長雨から暑い秋晴れへ(2018.9.14~17)

長雨から暑い秋晴れへ(2018.9.14~17)

台風が過ぎ去った後、急激に冷え込み雨が降り続けた八ヶ岳南麓。

明け方には気温が15℃を下回り、ひんやりと冷え込んで真っ白な雲に包まれる朝。秋晴れの中で登熟を待ちたい圃場でも、早めに刈り入れが進んでいます(2018.9.14)。

時折、強い雨が降る連休土曜日の夕暮れ時。

雨雲が切れ始めた南アルプスを望む圃場を埋める、浅い実りの色に染まる稲穂の漣(2018.9.15)。

漸く雨雲が過ぎた後、晴れ上がった眩しい陽射しが差し込んだ連休最終日。塩川を挟んで段丘の上から甲斐駒を望む、登熟を待つ明野の圃場。

汗が流れる程に暑くなった昼下がり。

夏空と秋の高い雲が交じり合う八ヶ岳の空。

実りの色に染まる圃場は刈り入れの時を迎えています。

広告
今月の読本「ライチョウを絶滅から守る!」(中村浩志・小林篤 しなのき書房)もう躊躇は出来ない、第一人者の想いとこれから

今月の読本「ライチョウを絶滅から守る!」(中村浩志・小林篤 しなのき書房)もう躊躇は出来ない、第一人者の想いとこれから

高山に舞い降りる神の使い、雷鳥。

厳冬の雪山、丸々と膨らんだ可愛らしい姿で白銀の中を歩き、夏場になるとハイマツ越しに登山者が触れられそうな目の前を悠然と往くその姿に魅了される方は数多くいらっしゃるかと思います。一方で、危機的な状況が伝えられるその生息環境と生息数。繰り返し報道される保護活動と相対する高山植物の植生崩壊、更には想定外の天敵に捕食されるシーン。そのいずれの場面にも登場されるライチョウ研究、保護活動の第一人者である著者が、後継者と目される若き研究者と共著と言う形で著された、最新動向を綴る一冊が上梓されました。

今回は「ライチョウを絶滅から守る!」(中村浩志・小林篤 しなのき書房)をご紹介します(版元さんのHP更新が止まっておりますので、リンクはAmazonです)。

前著「二万年の奇跡を生きた鳥 ライチョウ」(農文協)から5年。その間にライチョウを取り巻く環境は大きく変化しましたが、それは著者にとっても同じ。豊富な著作を有する一方で、前著では研究を継承する立場であった著者が、今度は自らの名を冠した研究所を開設し、研究を次世代へと引き継ぐ立場に至った心境を踏まえた著述となっています。

まず、日本におけるライチョウの生活環境や繁殖、日本人の山岳に対する想いとライチョウといった著者にとっての一般論と言える部分は前著をほぼ踏襲していますので、前著を読まれた方にとってはかなりの部分が重複する内容になるかと思います(本書では抜粋に近い形での掲載になります)。

その上で、本書は著者が自らの研究所を立ち上げる直前から、以前にも増して積極的な活動をアピールする形でその成果や自らの活動、各地で展開されている活動に対する想いを述べていきます。しかしながら、そのアピールや提言、実際の活動内容については前著以上にある種の懸念も付き纏います。

日本における自然保護の根底にある、ある種の無謬性への憤り。手つかず、ありのままの姿という名で語られる、無改変であることを尊ぶ見解や抑制的な保護活動に対する強烈な反論。人を恐れないと云われるライチョウの無防備性自体が日本人と自然の関わり方の尊さ、共存の姿を象徴すると述べる一方で、積極的と言う言葉を越えた人為的な強制介入ともいえる現在の保護活動と、最新の研究成果も織り交ぜた一連の域外保全政策に対するフィールド研究者としての現時点ではやや否定的な見解。

ある意味苛烈とも捉えられる論旨が所々に含まれますが、そこまで一線を越えた活動を続けなければ種の滅亡に直面してしまうという、極めて危機的状況にあるという認識を繰り返し述べていきます。

50歳を過ぎてから前任者を引き継ぐ形で始めた著者のライチョウ研究。本意ではなかった研究から更に本意から外れる形で否応なく向き合うことになった現在の保護活動の姿を詳述する本書。既に70歳を過ぎた著者自身が、今度は研究と保護活動を永続化し後進へとバトンタッチする事も念頭に置いた、市民も参加する保護活動の一端を紹介しつつ、著者と同じように本意を曲げて研究、保護活動の道を歩み続ける共著者への強い想いを述べて筆を置いています。

地元出版社から刊行された本作品。長野県下以外の本屋さんで手に取る事は難しいかもしれませんが、報道等で繰り返し伝えられるライチョウ生息環境の急激な変化や、人工繁殖、保護活動の話題に関心がある方。更には、その愛らしいライチョウの姿に魅せられ、ご興味を抱かれた方にも一緒に読んで考えてみて頂きたい一冊。

長期に渡る低地での人工繁殖に一度は断念するも、類似種であるスバールバルライチョウ(写真)の飼育によるステップを経て、再びライチョウの人工繁殖に挑んでいる、大町山岳博物館

本書でも、4世代まで繋ぐ事が出来たその飼育実績を踏まえて、他の施設とは異なる飼育方法、餌の選定で人工繁殖に挑んでいる事が述べられています。

また、動物園関係者や獣医師の知見も踏まえて、フィールド観察から得られた親の盲腸糞を雛が食することによる腸内細菌の増加と感染症への耐性獲得の示唆といった、大町山岳博物館が超える事が出来なかった、継続的な域外保全の鍵となる知見も得られるようになってきています。

多くの方々に関心を持って頂く事で、より一層の保全活動に繋がる事を願って。

落ち着かない初秋入り(2018.8.29~9.5)

落ち着かない初秋入り(2018.8.29~9.5)

荒れる今年の8月の終わりから9月の初旬。

季節は秋へと移り変わってきました。

いつもより生育の早い、八ヶ岳を望む圃場を埋める秋蕎麦の花。

甲斐駒を望む圃場の蕎麦畑も真っ白な蕎麦の花で埋まります。

少しウェットな雲が流れる朝の空(2018.8.29)。

圃場を埋める稲穂も随分と色付いてきました。

雲が多めな朝の空は、北から秋雨前線が降って来た証拠。そろそろ季節の折り返しです(2018.8.31)。

台風が過ぎ去った朝の清々しい秋空広がる八ヶ岳を望む蕎麦畑。

週末に入ると秋雨が続く落ち着かない9月の初頭ですが、今年も実りのシーズンを迎えました。

 

今月の読本「フォッサマグナ」(藤岡換太郎 講談社ブルーバックス)深海から挑む列島を分断する大断面の謎

今月の読本「フォッサマグナ」(藤岡換太郎 講談社ブルーバックス)深海から挑む列島を分断する大断面の謎

私が居住する八ヶ岳南麓、その西方には長大な山脈が壁の様に長々と山裾を伸ばしていきます。

明治の初め、平沢峠に立ったナウマンが眼前に聳え立つその姿から思い至った、巨大な地溝帯フォッサマグナの西壁。

今やすっかり用語として普通に使われるようになった活断層とは違う。中央構造線や糸魚川-静岡構造線とも違う。学生時代の授業では当たり前のように使われる用語にも拘らず、ちゃんと説明できる方は、実はかなり少ないのではないでしょうか。

列島の真ん中にドカンと居座り、日本の中枢、東京首都圏の過半がその範疇にありながらもその姿が今一歩判りにくい、フォッサマグナとその成立の解説に敢えて入門書として挑んだ一冊のご紹介です。

フォッサマグナ」(藤岡換太郎 講談社ブルーバックス)のご紹介です。

本書の著者、藤岡換太郎先生はブルーバックスだけでも既に4冊もの著作を有されている方。同新書の地学シリーズ著者としてはお馴染みの存在です。専門は地球科学としていますが、どちらかと言うとJAMSTECに所属されていた際の深海探査や海溝の研究など、海洋の地殻運動に造詣が深い方と言ったイメージが強いでしょうか。JAMSTECの地元、有隣堂の新書シリーズ、有隣新書にも共著を含む多数の著作を有されています。

手練れの執筆者である著者にしてその執筆に大いなる躊躇を踏む事になったフォッサマグナの解説。地理探偵よろしくと述べた著者は本書でその成立の謎について私論と題した一節を設けて解釈を試みていますが、その過程を「地理屋のいも料理」(ごった煮と言う意味でしょうか)と称し、その特異性への言及に至っては漫画以上に荒唐無稽であると持論を卑下されてしまいます。

表題や帯の通りには答えてくれない内容となる一冊ですが、それでも本書を読むメリットは些かも失われません。それは判っているそぶりをつい見せてしまう「フォッサマグナ」の、何が分っていなくて、何故特別なのかを改めて教えてくれるからです。

フォッサマグナの中央にどかりと居座る八ヶ岳とその北東に今も噴煙を上げて聳える浅間山。二つの火山と、南の海からやって来た伊豆半島に押し上げられた先端で美しい裾野を広げる富士山と東に控える広大な箱根から噴火した膨大な噴出物。更には南から一緒に連れてこられた丹沢山塊によって、フォッサマグナが覆い被されてしまっている事はよく知られているかと思います。ではそれがどの範囲まで広がっていて、何処まで深く続いているか。更には日本を大きく南北に分かつと謂われる中央構造線はフォッサマグナの西の淵である糸魚川-静岡構造線に収斂するのかそれとも何処かに繋がっているのか。果たして本当に日本列島は二つに分かれていたのか。

東西、南北で異なる地質や成立過程など判っている部分と、なぜ判らない部分があるのかもはっきりと書かれており、人類どころか生物達の年代スケールを遥かに超越する運動の推移を追求する地球物理学、地質学の難しさが実感できるかと思います(それにしても僅か10年で現在でも通用する本州以南の地質図を作り上げてしまったナウマンの強靭な健脚と仕事の早さ)。そして、ナウマンが生きた時代にはまだ荒唐無稽どころか空想の範疇であったプレートテクトニクスによるフォッサマグナの解釈。世界の深海を制覇した著者ならではの視点で、房総沖の深海に密かに眠る世界唯一の海溝三重点こそがそのカギを握るとの認識を添えて、フォッサマグナ成立の謎について著者の説(いも料理)が供せられていきます。

その地に住んでいながら、なかなかに理解しにくい地理のテーマについて、ナウマンがその発想に至った地、平沢峠を振り出しに地球スケールまで広げながら丁寧な解説を加えていく本書。

フォッサマグナの成因は依然として闇の中なのですが、著者がその理由として(確信の一つとして)採り上げたホットリージョンとスーパープルームについてやっと満足できる(私の至らない知識ベースではちんぷんかんぷんだったのです)解説を読む事が出来た点だけでも大満足だった一冊。更にサービス精神旺盛な著者は、日本の東西であらゆる物事が違う理由はフォッサマグナが原因なのかという小ネタの類にまで答えてくれます(文化地質学という分野、知りませんでした)。

壁のように聳える南アルプスの山々。

膨大な力が押しあい、沈み込む中で作り出され、今も作り続けられる自然の驚異を日常の一片とする我々の生活する大地の下にどんな謎が潜んでいるのか。その大いなる恩恵に浴しながら、何時起きるか判らない災厄とも隣り合わせに暮らしている。時にその源にも意識を向けてみるのも良いかもしれません。

有隣新書は大好きで何冊も持っているのですが、手元にあった著者の最新刊からと、フォッサマグナを知るためには是非訪れて欲しい、糸魚川のフォッサマグナミュージアムで購入出来るガイドブック(内容はやや古いです)。図版などは本書でも引用されています。

お時間のある方でしたら、フォッサマグナの縁を添って形作られた糸魚川-静岡構造線、その特徴を表す「露頭」を探して旅をしてみるのは如何でしょうか。本書でもコラムで取り上げられている各地のジオパークを繋ぐように南北に連なるその姿を地上に表す露頭。動き続ける大地の鼓動が身近に手に取れる場所です。

再び猛暑の晩夏(2018.8.23~26)

再び猛暑の晩夏(2018.8.23~26)

台風が再びやって来た先週。

一度は秋の涼しさとなった八ヶ岳南麓ですが、台風が過ぎ去った後は猛暑が戻って来たようです。

台風の接近で、雲が山並みに集まりつつある朝。

台風の接近を感じさせる風に揺れる、例年より早く色付き始めた稲穂の群れ(2018.8.23)。

台風が過ぎ去った後、再び暑くなり始めた高原。

漸く30℃を切り始めた夕暮れの圃場。西日を浴びる満開の蕎麦畑。

圃場には暑い風が吹き続けますが、高い空はもう晩夏から秋へと向かっている事を教えてくれます。

西の空に沈んでいく夕日。

透明な空に秋の雲が広がります。

 

今月の読本「天を相手にする 評伝 宮崎市定」(井上文則 国書刊行会)古代ローマ史研究者が敬愛してやまない宮崎史学の魅力を個人史に辿る

今月の読本「天を相手にする 評伝 宮崎市定」(井上文則 国書刊行会)古代ローマ史研究者が敬愛してやまない宮崎史学の魅力を個人史に辿る

東洋史学というジャンルを大成された所謂京都学派の巨塔にして、戦後から平成に入る頃まで、多くの読者を魅了してきた文筆家。京都大学教授、文化功労者の宮崎市定先生が鬼籍に入られてから、もう20年以上が経過しました。

既に過去に過ぎ去りつつある戦前派の歴史研究者なのですが、その著作は今も版を重ねて読み継がれ、2015年には『中国史(上下巻)』が岩波文庫へ収蔵、今月も『大唐帝国』が中公文庫で改版されるなど、近年に至ってもその著書が新刊、改版として送り出される、根強い人気を誇っています。

読書ファン、歴史好きな方にとって今なお魅力的な「宮崎史学」。その魅力に魅せられながら 京大大学院を経て古代ローマ史の研究者へと歩みを進めた著者が、自らの研究を放擲して(あとがきより)打ち込んだ、その筆致の魅力の源泉に迫る一冊をご紹介します。

天を相手にする 評伝 宮崎市定」(井上文則 国書刊行会)です。

まず本書をご紹介する前に、氏に対して色々と述べられている論争や歴史感、特に現代の考古学を含む学術研究成果に基づく視点に対する認識のずれについて議論することを本書は目指していません。

もちろん評伝なので、これらの議論の経緯やその応酬についても、触れられる範囲で最直近の研究者たちの発言まで拾って掲載していますが、特に研究史学的な論争については、著者は別分野の人間であると、明確に論証を行う事を否定します。

著者の想い、それは氏の著作に初めて触れた大学時代の想いを胸に秘めて、同じく歴史研究者の道を歩む著者にとっても極めて大切な、どのようにしてその視点を獲得していったのかを個人史から読み解いていく事。幸いなことに自跋の紹介文やエッセイ、同僚、子弟たちの記録が数多く残り、更には氏の高弟で数々の論考や著作の編纂を今も続ける、京都大学名誉教授の礪波護先生への複数回にわたる直接の取材が叶い、併せて資料の提供を受ける事で、記録に残る範疇における氏の生い立ちから死没に至るまでの全容を描き込んでいきます。

むしろ、第一人者である礪波先生自らも手掛けたかったのではないかと思われるテーマを、宮崎の史学そのままに敢えて東洋と正対する古代ローマ史を専攻し、私淑する著者が、評伝としてその執筆を手掛ける事の出来る嬉しさが行間を満たし、時に私的な想いも零れ滲み出る筆致。「読んでもらいたい人に分ればよい、学匠達に捧げるものではない」氏が残した言葉通り、天と読者を相手に真摯に研究と著述を進めた氏の作品に惹かれたファン、著作を手に取って興味を抱いた、多くの読書や歴史が好きになった方へ贈られる一冊。本編約370頁の更に先に50頁弱に渡って綴られる注記自体が、宮崎研究の索引にも相当する、丁寧な引用と確認を踏まえて綴られています。

東洋史の大成者であり、95歳で没する直前まで著述活動を続け、膨大な著作を有する氏の評伝(著者によると原稿用紙800枚分)のため、逐一ご紹介はできませんが、読んでいて興味深かった点をいくつか。

まず、巷間に伝えられるように、京都学派を代表する東洋史学者である内藤湖南の系譜を継ぐ存在であると云われる点について、宋を起点に近世が始まったとする認識を受け継ぐ程度で、京大在籍前後の湖南と氏の交流関係はかなり異なり、湖南の継承者とは言えないと言う点を、周囲の発言を含めて述べていきます。研究者として薫陶の受けた経緯、更には、信州の山奥、飯山出身で旧制松本高校を経た田舎者が京大での研究者としての地位を確立する強力な後押しをしたのは、むしろ桑原隲蔵であったとします。湖南のそれをシナ学と狭い範囲で捉える一方、特に著者にとって非常に密接となる東西交渉史としての視点を氏が早くから有する事になった点も、桑原の指導の先にフランス留学からその後の西アジアを歴訪する事で醸成されたようであり、後の『菩薩蛮記』へと繋がる源泉となったようです。フランス絡みと言う意味では、氏の代表作である『科挙』を書くように勧めたのは、フランス文化研究者で息子である桑原武夫であり、著者はそれを評して、親子二代続けて彼を世に送り出した名伯楽と評します(更には、退官パーティーの席上で、フランス留学時代に下宿で氏が探偵小説ばかり読み耽っていた事を暴露される一幕も)。

次に、国威啓発的な文人の従軍などではなく、意外な事に氏は一年志願兵を経て旧陸軍の少尉として実際に日中戦争時の中国大陸、そして終戦直前の本土防衛に士官として従軍していた点。時に豪胆な筆遣いで非難を恐れずに筆を進めた胆力の遠因もそのあたりにあるかもしれません。この話には更に興味深い内容が添えられており、戦後の一連の発言に繋がる一方、様々に論じられる「アジヤ史概説」の元となった、国策に従事した「大東亜史概説」を執筆する一方で、避戦、終戦も議題とした海軍の秘密会議にも参加していた(生前、礪波先生にすら話す事は無かった)事を紹介していきます。特に演習においてはその沈黙から学生たちに戦慄を走らせ、戦後の京大で政治的な活動にのめり込んでいく学生に対して非難を浴びせる一方、学部長として投獄された学生の保護にも尽力し、歴代の中国政治家として毛沢東に好意的な認識を持っていた氏の行動からは、単純に色分けできるような人物ではない事が窺われます。

そして、実証論的な研究を指向した桑原隲蔵に師事した氏にして、独自の史観を有することになる東西交流史の更に伏流に潜む、素朴民族と文明社会の対峙と言う視点。現代であれば非難を浴びるであろう見識かもしれませんが、当時の社会情勢や前述のように海外に居住し、旅した視点から得られた、文明間の摩擦や上下に列せられることを目の当たりにして来た氏にとっては、当時の日本もまた、素朴民族と認知すべき存在であった、その先に戦前日本の活動は是認されるという認識を持ち続けていた事は否定できないと、氏自身の発言からも認めていきます。

色々な側面を持ちながら、それでも多くの読者に愛される氏の著作。その面白さの源泉は、簡潔で明瞭、それでいながら時にダイナミックに持論を以て攻め立てる(『論語の新しい読み方』は金谷治訳版に親しんだ私も卒倒しっぱなしでした)筆致がぐいぐいと読者を引き込んでいく点では論を持たないかと思います。中でも、氏の著作と自跋を共に辿った著者にして述べる

「宮崎自身が本当に面白いと思っていることを面白く書いたからであろう。」

と察する、氏がその人物に惚れ込んだ『雍正帝』に最も現れているようです。

その上で、著者が氏の著作に興味を抱いた点と同じような部分がある事を、本書から見つける事が出来ました。

私が中国史の本を読むようになったのは、実はかなり遅く30歳を目前にした頃。そのきっかけは中公文庫への収蔵が始まった『中国文明の歴史(全12巻)』の1冊、貝塚茂樹先生の『春秋戦国』がきっかけでした。宮崎先生の著作に触れたのも、このシリーズの9冊目『清帝国の繁栄』(と、同じタイミングで刊行された岩波現代文庫版の「論語の新しい読み方」)という、氏の論点が一般読者向けの筆致として存分に振るわれている作品。そのいずれにも日本史や中国史と言った枠組みによる視点、個別の歴史研究分野に留まらず、広く社会全般、行政や経済、個人史や芸術に至るまでに渡る通史としての広大な視野が備わっている点に強烈な印象と魅力を感じたのでした(その後、中公クラッシック『アジア史論』(絶版)を暫し座右に留め続ける事に)。

今年の始めにご紹介した非常に興味深かった作品の著者を含むグループが近年提唱されている「グローバルヒストリー」という視点。何処かでこれと同じような読後感を感じたなと思って、本書をめくっていると、やはり著者も同じような印象を以て、氏の世界史に対する視点を言及されている箇所を見つけて、思わず嬉しくなってしまった次第です。

既に古典の領域に入りつつありますが、あらゆる読書が好きで、歴史が大好きな方にとって、畏敬の念を抱きつつも、今でも身近にその著作を手に取る事が出来る、今読んでも唸らせられるその筆致の神髄が生み出された経緯とバックボーンを評伝として纏められた一冊。

歴史を生み出すのは、史実と共にそれを描く歴史家の筆致があっての事。その史実の推移を広範かつ独創的な視点で(時に強烈な方向性を有しながら)構築した、三つの世界から並立する世界史を生み出そうとした足跡を人物史として追う一冊。万人向けの内容ではありませんが、歴史を描いていくというテーマにご興味のある方には、きっと興味深い内容の筈です。

2015年に岩波文庫に収蔵された、出版当時にその末文に驚嘆を持った事を、当時の読者として改めて解説で述べられている点も愉しい『中国史(上下)』と、没する直前の枕元で、上がって来た目次の原稿を最後に微笑みながら確認したという、氏の論考が濃密に収められた『中国文明論集』。どちらも一筋縄ではいかない一冊ですが、思わずのめり込んで読んでしまう本達です。

地域の記憶と想いを繋ぐ場所から日本のシルクロードへと繋がる記録達を(北杜市郷土資料館と企画展「北杜に汽笛が響いた日」)2018.8.19

地域の記憶と想いを繋ぐ場所から日本のシルクロードへと繋がる記録達を(北杜市郷土資料館と企画展「北杜に汽笛が響いた日」)2018.8.19

毎朝、その日に合わせた内容で所蔵する資料の紹介をSNSで発信されている、国立公文書館さん。ある日、こんな内容の投稿をされていました。

すぐ近くにある施設で開催中の企画展の紹介を添えた所蔵史料の紹介。近隣に住んでいてもこれらの企画展の開催情報は広報(観れる方は限られる)以外で全く告知される事は無く、ローカルニュースででも扱われない限り、実はこんな形でしか知る由が無いという非常に情けない状況ではあるのです。

各施設に訪れると、ロビーにそれこそ溢れ出しそうなくらいに並べてあるフライヤーと称される、各展示施設が発行している開催告知が掲載されているパンフレット。実際にこれらのパンフレットを手に出来るのは、公共施設やごく一部の観光案内所に限られるため、多くは一般の地元民や観光客の方には全く知られる事が無いままに開催されて閉幕してしまうであろうという悲しい現実を、今回も再び見せつけられることになりました。

実に8つの町村が合併してできた北杜市。旧町村が収蔵していた文化財、史料再編成のために集約された資料館の一つが、旧長坂町の清春芸術村の向かい側に建てられたこの北杜市郷土資料館。旧大泉村の谷戸城跡に建てられた考古資料館とペアで運営されています(北杜市のHPは悪夢のような非階層パラレル分岐構造をしているので直リンクで)。

綺麗で立派な建物ですが、写真の左手に少し映っている低層部はバスケットコートを有する体育館、本館のスペース約半分も市民向けの貸フロアと、やや実が備わらない嫌いもありますが、北杜市の学術課も設置される、市民教育の中核施設として位置付けられています。

エントランスを進むと、この館のメインテーマを伝える、長坂町から八ヶ岳を望む、東山魁夷の第10回帝展入選作である「山国の秋(試作)」複製画が出迎えてくれます(本番作は逸失、実物は兵庫県立兵庫高校武陽会所蔵)。

本館1階部分に押し込まれるように作られた、山国の秋に描かれた民家を完全に再現したセット。

馬屋を取り込んだ土間から座敷に直接上がる事も出来ますし、備え付けられた調度品は資料館が収蔵した当時の物。建物自体は全くのフェイクですが、座敷に囲炉裏、馬屋や竃まで(絵馬や秋葉様の札が添えられているのはとても嬉しい)細部に至る丁寧な作り込みがされており、本館のテーマの一つである、昭和初期の生活環境を伝える教育資料として、とても良い出来だと思います。

前述のように1階は主に市民向けの貸しスペースで、展示のメインは民家のセットを望みながら階段を上がった2階。

3つの展示フロアからなる展示室のうち、2部屋が常設展示。入口側の「通史の杜」と題されたスペースは旧石器時代から前述の町村合併までの地域の歴史を時代とポイントを絞って紹介しています。

考古資料館の展示内容と重複しないように配慮がされていますが、やはり重複の感も否めないのは事実。一応、金生遺跡を軸に縄文から古代までの考古学的な解説と、谷戸城を軸とした中世、近世初頭までの解説は考古資料館、地域の外縁部と近世以降はこちらという役割分担が為されているようです。

本館のメインテーマとなる、地域における生活の記録を残す点で印象的な二つの国指定重要文化財の紹介と添えられた屋根の修理道具。厳しい気候と、近世における殆どの期間、甲斐一国は天領であったため、今に至る博徒風儀の荒っぽい気風が培われた一方、天領故の税率の低さから豪農が成長する余地が大きかったことの一端を、現存の建築物から垣間見る事が出来ます。

何枚かある展示パネルの中で、非常に興味深い解説が述べられている部分。

養蚕が盛んになる前、切妻造りの家作は麦藁、入母屋造りの家作は茅掛けという、自然環境と作物が家作と密接に関わってきたことを示す解説です。また、稲藁葺きが甲府等の低湿地に限られる点も、甲州に於いて稲作を中心とした農業生産性は非常に低かったことを暗示させます。

もうひとつの展示室は「産業の杜」と題された、近現代をテーマにした展示(当日は展示スペースの一部が鉄道模型を置くために避けられていましたが)。主に農耕関係の解説が中心となりますが、実際に使われた道具をじっくりと眺める事が出来ます。標高1000mに至るまで水田の開墾を進めようとした、先人たちの稲作に対する執念の軌跡も綴られています。

現在は梨北米というブランドを打ち立てるまでに稲作が普及しましたが、やはり峡北は馬の里。平安時代まで遡る馬と人の歩みが近代に至ってどのように変化したのかを解説していきます。

とても珍しい「馬の鼻ネジリ」と称される、馬の鼻に差し込んで捻り上げると馬が大人しくなるという、獣医(当地では伯楽と呼ばれた)が使っていた道具も展示されています。

高根町の鎧堂観音で初午(この行事、構内に祠を構える地元の施設や工場などは今でも行うのです)の際に売り出された、馬屋に貼る御札。東西で向きの違う絵柄が用意されてるとの事。今でも牛の御札は頂けるそうです。

そして、この資料館が本邦唯一であろう展示内容がこちらの「国産ホップ・かいこがね」開発の歴史と峡北におけるホップ生産から一旦の終焉までの歴史を辿る展示。

キリンビールからの委託生産により、昭和20年代の末まで、全国屈指の生産高を誇ったホップ。その中から生み出された突然変異種を系統選抜した「かいこがね」は東北地方に生産拠点を移しながら、現在でも国産ホップとして作り続けられている事が紹介されています。なお、展示ボードでは平成6年(1994年)に県内でのホップ生産が終了したと書かれていますが、図録にあるように、その後2011年に地ビール向けとしての生産を再開、自ら醸造まで手掛ける事を目指した就農者も誕生したことは、今年の春に全国放映された番組でも紹介されている通りです。

二つの常設展示室に挟まれた形になる企画展示室。

今回のメインである企画展「北杜に汽笛が響いた日」の会場です。

ゆったりとしたスペースに展示された史料。期間中入れ替えながら1点ずつ貸与展示される国立公文書館収蔵の貴重な史料を含めて目録では全164点の展示とありますが、うち約60点は直接の関連性が薄い鉄道模型や鉄道趣味者のコレクション(廊下側に展示)で、実際の史料としては100点弱の展示。ここで本館と本企画展の立ち位置を明瞭に示すのが、大多数の展示史料の所蔵が地元の個人に委ねられているという点です。

地方ではまだまだ多く残る、近代に至り名士と呼ばれた地元の有力者、名望家の子孫の方々が継承されてきた古文書、史料を地域の歴史を伝える一環として広く公開することも命題とする、本資料館の存在意義を存分に示す企画展示であると思えました。

今回の展示のテーマとなる、日野春から小淵沢までの鉄道ルートと周囲の交通路の3Dマップ(地理院地図+陰影図+赤色立体地図の合成で作成)展示のメインは、今年開業100周年を迎えた、本館の所在する長坂駅が何故、中央線開通時に設置された日野春、小淵沢両駅に遅れて開設されたのかを、中央線敷設の背景から説き起こしていく事。地元の請願書面や、開業前の測量図。新たに開拓された長坂駅近辺への入植に関する書面や開業に関する祝辞、祝電。地元有力者が残した書面などが豊富に展示されています。

中央線のルート選定自体に、当時の輸出産業の原動力であった蚕糸の一大拠点である諏訪と横浜への積み出しにおける集積地であった八王子を結ぶことを強く求められていた点はよく知られている事かと思います。

日本のシルクロードと言うべき、横浜から内陸の製糸工場へと向かう鉄道網。その中でも最大の物量を誇った諏訪の製糸を支える養蚕、繭の集積は全国から行われましたが、至近であった伊那谷や峡北からも鉄道を通じて集積を行っていた事が知られています。

旺盛な繭の需要に応えるために沿線農家の開発にも意を注いだ諏訪の製糸業者たち。釜無川沿いを通る旧来の甲州街道から、花水坂を通って七里岩台地の上を走る信州往還、その後の中央線への荷受け地として成立した日野春。江戸時代から続く番所が林立する国境の集落、信州往還の継宿として成立していた小淵沢からの集荷だけに飽き足らず、その中間に位置する長坂への信号場開設に便乗しての駅設置に資金面(地元清春村に次ぐ出資率)でも多くの援助を与えた事が史料からも把握されてきます。

展示室の中央に飾られた、Nゲージのジオラマとして組まれた長坂駅と、駅開設と共に拓かれた長坂の街並み(奥側が小淵沢方向、傾斜を下る手前側が日野春方向)。

現在はスイッチバックが解消されて、ジオラマの手前に走る本線上にホームが設けられていますが、現在でも保線基地として残存している引き上げ線の跡と現在は商店街に転じた、鉄路から離れて台地の縁に切り拓かれた街並みが明瞭に判ります。

 

同じ場所を地理院地図を利用した3D地図で。

勾配を嫌う鉄路は今でも人家の少ない丘陵の低い場所を縫うように伸び、駅が開かれた後に成立した集落は鉄路より高い尾根筋、旧来の集落や田畑は更に鉄路から離れた尾根の外側に広がっている事が判るかと思います。

主な出資者であった清春村(本館の所在地、手前下側の博物館マークが本館の向かいにある清春白樺美術館)の集落は大深沢川の深い谷筋の西側に広がっており、駅からはかなり遠くに位置していました。

鉄路から離れた村々と諏訪地方の製糸業者からの出資、請願によって開設された長坂駅。大正7年と言うやや遅れたその成立において、旧来の集落に鉄路を引き込む訳ではなく、むしろ現在でも住居がまばらな中央線沿線の開拓、その拠点としての人工的に拓かれた開拓地、人工集落としての長坂の姿が映し出されていきます。

今でも市の中核が何処にあるのか判らないと評される峡北、北杜市ですが、その遠因が長坂駅の開設の経緯からも見て取れるようです。市の中心に位置し、高速のインターと各県道、広域農道が交差する峡北の交通の要衝である長坂ですが、市政の中心は七里岩の東端、塩川沿いの須玉にあり、観光の拠点は小海線の起点で特急も多く停車し、高速のインターを併せ持つ北端の小淵沢。域内でも唯一、商店街と称せる規模の街路を持つ、纏まった居住地域が存在する長坂の成立が、旧来の村落の成立とは乖離した、駅の開設と不可分の存在であったことを改めて教えてくれます。

更に、長坂駅が養蚕の為に作られた事を雄弁に示す、駅と共に開設された、小淵沢と長坂の繭取引所の存在。取引所に集まる人々の便を満たすために商店が集積され、繭だけではなく、農村の女性たちを職工として諏訪方面に送り出す為にも大いに活用された事を示す、自宅に届けられた製糸工場が仕立てた臨時列車への乗車を指示する案内等も展示されています。

周囲を歩いても、養蚕の名残など全く分からなくなっていますが、歴史を辿ると、峡北の発展もまた養蚕と深く結びついていた事を知る事となった今回の企画展。

発掘史料に特化した考古資料館に対して、むしろ産業館としての側面で地域の産業や歴史に寄り添い、掘り起こしていく位置付けを明瞭に見せてくれた考古資料館と今回の企画展。

外部の者にとっても非常に興味深い展示内容。しかしながら、タイアップイベントなどが日曜日を中心に組まれているとはいえ、お盆休み中の土曜日の午後にも拘らず、約2時間程の見学中に入館された方は、私のほかに地元の老人の方1名のみという、大変残念な状況。広報活動についてはHP編成の悲惨さを含めて改めて懸念を抱きますし、添えられる展示解説の文章表現には首を捻る点も散見されますが、地元に徹した、地元の記憶を伝え繋げていく施設から更に発信できる拠点として活用されていく事を願わずにはいられません。