今月の読本(特別編)「北大総合博物館のすごい標本」(北海道大学総合博物館:編 北海道新聞社)その赤いリボンとスタンプが指し示す万物の未来地図。リアルの博物館が培う300万の知と情熱の結晶から

数年に一度、岡谷、笠原書店本店さんに巡回してくる、全国の地方新聞社が刊行した書籍を集めた「ふるさとブックフェア」。開催ご当地となる信濃毎日新聞社は、年初には松本の自社ビルのロビーでも各社の朝刊を大きな平台で並べて展示する事もあるように、地方新聞社の連携にも積極的な社。出版事業の方も独自の出版部を構え、連年多数の作品を刊行している信濃毎日新聞社ですが、このようなフェアが開催される時も積極的にPRをされているようで、各新聞社ご自慢の一冊を取り上げて紹介されていました。

これまでより少し冊数が減ってしまいましたが、大判の写真集から学術書に迫る図鑑類、地元の歴史や食、農業に関する本、ちょっと多めに揃えられる「鉄」系の書籍たち(選書担当者さんの嗜好が映りますね)。

日曜日で会期は終了してしまいましたが、会期末に岡谷に立ち寄った(ほぼ毎週行っているでしょう…)際に、此処で買わねば次はn年後と、意を決して最後に買い増しした美しい一冊。

北の雄、北海道新聞社さんは雄大な北海道の大地をテーマとした自然関係、内地のファンの方々憧れの鉄道風景、そして豊かな森、川、海の生き物をテーマにした数々の作品を刊行されていますが、そのなかでも異色のテーマ。

既に同じようなテーマの本も刊行されていますが、こちらは研究者達が結集して描く「総合博物館」の標本たちを集めた一冊。

今回は「北大総合博物館のすごい標本」(北海道大学総合博物館:編 北海道新聞社)をご紹介します。

本書は、一見してコンパクトな標本写真集のように見えますし、「すごい標本100選」というサブテーマも掲げているので、表題だけを見ると、手に取りやすいレトロ趣味の標本写真集と捉えられてしまいそうですが、それだけでは内容を見誤ってしまうようです(フルカラーですので、お値段も決して安くはありません)。

明治以降、北の大地を目指した様々な研究者と研究テーマ。世界的に見てもフロンティアであった北海道に学術研究という種を根付かせることを願った研究者達が様々な形で訪れ、集う先に集積され、現在の形となった北海道大学。その場所に集った研究者たちが遺していった、今も増え続ける300万点にも及ぶ整理済み・未整理の標本、発掘史料(資料)、アーカイブ、学術資料。

建物自体も築90年という文化財、寒冷地に於ける近代建築の「生きた標本」ともなる旧理学部本館に拠点を置き、20年を掛けて道内各所に分散する北大の研究資料を徐々に集積しつつある、北海道大学総合博物館

その集積、整理の中核を担う、博物館教育、メディア研究を専攻される、同博物館の湯浅万紀子教授が編集を担当し、各分野の教授陣が筆を執り、これぞという標本、その意義と歴史的背景を綴っていきます。

まだ未踏、未分類であった北海道の動植物の姿。本州とは大きく異なる北方の大地に生きた人々が残し、伝えてきたもの。今では訪れる事が困難な旧帝国時代の領土となる樺太、千島、そして朝鮮半島で採取された標本。更には、北の大地に集った研究者たちが世界を巡り集め、逆に世界に北海道を広めた標本の片割れたち。採集する姿を記録した写真や映像、スケッチ、研究を広く社会に伝える科学映画の萌芽を示す作品。そして、研究に欠かす事の出来ない「機材」たち。

ページ数の都合もあり、僅か100点ばかりが紹介されるに過ぎませんが、そのいずれもが科学史にとって深い意義のある物。掲載された標本は、単に古い標本だけではなく、特に今回の執筆にあたって改めて研究者の方により確認された内容も含まれており、標本という存在が、カビとホルマリンの匂いに包まれた、もはや日の当たる事のない、古びた過去の記録ではない事を教えてくれます(このありふれた表現こそが誤解なのです、保管環境は最も大事)。

実物が標本として収蔵される博物館。その存在を雄弁に示す事柄として、著者たちが示すキーワードが「タイプ標本」。

世界にとって永遠のフロンティアであり続ける、人の侵入を容易には許さない極北の大地と、世界中に飛び出した北大の研究者たちが現地から集めてくる標本。その中には表紙の写真のように赤いリボンが結ばれた瓶や、標識ラベルに赤い[TYPE][TYPUS]のスタンプが押された標本が含まれています。

分類学における種の分化、その最終判断を物理的に証明する「タイプ標本」。実に13000点のタイプ標本を擁する、世界の分類学に於ける一大基準標本を擁するアーカイブこそ、北大総合博物館が内包するもう一つの姿。

映像技術や情報伝達技術が飛躍的に進化し、分類学に於いても物理的な接触なしに研究や同定を進める事が出来る点は、既に多く指摘されていることかと思います。然しながら、最後に同定するために避けては通れない「実物」との比較。実物があってこそ、その比較が証明できる、研究者自らも、自らの目と手でその差異を納得する事が出来る。リアルの博物館が有する力の源泉、編者達は実物こそが語りだす姿を改めて見つめていきます。

このような書き方をすると、もはやVRや高精細画像によって人間の視認を超えた判断が出来るのだから、わざわざ実物を見る必要などないのではないか、それは単なるノスタルジーではないかと思われてしまうかもしれません。確かに一面的にはその通りかもしれませんし、我々のような一般人が普段見ている博物館の展示物、標本であればそのようにヴァーチャル化する事も難しくないのかもしれません。

それでも実物の標本を集め、整理し続ける事が是が非でも必要な事実。急激な情報伝達手法の発展と同期するように、急速に発展を遂げている化学分析。これまでの視認による判断や解剖学的知見、分類学が培ってきた膨大な分類手法は近年生み出されてきた新たな分析技術により、刻一刻と、見直しを迫られています。その見直しは自然科学のみならず、考古学や一見無関係とも思われる文献史学といった人文学分野にまで及んでいます。

自然科学分野の根幹をなす分類学、その基準を示す「タイプ標本」。新たな分析技術で把握された分類、新種を最後に確定させる決定打となるのは、そのタイプ標本(もしくはパラタイプ)の切片を同じ分析手法を用いて確認すること。実物で証明できることを唯一保証する、リアルな標本が有する無言の力、その意義を強く訴えていきます。本書ではその同定過程の一端を教えてくれると共に、分析技術を支えるもう一方の役割、学芸員や大学の技術職、ボランティアの方による、標本の分類、作成、資料化の手法(職人芸的なお話も)と、それらに使われる道具類のちょっとしたお話についても、コラム形式で描かれています。

歴代の北大研究者の中で、標本の採集と収集に意を尽くした研究者たちへの敬意を表して、彼ら全てを「博物学者」と捉えその事績を評する、コラム形式で掲載される列伝に綴られる思いを受け継ぐ博物館所属の研究者たちが集った一冊。

表の博物館の姿、存在意義に強い逆風が吹く中、博物館が培ってきた、自然科学の底辺を支えてきた「本当の姿」、その意義を美しい写真と共に雄弁に伝えてくれる一冊。およそ300万点にも及ぶ標本、寄託された分を含め、実際にはどれだけの数があるか把握できず、岩石標本のようにその希少性から分類に供する事(破壊確認を伴う)すら憚り、未整理となっている膨大な標本と日々向き合う50名のスタッフと250名のボランティア、市民から選抜された39名のミュージアムマイスターに委ねられた、未来への知の箱舟、その断片を美しい写真と共に。

巻頭辞として添えられた言葉への想い。

いち、博物館好きとして、伝わる事を願って。

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