山里の緑(2018.5.14~20)

山里の緑(2018.5.14~20)

変わりやすい天気が続く5月。

夏を思わせる暑い日が来たかと思うと、翌日には掛け布団にしがみ付くほどに冷え込む朝がやってきます。

落ち着かない天候にも拘わらず、それでも山里の季節は着実に進んでいきます。

雑木林の緑が眩しく輝く、雨上がりの朝(2018.5.14)。

里の近くの圃場も田植えが始まって、水面には若々しい苗が綺麗に並んでいきます(2018.5.18)。

緑の絨毯が広がる甲斐駒を望む圃場。

麦秋を前に、青々とした麦の穂が風に揺れています。

甲斐駒をバックに青々とした麦の穂を。あと半月ほどすると刈り入れになります。

振り返ると雲が晴れた八ヶ岳。

午後の陽射しを浴びて若草色に輝く小さな麦畑。

眩しい日差しを浴びる、麦畑の向こうに聳える八ヶ岳。

山裾の緑も大分深まってきました。

西側に向かうと、空には筋雲が目立ち始めます。

八ヶ岳の上空は、高い高い青空。

谷戸に延びる水田の向こうに八ヶ岳を望んで。

薄雲に覆われ始めた西の空。

夕方にはどんよりとした曇り空になってきました。

 

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今月の読本「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)江戸の科学技術を育んだ技巧者ネットワーク列伝

今月の読本「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)江戸の科学技術を育んだ技巧者ネットワーク列伝

実質的には長く鎖国状態にあった江戸時代の日本。それにもかかわらず、幕府も各藩も、更には民衆ですらも開国後の急速な海外から流入する言語や文化、道具や技術に柔軟に対応したように見えます。享保の改革以降に禁書政策が弛められた成果が大きい事には論を待ちませんが、それらの書籍を使いこなし、実際に自らの力に変えていった多くの人々によって、その素地が培われていたはずです。

今回ご紹介するのは、珍しい切り口でその伏流の一端を伝記として語る一冊「江戸の科学者」(新戸雅章 平凡社新書)です。

まず、著者の珍しい経歴に驚かされます。ニコラ・テスラ(エジソンと直流/交流送電で争った人物、磁束密度の単位Tの元になった)の日本における顕彰活動を続けている方、およそ本書の執筆内容と異なるような感覚もありますが、時代背景的には同じ産業革命から近代工業が勃興する時代に生きた人物。チャールズ・バベッジ(階差機関の発明者)を扱った著作もある、近代初頭の工業技術に関して、造詣が深い方です。魅惑の付録が発売の度に大きなおともだちの心(とお財布)を鷲掴みにするシリーズのWeb版、学研が主宰する「大人の科学.net」に連載した記事に、登場人物を大幅に増やして書籍化した一冊。その人物選定には、前述の経歴がいかんなく発揮されています。

  • 関孝和
  • 平賀源内
  • 司馬江漢
  • 志筑忠雄
  • 橋本宗吉
  • 高橋至時
  • 国友一貫斎
  • 宇田川榕菴
  • 田中久重
  • 緒方洪庵
  • 川本幸民

出生年別に並べてみましたが(冒頭に年譜が付いています)、知らない人ばかりで、なんで有名なこの人が居ないのと首をかしげる方が多いのではないでしょうか。一方で、著者の略歴を踏まえ、その連載元のテーマをご存知の方であれば、納得の人選がラインナップされています。

その選定には学者や文人というより、むしろ技巧派揃いの職人列伝といった雰囲気が濃厚に漂います。内容のほうも人物伝と言うより「学研 おとな偉人伝」といった筆致で綴られており、時折称揚が過ぎたり、筆が上ずり気味なくらいにのめり込んで綴られる内容に、少し微笑ましくなってしまう事もあります。特に田中久重、国友一貫斎といった技巧派(からくり師)を扱った部分は特にそのような感触が強いですし、平賀源内や司馬江漢に対する技巧者を越えて先取りしすぎたプロモーター的な人物への強い情景、橋本宗吉の紹介に至っては、完全に著者によるオマージュで綴られます)。

個々の人物像に惚れ込んでいないとなかなか描けない熱のこもった筆致。それ故に、要所では突っ込んだ内容も描かれますが、全体としては読物風な内容に留まる点は致し方なところもありますし、表題だけを見て手に取られた方にはその人物選定を含めて物足りなさが感じられるかもしれません。

しかしながら、本書を通して読んでいくとある点に気が付かれるはずです。本文中ではテーマごとに並べられていますが、時代ごとに彼らを並べ、その書かれている内容、繋いできた知識、著作、人物関係を俯瞰していくと、幕末から明治に至るまで、綺麗に彼らの系譜が繋がっていく事になります。登場する彼ら一人一人が直接的に出逢っていた訳ではありません。現代より遥かに交通事情が悪く、情報伝達や出版事情に至っては雲泥の差があった江戸時代。僅かな伝手や人と人を繋ぐネットワーク、表現が良くないかもしれませんが「徒弟制度、学閥、閨閥」といった人の繋がりの中で脈々と受け継がれてきた技術や知識が、当時の学問的共通基盤、儒学をベースに普く彼らの中で行き渡っていった先に、明治以降の海外からの文化、技術の受け皿としての素養が育まれていた事がはっきりと判るかと思います。

彼らが活躍する源泉となる情報と文物のネットワークを構築し、先進的な思考を伝えるプロモーターとしての役割を果たした源内と、そのネットワークに学問と言う重み付を与えて、現代の大学制度に至る教育を通して技術者を生み出す基盤を作り上げた洪庵。その中を埋めていく、特異な技量と旺盛な好奇心、不断の努力で技術水準を上げていった江漢、宗吉、一貫斎、久重。学問的な素地を高めて、鎖国や言語と言ったハンデを乗り越える足場を築き上げていった孝和、忠雄、至時、榕菴。そして、現代の科学技術への橋渡し役を務めた幸民。

江戸時代を通じた、彼らが培った技術とネットワークの蓄積に思いを馳せるとき、どんな情報でも瞬時に集められる現代の我々が見失ってしまった本当の価値が見えて来る。本書の元となった「大人の科学」シリーズが標榜するテーマとも交差する、その原点を見つめ直す一冊です。

 

今月の読本「白神山地マタギ伝」(根深誠 ヤマケイ文庫)変わり続ける自然遺産の中を生きる過去と今を結ぶ一頁

今月の読本「白神山地マタギ伝」(根深誠 ヤマケイ文庫)変わり続ける自然遺産の中を生きる過去と今を結ぶ一頁

日本における世界自然遺産登録の先駆となった白神山地。そこは古くから山を生活の糧として生きてきた「マタギ」と呼ばれる人々が暮らす場所でもありました。

白神山地の北側、青森県の目屋に暮らしていたマタギ、故・鈴木忠勝氏は最後の伝承マタギとも称されますが、彼を死の直前まで取材し続けた、同じ弘前に生まれたアルピニストの著者による一冊の本がこの度、文庫に収蔵されて広く刊行されることになりました。

今回ご紹介するのは「白神山地マタギ伝」(根深誠 ヤマケイ文庫)です。略歴をご覧頂ければ分かりますように、著者は著名なアルピニストにして白神山地の自然保護運動の先頭に立って活躍された方。数多くの山岳関係の著作も有されています。

その中で今回、この作品が文庫化されたのは、ちょっとしたブームになっている山の伝承や怪異関係の本でヒットを飛ばした版元さん方針の一環だったのかもしれません。本書にもそのような物語が数多く語られていますし、特に白神山地の秋田側で聞き伝えられた内容については前述のシリーズとなる一作「マタギ奇談」と直接内容が重複する部分も含まれます。

では、本書がそのような「マタギ」の伝承を守り続けた方が炉端で語るような物語が淡々と綴られているのかといいますと、かなり様相が異なります。氏と同じ津軽出身者で、山歩きを熟知した著者に通じる思いがあったのでしょうか、著者の弁によると、兄弟や息子(マタギではありません)にすら語らなかったと称する、今は完全に失われた、山での生活や猟の姿を語る言葉を克明に汲み取っていきますが、本書のもう半分はそれとは異なる思いが綴られていきます。

全国的に見ても極めて稀な、2度にわたるダム水没に直面した地元の姿に対して、暗側面を突くルポルタージュが綴られる冒頭。マタギの伝承物語が始まるであろうと思う読者のややもすればファンタジーな想いを即座に挫くような内容から始まる本書ですが、表題と写真から手に取った、マタギ達に伝えられてきた山で暮らす人々の姿を彼らの言葉で語られると考えていた読者に対して、著者の経歴は単純にはそれを許さず、随所にこのような切り口の筆致を加えていきます。特に本書の冒頭と後半は、その表題とは異なる、別の一冊にも思えるほどに著者の白神山地そして、地元の山々やそこに暮らす人々への表裏を併せた想いを綴ります。

自然保護活動の先にやって来た、山での生活自体を否定する、保護という名のもとに行われる入山規制と彼らが残してきた山での暮らしの痕跡、杣小屋の消滅。「マタギ奇談」においても最後で語られる内容と同じことが、かの地を歩き慣れた著者によってより克明に、実態感を以て描かれていきます。山で暮らす人々が行き交うことで維持されてきた杣道の脇に立つ木々に刻まれた、自らが歩いた跡を示す痕跡。当たり前のように語られる、魚止めの滝の上流に彼らによって放たれ、その場所を新たな生きる場所として代を重ねて育まれ続けるイワナたち。山と麓の人々を繋ぎ現金収入の糧ともなった、正に「山師」たちと鉱山の存在を菅江真澄の踏破した足取と事績に乗せて綴る。メインのテーマになるであろう、クマを狩り、山に生きる姿自体にも、現在の我々が考える「狩猟」「ハンター」とは全く別の世界、流儀の中に生きていたと述べていきます。

ここで、著者は現在の「マタギ」という言葉自体への疑問を投げかけていきますが、本書で語られる鈴木忠勝氏自身も一時期サハリンに出稼ぎに出ており、著者はマタギの世界に入ったと綴る熊撃ちも、本来であれば父親のように何れかのマタギに弟子入りして伝えられるものを、自ら覚えたとされています。そのような意味では、本書で語られる彼自身の生き様も、刻々と変わっていく時代の中の一ページであり、著者が訴えかけ、帯に冠される「伝承マタギ」とはまた別の姿なのかもしれません。

白神山地を愛し、守ることに情熱を傾け続ける著者による、最後のマタギが残した言葉を借りて綴られる、奥深い奥羽の山々に生きる人の記憶を、そのままの形で今に繋げようと願う一冊。その想いと現実を伝える事は決して簡単な事ではないかもしれませんが、本書を手に取られる方にとって、さまざまに伝えられる自然遺産と其処に暮らす人々の姿に、もう一つの見方を与えてくれる一冊です。

 

緑の日々に(2018.5.11~12)

緑の日々に(2018.5.11~12)

例年になく春の訪れが早かった今年ですが、ここにきて少し足踏み。

水曜日から木曜日に掛けては、山では積もるほどに雪が降り、麓に住む我々でもストーブのお世話になるほど冷え込みました。

気温が3℃まで下がった、降雪翌日の朝。

田植えを待つ穏やかな圃場の水面に、南アルプスの山並みが映り込みます。

新緑と雪渓のコントラストが眩しい朝の甲斐駒。

標高950mとかなり標高が高いこの圃場。暫くの間水を張った後、水が温むのを待っての田植えとなります(2018.5.11)。

翌日、空は一面に雲で覆われてきました。

まだ日差しの残る昼下がりの野辺山。緑に染まる牧草地の向こうに、先日の降雪で再び雪化粧を施した八ヶ岳の稜線が伸びていきます。

標高1300mの高原地帯。海ノ口別荘地も新緑に染まりはじめました。秋の紅葉シーズンと並んで華やかに彩られるエントランス。

八ヶ岳の東側に廻り込むと、青空が見え始めました。

強い風に煽られる雲が流れていく、八千穂レイク。

標高1600mのこの場所も、周囲は緑に覆われてきました。

軽やかな新緑に包まれる森の中へ。

午後の陽射しを受けて輝き出す、八千穂高原の白樺林。

眩しい新緑に染まる白樺の木々。

新緑の軽やかな緑に包まれる森の中を辿る遊歩道を歩いていきます。

2年前の氷雪害によって一部がなぎ倒されて閑居地となってしまった白樺林。それでも、残ったミズナラの木の周りに白樺の新緑が見え始めています。

若々しい色に染まる落葉松の幼樹たち。

白樺林の中で、周囲の白樺を圧倒して枝を伸ばす一本の木。ミズナラのブナ子と名付けられています。

まだ芽吹き始めたばかりですが、遊歩道の中に置かれたベンチに座って、その姿に暫し見惚れてしまいます。

白樺の木々に包まれて花を咲かせる。トウゴクミツバツツジ。

この一本だけがいち早く花をいっぱいに咲かせていました。

午後の陽射しを浴びて咲き始めたトウゴクミツバツツジ。開花をしているのは園地の中でもほんの僅か。見頃はまだこれからです。

白樺林を抜けて、落葉松の新緑が続く小路を往きます。

日差しが戻って青空の下に伸びる、落葉松の新緑。

緑の光が差し込む落葉松の林内。

軽やかで陽射しを一杯に通し込む落葉松の若葉。

眩しい緑が森の中に溢れています。

傾き始めた午後の陽射しを一杯に受ける落葉松の新緑。

清々しい高原の風と溢れる新緑を満喫する午後。

麦草峠を越えて、八ヶ岳の西側に下って来ると、再び空は雲に覆われ始めました。

日差しが降り注ぐと少し暑いくらいの、例年より気温が高い今年。標高1000mを越える圃場でも一足先に田植えを始めた場所がありました。秋空のようなうろこ雲に包まれた夕暮れ。明日は天気が崩れそうです。

 

今月の読本「日本の砂糖近世史」(荒尾美代 八坂書房)憧れ続けた旨味を磨き上げる原点を南蛮貿易の先に追って

今月の読本「日本の砂糖近世史」(荒尾美代 八坂書房)憧れ続けた旨味を磨き上げる原点を南蛮貿易の先に追って

日本人の味覚にとって、甘みは旨味とも評されるように、醤油と塩がベースの調味料に対してコクと照りを与える砂糖は、その入手が難しかった時代から今に至るまで、ちょっとした背徳感(お腹周り…)を持ち合わせながらも、憧れ続ける調味料、味覚だと思います。

そんな味覚の王様ともいえる砂糖ですが、お店で一般的に売られている上白糖がほぼ日本固有の物である事をご存知の方はあまり多くないかもしれません。砂糖をいっぱい使うイメージがあるアメリカ等で一般に砂糖と表現されるのはグラニュー糖。上白糖はグラニュー糖より甘味が強いことが知られており、精製後にわざわざ未精製の原料糖を添加しています。そして日本固有の砂糖としてとくに有名な和三盆。こちらも真っ白なと表現されますが実際には遠心分離で蜜を飛ばすグラニュー糖には及ばず、やはり転化糖成分が多いことが判っています。

日本人が愛してやまない旨味のカギが、他の西洋諸国と少し異なる点を追いかけ始めると、実は日本における製糖技術の歩みが見えてくることになります。

今回ご紹介するのは、その足取りと、僅かばかりに残った当時の製法を海外にまで追った貴重な記録を合わせて一冊にまとめた「日本の砂糖近世史」(荒尾美代 八坂書房)です。

著者は大学で学術博士号を取得された南蛮文化の研究者。戦国末期から幕末の開国に至るまで、オランダや清の船舶で輸入される物資の多くが砂糖だったことはよく知られているかと思いますが、日本人が好んで購入した砂糖が、手間暇かけて精製した白砂糖より、精製の甘い粗糖や黒砂糖だったことが当時の貿易史料などから判ってきています。貿易相手のオランダなどにとっては安価な粗糖が高額な白砂糖よりはるかに高く売れるという、濡れ手に粟の構図が続く日本との貿易(だからこそ出島に押し込められてでも貿易関係を継続する価値があったとも)。もちろん日本にとって、特に貿易による銀の流出に悩む幕府にとって砂糖の国産化は是が非でも実現する必要がある重大テーマだったと言えます。

本書は、その砂糖の国産化にあたっての経緯を、主に幕府主導による国産化の先駆を担った、大師河原の名主、池上家に残った記録を軸に描いていきます。あの田村藍水(と平賀源内)が実際に試作を行った記録を含む、江戸時代中期から幕末にかけてのサトウキビの栽培から黒砂糖、そして和三盆に至る砂糖国産化の記録を丹念に追跡、鹿児島から幕府の手を経て、または民間で全国へとその製造方法が広まっていく足取りを史料で追える範囲で広範に辿っていきます。

この追跡過程で著者が疑問を持った点。黒砂糖についてはいずれも同じような製造方法で広まっていきますが、一方で白砂糖のほうは異なった様相を見せていきます。日本伝統の砂糖製造方法として紹介される、日本酒や醤油などの発酵醸造製品を作る際の絞り取りに使われる押し船を応用した和三盆の製法が確立する前段階。現在の遠心分離で蜜の成分を除ける方法を使わずに砂糖を白くする方法として、漏斗による重力で蜜を滴下させる手法と併せて、蜜を含んだ砂糖に土を被せると白砂糖が得られるという記録が出てきます。

俄かに信じられない、土を被せると蜜が混ざった糖蜜が白くなるという史料の記述。ここで著者は大阪、泉南という商業が盛んで温暖な気候を有する、しかも江戸時代に砂糖の生産が行われていたとう記録が残る場所における発掘成果から確かな証拠を得る事になります。縄文土器の深鉢の底を抜いてしまったような素焼きの土器。植木鉢にしては自立する事が出来ず用を成さないこの出土物を疑問に思った考古学者の相談を受けて現物を確認した著者は、遂に確信を得ることになります。これこそが糖蜜を重力で落下させる際につかう漏斗「瓦漏」に違いないと。しかしながら、出土物からはこの瓦漏と組み合わされたであろう土を被せたという証拠を得る事は出来ません。

著者のイメージが史料と発掘成果との間で交わる先に描かれる更なる物語は、南蛮交易のルートを追って海の向こうに飛躍します。著者の研究におけるスタート地点、ベトナム中部での調査旅行において、これら史料の内容および発掘成果とほとんど同じ砂糖の製法が依然として残っていることを突き止めます。南蛮文化研究者の面目躍如ともいうべき、当時の貿易から見いだされる砂糖の生産地であったベトナム(当時の交趾)。本書の執筆から19年を遡る当時、依然としてその製法を使い続けているという作業場で見せられたのは文献と発掘物にそのまま直結する内容。糖蜜を漏斗に入れた後、土を被せてその上から水で土を濡らして重力による水分の滲出によって蜜を鉢の底から抜き取って漂白する工程を目の当たりにすることになります。ここで著者は水分の滲出だけではなく、被せた土がからからに乾くまで放置し続ける点に着目して、藍水の残した実験の史料と照らし合わせた上で、毛細管現象によって蜜の成分が土に吸着されるのはないかとの仮説を述べていますが、当時のベトナムで行った再現例ではあまり上手く示せていないようです。

サトウキビを絞った目の前で煮詰め、漏斗に入れて、重力を頼りに何か月も放置して被せた土から染み出す水を使って蜜を抜くという手法自体、流石に現在はベトナムでも絶えてしまい、製法再現は不可能になってしまったようですが、その一方で従来の製法で作られた砂糖の風味をわざわざ再現する製品が根強く作り続けられていることを改めての取材で目の当たりにする著者。グラニュー糖に糖蜜を加えて擂鉢状の容器で溶かしてから改めて蜜を抜きながら固めるという、当時の製法の雰囲気までも再現して同じ名前で売られるドン・ムンと呼ばれる砂糖の塊。そのまま食したり、料理の材料として使われるようですが、そのこだわりを見ていると、日本人も上白糖という名称を付けて、わざわざ工業的に蜜を含ませた砂糖を日常的に使い続けているという事実を思い返してしまいます。

日本人が愛して止まない旨味を作り出すハーモニーが、当時の作り方から営々と私たちの舌を捉えて離さない点に少し驚きながらも、丁寧に探求された記録からその驚きの製法の原点にまで辿ることができる魅力的な一冊。版元さんらしくあくまでも史学として纏められた内容ですが、歴史が大好きで食にも興味がある方にはきっと楽しく読めるかと思います。

GW最終日の昼下がり、新緑の中で(2018.5.6)

GW最終日の昼下がり、新緑の中で(2018.5.6)

今年のGWも今日で終わり。

特に出かける予定が無かったGW後半。溜まった書籍を少しずつ読む日々でしたが、最後くらいはと、初夏のような眩しい陽射しの中、少し山の中に入ってみました。

すっかりと雪が少なくなった鳳凰三山。

今日は午後から風も強く、時折雲が流れる、お天気の変わり目を迎えたようです。

緑の森の中へ続く作業道。

新緑の中に誘われてみます。

新緑の若々しい緑の中を進みます。

新緑のアーチを辿る小路。

午後の陽射しを受けて色濃くなる落葉松の林の向こうへ。

瑞々しい緑を湛える落葉松。

芽吹きの緑が林の中で輝きます。

森を抜けると北の空からレンズ雲の群れが南アルプスへと下っていきます。

お天気が下り坂となってきた連休最後の日。明日は雨の予報です。

 

今月の読本「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)小一条院流から読み解く下向する武門の始祖が見せた姿

今月の読本「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)小一条院流から読み解く下向する武門の始祖が見せた姿

武家の本流として認識され武家政権の時代を通じて長く伝説に彩られる、清和源氏の嫡流とされる河内源氏。その中でも家名を大きく上げる事になった前九年の役の一方の主役となる源頼義は、その息子である源義家と共に日本の歴史の中でも特に英雄的に扱われてきた人物かもしれません。しかしながら、彼が実際に活躍した記録は極僅かしか残っておらず、その内容も後世の脚色が極めて強い英雄譚的な内容に終始するようです。

今回ご紹介するのは、そんな伝説に彩られる人物の姿を改めて見直そうという趣旨で綴られた一冊です。

今回は刊行から半年以上経って漸く入手and読む事が出来た(お休みに感謝)、「人物叢書 源頼義」(元木泰雄 吉川弘文館)のご紹介です。

著者の元木泰雄先生は、数年前に中公新書から「河内源氏 頼朝を生んだ武士本流」という書名で、今回とほぼ同じようなテーマの本を出されています。従って、当該書籍を読まれた方には、かなりの部分で内容が重複しているかと思いますし、本書に於いても、その史料的な限界から一書として成立する事が難しいと考えたのでしょうか、前著同様に始祖となる源経基から書き起こし始め、幕府を開くことになる頼朝までの河内源氏一党の物語の中核を担う人物としての頼義を描いていきます。

どちらかというと中央政権、王朝国家側の視点に立った武家の成立過程を綴る著者ですが、特に東国における源氏と平将門の乱における賞典を享けた、またはそれに対抗した一族との関わり合いの過程について、本書ではその論拠を補足し史料面での不足を補うため、当該分野における専門家である野口実先生の研究成果及び著作を随所で引用することで、双方の視点を重ね合わせて議論を進めていきます。

その結果、本書では伝説に彩られる彼の物語に著者独自の解釈が与えられます。実質的な河内源氏の開祖と見なされる父親である頼信の嫡男ではあったが、官位については中央での公家社会の中で位階を進め、立て続けに受領を務めた弟である頼清に常に後れを取る苦しい立場であった事。東国の武士たちを従える原点と見做されてきた平忠常の乱における源氏の位置付けも、追討使としての立場を降ろされた平直方と頼信が反目している、ないしは中央での勢力争いを二人に加担させる形で東国の乱に持ち込んだように述べられる見解に対して、二人とも藤原頼通の家人であることに着目し、私戦とも見做された忠常と直方の抗争を収拾するために二人が連携した上で、頼通によって甲斐守に補されたと見做していきます。このような視点に立てば、直方がその恩義に対して頼信の息子である頼義に自らの娘を娶らせた事を、伝承的な内容が極めて濃い東国在陣時の事績に言及せずともきれいに説明できることになります。

その上で、著者は河内源氏一党がその後も固執を続けることになる北方地域(陸奥、出羽)について、非常に興味深い議論を展開していきます。平忠常の乱鎮圧における賞典としての小一条院の判官代への頼義の補任(ここで弟である頼清は乱の終結を待たず安芸守に補任されています)。敦明親王と呼んだほうが判りやすいかと思いますが、道長によって皇位への道を閉ざされ不遇のうちに過ごしたとされる人物ですが、近年の研究ではそこまでは貶められていなかったと見做されるようになっています。その一因として、著者は小一条院とその母系が歴代の陸奥守に繋がる点を指摘し、その権益を保持、道長にしても院の基盤としてそれを許容していたのではないかと見做してきます。鎮守府将軍、陸奥守そして秋田城介という北方の顕官。平将門の乱から発するこの権能の行方、すなわち貞盛流と良文流の桓武平氏、藤原秀郷とその一門、更には河内源氏として家祖経基の系譜を継ぐ頼義の交点に、著者は小一条院の家系を見出していきます。その中でも後の摂関家に直接繋がる家司の系統に属し、尚武の気風を小一条院に愛されたとする、王朝国家の外護者の家系に連なる頼義。著者はその想いを、院が手元に置いておきたくて永く受領への任官を留めていたのではないかとまで評します。

そして北方での権益を継承すべく相模守補任から前九年の役へと続く東国での活躍。ここで著者は近年の研究成果を踏まえて武家の祖、英雄としての頼義像を否定した姿を描いていきます。既に多く述べられているように彼の率いた武士たちは一騎当千とはいいながら、物量的には極めて限られた戦力に過ぎず、当時の受領、押領使、鎮守府将軍がいずれもそうであったように、在地の国衙軍制を以て戦力を整える、在地勢力の戦力に大きく依存する存在であった点を明確にしていきます。著者は有名な黄海合戦において最後まで付き従った従者たちの素性を明らかにしながら、彼らが所謂受領郎党と目される一群の軍事貴族の末葉や根拠の河内における累代の郎党達といった、河内を基盤に畿内そして京において蓄積してきた勢力に基づく戦力であったとの認識を改めて示します(美濃については長く源氏同士が勢力を争う地であったと指摘)。坂東の精鋭が頼義の武威を慕って雲霞のように参集したという伝説を虚構と明示し、安倍貞任が追い詰められて逼塞する事になる頼義をそれ以上追い落とさなかった理由を、受領故に中央の視線を配慮して敢えて回避したとまで述べていきます。

完全な負け犬とも見做され、伝統的な武威すらも失墜させた頼義。それでも彼が陸奥を離れず、最終的には離任ぎりぎりになって清原一族の支援(実質的には家人として屈して)を得て戦い抜く結果となった点について、著者はその後の彼の動きから検討を加えていきます。父親である頼信同様に在地の勢力に心服されることを願いつつも、彼らの勢力争いに首を突っ込むことで戦闘を開始する事になった頼義。自前の戦力が乏しい京から赴く彼らにとって、戦闘を続けるためには何よりも在地の勢力を懐柔し彼らが欲した名誉と勢力の保護を叶える権門への窓口となることを強く要請される立場にあった事を見出します。良く知られるように、前九年の役終結後、栄典禄としては最も高い富裕の地である伊予守に補任される一方、叱責を受け、自らが北方で膨大に積み上げた(巻き上げた)財貨でその受領の貢納を代弁してまでも、凱旋後は京に踏み止まり続けます。そこまでして役で支援した東国の武士たち、受領郎等たちの栄典を獲得する事に奔走する事になったのは、正に彼らの要望の受け皿としての立場(≒武家の棟梁)を任じ続けた結果であり、後に継承者を自認する頼朝の御家人政策を重ね合わせると、その権力の源泉と基盤が明瞭に浮かび上がってくるようです。

最後に綴られる河内源氏のその後。ここで著者は白河院が源氏同士を争わせて勢力を削ぎ、一方で平家を持ち上げたとする従来からの説に明確な否定を示す一方、彼ら河内源氏、更には源氏一門側の事情からその遠因を辿っていきます。頼義の弟で四位まで官位を進め、最後は大国である肥後守として在任中に没したとみられる頼清の姿を重ねながら、軍事貴族として王朝国家の尖兵であるうちはよいが、政権内部に踏み込むような地位に進む、武門としての家から外れると俄然、失脚、淘汰の対象となるという印象を強く漂わせて筆を置いています。

武家の祖を称揚するような内容を期待して読まれると、失望に次ぐ失望という感に苛まれ続ける内容かもしれませんが、これらの歴史的な流れの先に頼朝による武門の掌握があったと見ていくと、その経緯は非常に興味深く、後の世でも武門を掌握せんと考えた武士たちにとって反面教師的な立場を独り演じ続けていたとも感じさせる内容となる一冊。

著者が要所で参照を明記されたように、「河内源氏」を追う様に刊行された、頼義の息子である八幡太郎「源義家」(山川出版社 日本史リブレット人022)においては、逆に本木先生の研究成果を大いに参考にしてと述べられています。王朝国家から見る尖兵としての武門の姿と、東国武士から見る権益を取り持つ武門の棟梁という双方の視点を重ね合わせて読んでいくと、色々と見えて来る事があるかもしれません。