こうに延びる、嬬恋村のキャベツ畑。

営々と繰り返される火山性の黒ボク土を土壌改良する先に生まれた、我々の生きる糧、食生活を支えてくれる農地としての土壌。世界を廻ってその現実を目の当たりにした著者は、再びこの地に根を張って、土の声を聴き続ける事を決めたようです。

足元に広がる土壌の不思議さとその貴重な土壌を糧に我々が生きている事を教えてくれる(ちょっと厚かましさ込みで)一冊。アスファルトが途切れた先で少し足元に目を向けてみると、もう一つの知らない宇宙がそこに広がっているようです。

 

 

晩秋の彩の中へ(2018.11.2~3)

八ヶ岳から初雪の便りが伝えられると、山麓でも落葉が始まり秋も終盤。

少し南に下がって、名残の秋色を探して。

八ヶ岳山麓より谷筋を挟んで南西側に位置する南アルプスの北端、杖突峠の裏側にある千代田湖。

ぐっと色を濃くした落葉松が日差しに輝いています。

対岸の落葉松林の中、雲が多めながら時折青空が顔を覗かせる昼下がり。

落葉の進んだ落葉松の葉が明るい林の中で輝きます。

落葉松と広葉樹のコラボレーション。

深まる秋色です。

八ヶ岳周辺は雲が多めでしたが、杖突峠を越えて高遠側に下ると、まるで夏のような雲が浮かぶ青空。

例年より季節の移り変わりが少し遅い、緑が僅かに残る落葉松の黄葉に包まれる松倉の集落。

松倉の集落を過ぎて高遠の方に下っていくと、小さな廃校跡が見えてきます。

使われなくなった校門へと上がっていく石段の両脇に植えられたモミジが色付き始めていました。

重なり合う様に色を成すモミジの紅葉。

心地よい風が吹く午後、まだ色付き始めの紅葉は爽やかな感じさえ受けます。

青空の下、彩が溢れる木の下で暫し。

再び峠を下ると、午後の陽射しを浴びる落葉松に覆われた山々は黄金色に輝き出しています。

足早に夕暮れが訪れる晩秋。

眩しい西日をいっぱいに受けて輝く落葉松林。

落葉松林をバックに輝く白樺の木。森の中が華やかな黄金色に包まれます。

足早に西の山並みに沈んでいく夕日を受けて、最後の輝きを見せる落葉松たち。

山を下ると落葉松色に染まる山並みが、夕日に照らされています。

日が落ちてぐっと色を濃くする八ヶ岳西麓、西岳の裾野。

どっぷりと日が沈むと、ほのかな紅色に染まる山裾。

紅葉シーズンも最終盤を迎えて、華やかな落葉松色に染まる晩秋の八ヶ岳山麓。既に明け方は0℃近くまで冷え込む中、落葉松が葉を落とすとそろそろ冬の足音が聞こえてきます。

秋色に輝く森の中へ(野辺山から川上村)2018.10.22~28

10月も終盤戦になって、漸く天候が安定してきた先週。

すっきりと晴れ渡った朝。

甲斐駒を望む圃場も晩秋の装いです(2018.10.22)。

初冠雪の便りが寄せられた南アルプスの山々。

少し暖かくなった雨上がりの朝、色付く山並みの上空に雲が舞い上がります(2018.10.24)。

麓近くの山裾まで赤銅色に染まり始めた朝の八ヶ岳。

八ヶ岳山麓の紅葉も終盤戦、山里の紅葉が始まります(2018.10.25)。

雨上がりの日曜日の朝。

ひんやりとして乾いた風が吹き抜ける野辺山の牧草地の向こうに延びる、八ヶ岳の山並み。

落葉松色に染まる山裾を纏う姿を望めるのもこのシーズンだけです。

雲一つない青空と、すっかり葉を落とした主峰、赤岳の山頂部。そして落葉松色に染まる山裾、乾いた牧草地の緑。秋のグラデーション。

11月に入ると降雪もある野辺山の高原地帯。

最後の収穫を待つ高原野菜の畑越しに秋色深まる八ヶ岳を。

高原地帯をぐるっと廻って千曲川沿いに降りた先に伸びる小海線。

高原地帯を進むように思われる小海線ですが、野辺山を越えると一気に谷筋へ。佐久広瀬駅の付近では紅葉する木々に囲まれた溪谷に添って進みます。

山裾に落葉松林を纏う男山。

今年の落葉松の黄葉は少し遅れ気味、猛暑の影響が此処にも見えているようです。

男山の懐、峠越えの道へと入っていきます。

まだ浅い落葉松の黄葉から光が差し込む明るい林冠。

標高を上げていくと、森の中は鮮やかな黄色に彩られていきます。

明るい落葉松林の中、落葉樹たちも彩に染まります。

森全体が黄金色に染まる昼下がり。

黄金色の光が差し込む。静かな峠越えの路。

峠が迫って来ると、木々が密集してきます。

カーブを曲がった先に広がる、黄金色のステージ。

頭上から降り注ぐ眩しい光に森全体が照らし出されます。

黄金色に染まる舞台の正面で、精一杯羽を伸ばす幼樹。金色の妖精が羽ばたく秋の昼下がり。

峠へと延びる、黄金色に彩られる道筋。

落葉樹たちの紅葉を通して映る日射し。

華やかな午後の森の中。誰に観られるためでもなく、次の春を迎える為、秋の眩しい日射しを受けて精いっぱい輝きます。

まだ緑が残る浅い落葉松の黄葉をバックに。

静かな森の中、彩に心弾ませる昼下がりのひと時。

峠を越えて、御所平の集落の中へ。

ここは千曲川の源流域。川沿いの鮮やかに色付いた山裾をバックに鳶が高く広がる秋の空を舞っていました。

振り返って、御所平側から男山を。西日を浴びて色付く広葉樹たちと、まだ色付き始めの落葉松のコントラスト。

ざっくりと山肌が落ち込んだ赤顔山。

天狗山の山裾は落葉松の黄葉で染め上げられています。

信州峠へ向けて標高を再び上げていくと、色付く山々をバックに収穫が進む高原野菜畑を通り過ぎます。

もう一段標高の高い、信州峠直下の畑は既に今年の収穫が終わったようです。

傾き始めた西日に照らされる落葉松に覆われた山々が落葉を始めるのはもうすぐ。山里はそろそろ冬支度が始まる頃を迎えました。

 

 

今月の読本「鳥瞰図!」(本渡章 140B)一代の鳥瞰図絵師、吉田初三郎と時代を眺望するパノラマ

今月の読本「鳥瞰図!」(本渡章 140B)一代の鳥瞰図絵師、吉田初三郎と時代を眺望するパノラマ

鳥瞰図という言葉をご存知でしょうか。

最近ですと、カーナビの表示モードに「バードビュー」と名付けられたモードがありますが、高いところから地上を俯瞰で表現する描画手法を指して呼ばれます。

類似な物として地下鉄の駅や地下街の立体的な通路案内であったり、都市や住宅団地の街路の案内板にもみられますが、その名称を直接指し示す場合には、バブル期以前の牧歌的な観光地の案内図、駅などに掲げられたちょっと懐かし目の観光案内入りの路線図、観光地を紹介する広告看板にも良く見られた手法が相当するかと思います。

最新の表現手法としても使われる一方、ちょっとノスタルジックな感じも受ける鳥瞰図。日本におけるその成立の推移を綴る一冊をご紹介します。

今回は「鳥瞰図!」(本渡章 140B)のご紹介です。

本書は大阪、中之島のタウン誌「月刊島民」からスピンオフした市民講座「ナカノシマ大学」の講座内容を再編集して一冊の書籍に纏めた物。著者は所謂エディター出身で地図に関する複数の著作を有される方です。本書が主題として掲げる鳥瞰図と、その画法を掲げて大正の広重、超広重と称した一代の鳥瞰図絵師、吉田初三郎をご存知の方であれば、講座、そして刊行の経緯に納得されるかもしれません。

初三郎が世に出るきっかけを掴んだ一枚、後の昭和天皇が皇太子時代に乗車した京阪電車の車内に掲げられた、初三郎が描いた路線案内図。東京に持ち帰って学友に分かちたいという言葉を賜った事が世間に喧伝される事で一躍有名となった、中之島をホームグラウンドとしている現在の京阪電鉄とそのスポンサードを受けるタウン誌。作品を描いた初三郎を紹介するに最も相応しいタッグ(それでも幻の前作制作の経緯は判らなかったと、残念)で、鳥瞰図の誕生からその描かれた姿を綴ります。

短時間で要領良く話す事が求められる講座の内容をベースにした著作。初三郎の物語と鳥瞰図の始祖から成立、現代に至る画法の変化について、コンパクトにテンポよく描かれていきますが、本書では特に二つの視点に着目しています。

一つ目には、所謂遠近法の受容から始まり、最密に都市構造を俯瞰で表現する手法として海外からもたらされた画法と、日本古来からの大和絵の画法の複合形態から初三郎の作品に繋がるダイナミックな鳥瞰図法に繋がる経緯を表現手法として解き明かしていきます。超広重を標榜するに相応しい遠近法を逆用する様なパノラマ感、画面周囲から外れる物(特に路線や道路、地名)を画面の淵にねじ込んで表現してしまうダイナミックなギミック。そして、路線を真っ赤な直線で描き、クライアントの建物はスケールを無視して精細に描き込む一方、その他の風景や町並みは煩雑になるくらいならおざなりにしても構わないと割り切る。理論的表現や言語解釈よりも視覚的な直感性を重んじる日本人がとても好む、主題を強調する一方、それ以外を極力省略して画面を際立たせる浮世絵や現代の漫画、アニメーションに通じる大胆なデフォルメ感。

海外から伝わった技法と日本人が培ってきた画法が交じり合って生まれた鳥瞰図と言う特異な表現手法とそれを編み出した才気煥発する初三郎。地図好きの方にとっても楽しい解説が続きますが、本書が素晴らしい点はその背景を近代の社会史に問いかける点です。

冒頭から述べられる「飛行機の時代」という時代背景から呼び起こされた、空からの眺望がすぐそこまで手に届くようになった、実態感を伴った憧れ。眼下の大地を矢の様に突き進み都市と郊外を結ぶ電車。広がる国土、更には大陸まで伸びる町と街を網の目の様に結ぶ鉄路と航路。地上に繰り広げられる新たな繋がりを描き込むための鳥瞰図。そこに地形を詳細に正確に描く、正確に理解させるための地図の描画手法とは全く異なる、時代背景や社会を描き込むための鳥瞰図の姿を見出していきます。

鮮やかに描かれた鳥瞰図を更に時代を追いながら詳細に観ていくと、大正デモクラシーから躍進する当時の時代背景にもう一つの飛行機の時代、徐々に軍靴が響いてくることが見えてきます。戦争の惨禍の先に鳥瞰図と言う手法自体が萎んでいく中、その悲劇を忘れてはならないと描かれた異色の作品「HIROSHIMA」駆け足気味の本書ですが、初三郎の想いが注ぎ込まれたこの一作に対しては一節を立てて丁寧に紹介されています。

そのルーツが近代の産業化の華ともいえる都市図と博覧会の図録であることを見出した著者は、描かれた内容や鳥瞰図に埋め込まれた企業の広告から(鳥瞰図自体も宣伝媒体)、鳥瞰図を通して時代背景を見出していきます。初三郎が導き出した、時代を空からの視点で大きく包み込むように描き込む鳥瞰図の在り方。その深い関わり合いは、画法を洗練されながら近年まで活躍された大阪万博の鳥瞰図(大阪万博メモリーズ)を描いた石原正氏から、息づく街の姿を等角投影を用いて細密に、実態感を込めて描き込んでいく青山大介さんの作品へと受け継がれているようです。

その時代にしか描けない、時代の視点を地図として描き込んでいく鳥瞰図の世界。江戸時代から現代まで、豊富に掲載された作品たちが描くパノラマだけが魅せてくれる眺望感の中に、どんな時代の風景が見えるでしょうか。

本書のメインテーマとなる鳥瞰図絵師、吉田初三郎。本作は前述のとおり著述自体が大坂をベースにしているため紹介される内容も比較的関西寄りとなっていますが、初三郎自身は全国を廻って膨大な作品(1600点を越えると)を残したことで知られています。

中でも急速な近代化と観光開発が進められた信州、長野県は当時盛んだった養蚕業、観光地開発をセットにした鉄道のPRのために多くの鳥瞰図が作成され、その一部が長野県立歴史館に常設のアーカイブとして収蔵されています。

初三郎の名品でもある、東洋一の絹の街、シルク岡谷の繁栄を今に伝える「岡谷市鳥瞰図」とライバルの金子常光が描いた「諏訪湖大観」の競演を始め、製本される紙質にまで拘って信州のパノラマ地図を網羅した、鉄道関連にも造詣が深い、地元信濃毎日新聞社の内山郁夫さんが本編を執筆した「信州観光パノラマ絵図」と、同アーカイブを中心とした作品群を展示した、長野県立歴史館で平成23年に開催された企画展「観光地の描き方」図録から、長野電鉄に招聘された際に撮影された、志賀高原方面で取材中の吉田初三郎の写真(長野電鉄所蔵)。この図録は博物館らしく非常に美しい仕上がりで、当時のままに眩しい程に鮮やかな色彩で描かれる鳥瞰図たちを見る事が出来ます。なお本図録には、先ごろ「草津温泉の社会史」を上梓された、近現代の観光地の歴史にも詳しい、群馬大学の関戸明子先生が「吉田初三郎の鳥瞰図に描かれた信州の温泉」と題して、当館が所蔵する横4mにも及ぶ初三郎直筆の大作「長野県之温泉と名勝」原画制作の経緯と読み解きの解説文を寄稿されています。