山里の養蚕から精密機械へ、世界に羽ばたくシルク岡谷の過去と未来を繰糸機が紡ぐ場所で(岡谷蚕糸博物館)

山里の養蚕から精密機械へ、世界に羽ばたくシルク岡谷の過去と未来を繰糸機が紡ぐ場所で(岡谷蚕糸博物館)

雨混じりの雪が降り続く1月終盤の週末。

大きなショッピングセンターがあるため、買い物では頻繁に訪れるのですが、観光名所や各施設、旧跡を訪れる事は稀な岡谷。

今までも、数限りなくその横を通過していたのですが、どうしても寄るタイミングの取れなかった場所に、漸く訪れてみました。

今も駅周辺に大きな倉庫や工場が点在する岡谷中心部に続く場所にある、少し古びた工場といった建屋の外側に、往時の外観をイメージしたパネルを取り付けたエントランスが出迎えてくれる市立岡谷蚕糸博物館

2014年に旧岡谷蚕糸博物館から当地にあった旧農林省蚕糸試験場岡谷製糸試験所の跡地に移転して出来た施設。副名称として「シルクファクトおかや」と命名されています。

旧博物館の扁額筆跡を引き継ぎ掲げられる、館内ロビー。

館内は大変美しく整備されていますが、その根底には、地元製糸業、精密機械製造業関係者の拠出によって作られた旧施設からの伝統が深く息づいていることを示しているかのようです。

手前にあるミュージアムショップを含めて、この場所までは無料で入館する事が出来ます。

当館は2014年に再オープンした新しい施設。

古い公立の施設では職員の方に伺わないと良く分からないことが多い撮影規定に関しても、このような形で細かく説明がなされています(原則撮影OK、SNSを含む非商用の個人的な公開も可能です)。但し、本館は非常に特異な一般企業の工場施設をその館内順路に取り込んでいることもあり、肖像権に触れるような個人が特定できる撮影は行わないよう配慮が求められます(もちろん撮影される従業員の方が不快に感じるような撮影は厳に慎むべきです)。

館内の展示は、収蔵品を多数集積し解説ボードに詳細な解説を列挙するという旧来の公立博物館から大きく飛躍した、ビジュアル面での工夫を凝らした大きな解説ボードと少なく要領を踏まえた解説文章、少数の的を絞った展示物という、近年の博物館展示のメソッドに則った方式が採られています。

冒頭は養蚕の歴史から絹糸生産に至る工程を解説するフロア。養蚕自体については本ボードのみと簡易な展示内容となるため、より詳細な内容を理解するためには別途の学習が求められそうです。

絹糸で織られたカーテンを用いて区切られる展示区画。

第二の展示フロアは、その特徴的な製糸業の推移をグラフと写真で織り込みながら示す、製糸業の発祥と現在までの物語。

こちらの博物館にとってお宝ともいえる一品。富岡製糸場から移されてきた、現存唯一のフランス式繰糸機。富岡製糸場が後の片倉工業により運営されていた時代、当主であった三代片倉兼太郎の手により、創業地である諏訪に移されていた(片倉館のとなり、現在の諏訪市美術館)一台。その後、岡谷市に寄贈されて現在の博物館に至るという、数奇な運命を辿った製糸業の生き証人ともいえる一台。長野県宝、機械学会が認定する、本館所蔵の機械遺産の中核を成す一台でもあります。

奥の方に、諏訪の製糸業飛躍の牽引車となった、同遺産を構成する諏訪式繰糸機も見えていますが、この博物館が製糸機械の生きた収蔵庫でもある事を雄弁に示す(実演可能な復元機も用意されています)、本邦唯一の貴重な展示物です。

歴史的な解説の区画を抜けると、本館のメイン展示物が並ぶコーナーへと向かいます。シルク岡谷、「糸都」を称した岡谷の地を歩んだ、製糸機械たちが並ぶコーナーです。まずは機械化以前の製糸道具たちの展示。

養蚕や製糸自体は、前近代に於いても行われていましたが、その姿は農業の副業としての様相が大きく、手仕事の範疇を越えなかったようです。

それでも近代の足音が聞こえてくる幕末期に入ると、こちらにあるような木製の歯車式、奥に見えるはずみ車などを用いて巻き取り速度を引き上げる、効率化・機械化の足音が聞こえてきます。

そして、フロアの壁いっぱいに並べられた歴代の製糸機械の数々。

ここでとても興味深かったのが、海外からの輸入に頼っていた製糸機械の国産化と効率化の歩みの中に見られる、日本人ならではの改良への情熱と入手しやすい素材への入れ替え。

筐体は安価で製作が容易な木製に、蚕の繭を煮沸し糸を取り出す際に用いられる湯釜や繰り出した糸を通すガイドには鉄や銅といった金属製ではなく陶器が使われていきます。

これらの釜へ熱湯を送るパイプ類も国産化当初は竹を用いていた部分があったようですが、流石にバルブと共に金属(鋳物製、これらが諏訪のバルブ工業を生み出すきっかけに)が使われるようになりますが、湯釜の方は長く陶器が使われたようです。

繰糸も動力を用いるようになりますが、最初は水力。その後は蒸気、更には発動機による電力へと移り変わっていきます。その中で繭を煮沸することから熱湯を多量に用いる必要がある製糸業では、前述のバルブ産業を生み出したように、蒸気とそれを生み出すボイラーとの関わりが非常に深く、こちらのようなスチームエンジンも登場します。

最初は少数の糸を人手で繰り込んでいく製糸機械ですが、膨大な需要は必然的に機械化、効率化を呼び起こす事になります。

比較的単純な機構だった製糸機械が複雑化の過程を進むきっかけとなった多条式繰糸機から、人手による糸継ぎを置き換える鍵となった繭の供給と糸の繰り入れを自動化する給繭-接緒装置、糸の太さを均一に保つための繊度感知装置の開発成功による自動化への歩み。

これらの装置開発、生産の過程に於ける部品の製作、機構部分の改良、更には繊細で極細の絹糸を機械的に扱うための微細な加工部品への要求。それらすべてが、現在の諏訪地域に於ける精密機械産業勃興の揺りかごとなっていた事が分かります。

現在、岡谷蚕糸博物館では製糸業と諏訪の精密機械産業との深い繋がりを示す企画展が開かれています。地元各企業の協賛で集められた、自社の技術や製品の推移を示す展示物たち(私自身は協賛各社の関係者ではありません)。

とても興味深い、昔の繰糸機で使用された部品の数々。

これらの部品は消耗品でもあり、膨大な製糸機械を扱うその産業の裾野には、数多くの装置を動かし、生産に携われる方々と材料となる蚕を育てる方々。装置を維持しそれらの資材を作る人々がいた事が把握されます。

諏訪湖の周囲に集まった、製糸機械に付随する機材の生産、開発に携わった企業。そこで働く人々の情熱と深い探求心が、数々の装置の自動化と複雑化を成し遂げてきたことを示す一例。前述の接緒装置に用いられる部品、試行錯誤の姿。現在のコンピューターシミュレーションや3D-CADもなかった時代、極細の絹糸を絡み合わせる最適な形状を探求し続けた拘りの姿が伺えます。

そんな拘りは最新のバイオテクノロジーにも。信州大学の研究に協力するために開発された、黄金の糸を吐くジョロウグモの糸を繰り取る、ポータブル糸巻取り機。蚕の糸以上に繊細なクモの糸を見事に巻き取っています。

先程からご紹介していた、諏訪の製糸業と切り離す事が出来ないもう一つの産業。ボイラーの蒸気、熱水を適切に分配するためには欠かせない「バルブ」。世界的なバルブメーカーを生み出した原点を紹介するコーナー。

そして、東洋のスイスと称された、諏訪の精密機械工業の花形となった企業群。

その中には既に事業を縮小、転換した企業も含まれています。屋台骨であった製糸業が衰亡した後を追うかように、諏訪の精密機械産業自体も低迷を続けている中、その歴史を伝える展示品たち。

今回訪れようと思い立った、戦中の疎開で岡谷へと移転してきた高千穂光学、現在のオリンパスの足跡。

工場自体は辰野へと統合された後も、国内での民生用光学機器製造を継続している数少ない企業でしたが、報道等でも伝えられるように、昨年末を以て世界的なブランド確立する立役者であったカメラ事業から撤退、これで諏訪に所縁のあった企業は全てカメラから撤退してしまった事になります。

高い精度を手ごろな価格で誰にでも。凝縮した精密感を具現した、展示されているOM1の前で暫し、佇みながら。

博物館としての展示は此処迄ですが、冒頭にも述べたように、当館は旧農林省蚕糸試験場岡谷製糸試験所が所在した場所。

その敷地内に設置してあった検定用の製糸機械をそのまま流用し、岡谷に残る宮坂製糸所を迎え入れる形で、生きた製糸工場の生産風景を博物館展示に取り入れる動態展示の手法を用いた、公立で運営される産業系博物館として大変画期的な施設。

注目を浴びるのは、もちろん人手で繰られる諏訪式、上州式の繰糸機を操られる工員の皆様ですが、現在の製糸産業の姿を国内でほぼ唯一見る事が出来る、現役で稼働する自動繰糸機が見られる貴重な施設(工場)でもあります。

実際に稼働状態で展示されるニッサンHR-Ⅲ型自動繰糸機。

1976年に日産自動車(当時は繊維機械事業部が存在したのです)が製造した現役の繰糸機にして、輸入技術から始まった繰糸機の歴史に於いて数多に派生した自動繰糸機のほぼ全てを淘汰した(シェアは95%とも言われる)完成形としての1台。訪れたのが土曜日だったので、実際に生産には用いられていませんでしたが、繭を入れたコンベアが回転する様子を見る事が出来ました。

複数の繭から引き出された糸が巻き取られていく複雑な機構。

効率化と自動化を進める粘り強い改良の歴史が全て刻み込まれたメカニズム。日本の製糸業を牽引し続けてきた機械化と自動化ですが、大変悲しいことに現在、国内で商業ベースの製糸を行っている企業は僅かに2社が残るのみとも伝えられています。

そのような中で、製糸を続けているこの場所。

工場の一角ではこちらのように蚕の種類や野蚕の紹介。絹を使ったランプシェードの製造過程の解説、更にはオリジナルの絹製品を展示、販売するショップも設けられています。

諏訪の近代を牽引してきたシルク岡谷の灯を消さないために、博物館と一体となった活動が続けられています。

シルク岡谷の灯はこんなところにも。ミュージアムショップで販売されている、世界最高の回転時間を誇るNCで削り出して製作された精密コマたち。こちらのお土産で購入したコマは僅かに直径10mmですが、SUS303の棒から削り出されたそれは、握り手の部分にちゃんとグリップが彫り込まれ、エッジは滑らかな面取り。回転を生み出す美しい円錐によって、その極小なサイズには似合わない驚くような安定感を備え4分以上の回転時間を誇ります(チャンピオンモデルは実に11分以上の記録を持つと)。

これもまた、製糸業がもたらした繊細な絹糸を扱う機器に用いるために磨き続けてきた機械加工技術と、その拘りが生み出した一品。

その気風と意気込みを伝える展示も館内には用意されています。

江戸時代の養蚕から発展した岡谷市とその産業を顕彰するコーナー。時代ごとに解説が書かれたゲートに展示台と棚がセットされるという、ちょっと珍しい展示レイアウトを取り入れています。

所々に空虚な部分もある展示棚ですが、興味深い内容も。

岡谷の町中を歩いていると、窓のない建屋とがらんとしたスペースが点在していることに気が付かれる方もいらっしゃるかと思いますが、全国から集められた蚕の繭を貯蔵していた倉庫とその跡地。現在でも町中に倉庫や貨物の集積所が残る事自体に驚かされますが、当地は古くから列島を縦横に結ぶ街道が交差する場所。港町が主体と思われがちな倉庫、通運業もまた、諏訪で発展を遂げた産業であることを教えてくれます。

そのような往年の姿は、現在でも岡谷市が広報などで使用する、昭和11年の市制施行を記念して翌年に刊行した、鳥瞰図絵師、吉田初三郎の名品として知られる「岡谷市鳥瞰図」でも確認する事が出来ます(ミュージアムショップで復刻版を購入できます)

養蚕を梃に、製糸業の発展とたゆみない機器の改良を支えたものづくりの力で世界へ飛躍を果たした岡谷。その歩みと心意気と繰糸機を通して未来へと繋げるために生まれ変わった、生きた博物館。

現代的な展示スタイルを採るため館内の解説は少なめですが、それを補う工場内で実働する繰糸機たちの姿と、展示目的を解説する、大変豪華で詳細な展示解説書「シルク岡谷 製糸業の歴史」も合わせて(中学生から高校生でも充分に理解可能な内容です)。

畏敬と強い思いが宿るその場所で、時を刻む物語の断簡を(茅野市神長官守矢史料館と企画展「戦国武将からの手紙」)

畏敬と強い思いが宿るその場所で、時を刻む物語の断簡を(茅野市神長官守矢史料館と企画展「戦国武将からの手紙」)

お天気が優れない秋の週末。

カメラをお休みして、ふと空いた午後のひと時。以前から訪れてみたかった場所に向かいました。

小雨に煙る守屋山の山懐、茅野市高部。

個人の旧宅のような門を潜ると、緑に染まる庭と小さな社叢が見えてきます。

守屋山に抱かれた静かな庭園と奥の石垣を覆う木々。

実りの秋を迎えて、丁度、栗の実が熟した頃。

訪れた方が置かれたのでしょうか、社叢の奥にある祠にも栗の実が並べられていました。

振り返ると、独特な外観をした建物が建っています。

今日は茅野市神長官守矢史料館に訪れました(2020年10月5日現在、茅野市HPの紹介ページは削除されており、閲覧する事が出来ません。今回の企画展に関する告知も閲覧不可です)2020.10.11訂正:現在はリンク先に接続可能です。

中に入ると皆さん驚かれるであろう、独特な感触を持った土の壁に飾られた動物たちの神饌。

現在も続く、諏訪大社上社前宮で行われている御頭祭。江戸時代に行われていたとされるその祭祀を再現した展示です。

現在も春に行われている、一日だけ諏訪大社の上社本宮から前宮へ神輿が移される御頭祭。諏訪大社で執り行われる神事の中でも古い形式を未だ保ち続ける特殊神事。この神輿も高部の公民館に並んで立つ、神長官守矢家の前を通ります(2012.4.15撮影)

諏訪信仰のお話も大変興味があるのですが、今回は、今年の夏から今週末まで開催されている企画展「戦国武将からの手紙」を拝見に来ました。

館内の奥まった場所にある小さな展示室。

普段は守矢家が所蔵する古文書や考古資料、発掘資料などが展示されているそうですが、今回は企画展中という事で関連する史料のみの展示。

全部で十五点の書状が展示されていますが、いずれも名の知れた武将たちが諏訪社の神長官であった守矢家の当主に充てた書状(翻刻と解説は掲示されていますが、読み下し文はありません。印刷資料は頂けるので、見比べながら内容を理解して頂きたいと思います)。その多くが礼状なのですが、発給者の広範さに驚かされます。諏訪社が広く東国の武将たちから崇敬を集めていた事は良く知られていますが、時は戦国。群雄が競い合い、お互いを牽制し合っていた中で微妙な立ち位置にあった、固有の強力な武力を持たない神長官(当時の書状では神長)。武田家を始め、北条、村上、越後の上杉(長尾)、更には梁田高助を介しての古河公方、足利晴氏とも繋がりを持つという広範な結びつき。特に取次を務めていたと思われる、養家となる藤田氏の時代からの繋がりを有する北条氏邦の書状は、その流麗な筆跡と格の高さが分かる書状の形態からも、かなりの敬意を表していた事が分かります。

お礼として記される祈祷の御玉会、護符を与える一方、守矢家の方からも武将に対して頼み事をしていた事が書状から認められます。武田信玄の書状にあるように、上社内での席次を巡って朝廷への口添えを願い出たり(この書状が明治まで上社神官の首座を占める契機となったとすると極めて重要な記録でもあります)、真田昌幸からの返事では寄進を断られてしまいますが、浪人をしていた屋代秀政にも進物を届ける等、諏訪社の所領に関する執り成しにも神長として積極的に動いていた事が読み取れます。

そして、戦陣を思わせる緊迫した状況が伝わる書状。新府城に移った直後に認められた、武田勝頼が送った礼状の筆致にはどこか落ち着かない様子が見て取れますし、乙事に戦陣を張った酒井忠次からの書状には、先程の北条氏邦の優雅な筆致と文面とは正反対の、武骨な文体で、その場で急ぎ認めたような感触も強く受けます。この書状と並べられている北条氏邦及び北条氏直、そして武田勝頼の書状とその内容を見てしまうと、諏訪家を挟んで、神長が見事な二枚舌を使い分けていることが判明してしまう訳ですが、前述のように固有の武力を有しない神長そして諏訪社が自らの存立を賭けて信仰と書状を以て立ち回ってきた雄弁な証拠。

史料館の方とお話させて頂いた際に私から述べた質問にお答えいただいた、年間数多くの神事を執り行い、神渡りを含む自然と向き合ってきた諏訪社、歴代の神長が呈示するもの「その精度がとても高かったのだと思います」との言葉に思わず息をのむ一瞬。

企画展の方をじっくりと拝見した後、他の来館者の方が帰られたので、史料館の方と今度は建物を設計した、建築史家、建築家の藤森照信先生と考古館のディテールのお話をじっくりと。

僅かに垂直と水平、直交が崩されているにも関わらず、全体としては整合され、複雑な立体感と奥行きを感じさせる何とも微妙な面構成。その一つ一つを一緒に回って頂き、解説を伺わせて頂きました。

独特な土壁に囲まれた、間接照明に照らし出される打ち合わせスペース(解説図面上では書庫)。

左右の壁と机の位置を見ると、ちょっとおかしなことに気が付きませんか。

入り口を入って正面に見える土の階段。

手摺と共に上に行くに従って徐々に狭くなって途切れてしまいますが、実は2階の収蔵庫に上がれるように、吊り階段が設けられています(実際に操作して頂いてしまいました)。

石と土と木に囲まれた建物。茶室の潜りを思わせる低く抑えられた窓から守屋山を望むと、遠くに茶室、高過庵が見えています。この史料館で用いられた手法は、藤森先生がその後に手掛けられた多くの建築作品の母体ともなっているようです。

藤森建築の妙を伺わせ頂く間に、建て替え中の高部の公民館の下で銅板を叩く音が響いていた事を話すと、そうなんですよという言葉と共にご紹介頂いた、新しい公民館設計のお話。史料館設計の件も、現在の守矢家のご当主と藤森先生は1級違いとの事で旧来からの誼、その姿は高部の地で生まれた藤森先生と諏訪という土地に培われた想いとの深い繋がりが生み出した無二の造形。

暖かな秋雨が降る中、辞去する直前に述べられていた、この場所の大切さ、その大切さが分かる方に見に来て頂きたいという、史料館の方の強い願い。私自身が、その願いに叶うような見方が出来たのか、甚だ心許ないところではありますが、この地に心を寄せる多くの方々の想いが受け継がれ時を刻み続けた場所に建つ、次の世代に思いを繋いでいく史料を納め、呈し続ける建物が放つ想い。

再び、訪れてみたいと思います。

大町山岳博物館の企画展「博物学と登山」(近代登山が導いた信州の科学教育萌芽と人物像)2020.7.25

大町山岳博物館の企画展「博物学と登山」(近代登山が導いた信州の科学教育萌芽と人物像)2020.7.25

お天気の優れない7月後半。

連休を迎えた土曜日、時折強くなる雨の中、車を北へと走らせます。

分厚い雲に覆われる北アルプスの麓に広がる、雨に煙る大町の街並み。

今日は、信濃大町にある大町山岳博物館へ再び訪問しました。

入館時にちょっと驚いてしまったのが、カメラを抱えていたわけではないにもかかわらず、職員の方から「撮影できますよ」の一言。当館は以前から「企画展以外は撮影OK」の施設ですが、より積極的な対応を取られているようです。

お天気が悪い中でも駐車場には多くの県外ナンバーの車が停車し、展示の中核を担う、動物や鳥たちの貴重なはく製の前で楽しそうに記念写真を撮る方々を見ていると、ちょっと嬉しくなります。

今回は、2020年度の大町山岳博物館企画展「博物学と登山」を見学にやってきました。

展示スペースは特別展示室の1フロア。美術作品展示の際には部屋の中央にもBox型のパーティションを置いて回廊型のレイアウトを採る場合もありますが、今回は壁側への掲示、展示のみ。展示内容もボードによる文章解説が中心です。

展示内容は全部で4セクションありますが、メインとなるのは第3章「信州理科教育のさきがけ-博物学の士々群像-」です。

同じ1階のフロアーある常設展示室「山と人」。

こちらの部屋の奥の方に、あまり目に止められないかもしれない展示があります。

本館特有の低い位置に置かれた展示ケースの奥に並べられた、人物の写真と関連資料。

北アルプスの登山や大町に所縁の登山家、学者を顕彰するコーナーに並ぶ、簡単な解説が付された人物たち。

彼らが北アルプスの登山史、更には博物学が培ってきた知識と実践の結晶ともいえる「博物館」である本館とどのような関わり合いを持っていたのか、より深く理解してもらう事を狙った展示となっています。

本展で紹介される人物は全部で6名。いずれも信州の教育に携わった人物です。

  • 渡邊敏 : 福島・二本松出身、近代白馬登山の先駆者。大町の小学校に校長として着任、後に長野高等女学校校長として、女子生徒による今に続く学校登山を始めた人物。今回は歿後90年の記念企画となります
  • 田中阿歌麿 : 東京出身、「日本北アルプス湖沼の研究」という大著を著わした日本の高山湖沼研究の先駆者。仁科三湖、簗場ゆかりの人物
  • 河野齢蔵 : 松本出身、複数の新種を発見した高山植物の研究者、登山家。大町の小学校に校長として着任、その後も県内各地の学校で教鞭を執る。後述の矢澤米三郎らと共に信州博物学会を設立
  • 矢澤米三郎 : 諏訪出身、高山植物やライチョウの研究で知られる博物学者。松本女子師範学校の初代校長、信濃博物学会の創設者、信濃山岳会の初代会長
  • 保科百助(五無斎) : 立科出身、地質学者、標本採集者。郷里の学校で校長を務めるもすぐに退職。以降は県内を縦断する岩石標本収集に邁進しつつ、地域教育に専心。破天荒な言動から「唯一無二の奇才」と称される
  • 志村寛(鳥嶺) : 栃木・烏山出身、高山植物の研究者にして最初期の山岳写真家。長野中学校教員在籍中に白馬岳で発見した2種類の高山植物新種を登録。本人から委ねられた著作や写真は本館所蔵コレクションの一翼を担う

常設展示では簡略に記される彼らの略歴からは把握しきれない人物像や、信州における登山、学術的な功績。辺鄙な地方小都市の市立博物館に過ぎない大町山岳博物館がなぜこれ程までに充実した施設と展示内容を誇っているのか、その背景を100年以上前に彼の地に訪れた、眼前に広がる山々と湖に魅せられた教育者、近代登山の先駆者たちの姿から示していこうという、博物館が自らのアイデンティティを問い直す企画展。

実際に昭和初期の尋常小学校で使われていた、6年生の理科の教科書に記載されるライチョウの換羽を扱ったページの紹介と、大正14年と想定される現在の美麻小中学校に所蔵されているライチョウのはく製。

時に嫌悪感を持たれる方もいらっしゃるようですが、なぜこのようなはく製が重要になるのかを改めて問い直す、学芸員の方が強い思いを込めて綴られた展示パネルのコラム。

当館の展示で最も人気のある、北アルプスに生息する多様な動物、鳥たちのはく製。山を眼前に戴く土地ならではの、そこに住む生き物たちへ続く、学びの結節点。

その視線の先は、きっと高山の環境、其処に生きる生き物たちへの更なる理解と関心へと繋がるはずです(全国5か所の施設で公開されている、低地人工繁殖のライチョウ。大町山岳博物館は現在の環境省主導の保護政策が始まる遙か以前、1964年から中断を挟みながらも続く、長い飼育歴を有しています。2019年3月訪問時の写真、今回は2羽が展示されていたのですが、こちらに振り向いてもらえず…)。

そして、今回印象的だった展示物。前述の保科百助が自らの名前に掛けるように採集したとされる、百種百点と称した岩石標本を納めた標本箱。実際には200種を超えていたとされています。当時長野県内にあったおよそ100校に頒布したとされる標本のうち、完品で残っているものは殆どないそうですが、最初の採集から120年となる今日でも残されていることに驚くと共に、現在も積極的な出版、啓蒙活動を続けている長野県の地質学地理学の研究、教育に携わる方々に百助の地質学への想いが今も脈々と伝わっているかのようです。

ちょうど引き出されていた段に収められていた岩石標本。右上の一つには「橄輝富士岩(多分、橄欖岩)」という標本名称と共に、採集場所として諏訪郡茶臼山と記載されています(地元の皆様は、何処だか分かりますよね)。左隣の上下は同じく諏訪郡内の採集で「角閃富士岩」との表記もあります。

昨今の状況故に、今回は残念ながら触らないでくださいの表示が出ている、科学系の博物館としても珍しいと思われる、実際に来館者が触って体感できる岩石、化石標本のコーナー(隕石もあります)。本物だからこそ実感できる、フィールドに立ち返ったときに改めて理解できる、博物館で直に触れる事が地質学への興味に繋がる事もきっとあるはずです。

そして、彼らが決して一地方の在野の研究者に留まらなかったことを示す貴重な資料。

志村寛が明治34年に採集したヒメウメバチソウの標本と、同定を依頼された牧野富太郎が返答した書簡、どちらも実物が展示されています。

彼らの活動に関与した、既に著名な博物学者であった牧野のような中央で活躍する人物や、著書に序文を寄せたウェストン。現在も教鞭に立った大町西小学校の敷地内に残る、冒頭に紹介した渡邊敏の記恩碑には東郷平八郎の筆による扁額が添えられており、彼らが郷土の偉人に留まらない、広く繋がりを持った人々であったことを教えてくれます。

最後は、博物館の学芸員の方による、現在進行形の山の博物学をテーマにしたコラムを集めた展示ボード。生物、地学そして民俗学から社会学まで「山岳」をテーマにした多彩な研究を擁する博物館のもう一つの側面が浮かび上がります。

博物館というと、時に定められた収蔵品を繰り返し展示するだけの施設のように思えてしまいますが、実際には日々積み重ねられた研究を背景にした、成果に基づいてこその展示。その成果の一端は、数年前から全国ニュースでも取り上げられるようになった、新たな日本の氷河地形発見にも繋がっています。今回、2階の常設展示室に解説ボードが新設されました。

全国的にも特異な位置付けを持った博物館の意義を、登山という切り口から当地に機縁を持つ教育者たちの人物像と歴史に尋ねる好企画。

企画展自体は小さな規模ですが、比較的近年の2014年に全面改装された、高水準の展示メソッドを駆使して広い館内に展開される「山と自然と人」をテーマにした展示内容を踏まえながらご覧いただければ、きっと更なる知見を与えてくれる、大町山岳博物館の企画展「博物学と登山」

今回の展示は全て撮影可能ですが、じっくり内容を確認されたい方のために有料の図録も用意されています。

会期は9/27まで、会期中の9/10(日)には、明治の信州が生んだ唯一無二の奇才、保科百助をテーマにした講演会も開催されます(事前申込制、通常より大幅に定員が少なくなっています)。

お礼のひと言 : 今回は図録の販売も行っている、喫茶室もるげんろーと様。お茶、ごちそうさまでした。

酒蔵の歴史が奏でる日本酒への応援歌(長野県立歴史館の企画展「地酒王国 信州」)

酒蔵の歴史が奏でる日本酒への応援歌(長野県立歴史館の企画展「地酒王国 信州」)

近年、意欲的な企画展を立て続けに送り出している長野県立歴史館

博物館、美術館に大きな逆風が吹く中、それを逆手?に取るような、展示中止が全国ニュースのトピックスになるなど、その動向に連年注目度が上がっている施設。

6月の再開以降、初めてとなる企画展。ちょっと興味のあるテーマでしたので、梅雨空の下、幾重にも重なる信州の峠を越えて、再び屋代まで赴いてみました。

時折、晴れ間も覗く土曜日の午後(往復途中は土砂降りでしたが…)、企画展開催初日を迎えた長野県立歴史館のエントランス。県外を含めて、来館者の方がぽつりぽつりと訪れていたようです。

強制ではありませんが、来館者は入り口に用意されたシートに入館日時と氏名、連絡先(電話番号もしくはメールアドレス)を記載して提出することになります。

企画展示室の入り口です。

これまで同様、企画展と通常展示の入館料は分けられており(共通入館券もあります)、企画展だけを見る事も出来ます。

今回の企画展でまず驚いたのが、写真にも載せていますように「撮影OK」ということでしょうか。

博物館や美術館の企画展の場合、テーマに合わせて自館以外の所蔵物も集めてくる関係上、その権利関係の処理は非常に難しいことが常に指摘されます。今回展示される出展品の中にも明らかに「美術工芸品」、それも著名作家が所蔵者に寄贈する目的で制作した、通常非公開作品が何点か含まれており、本来なら撮影NGとなる筈です。しかしながら、長野県酒造組合の全面的なバックアップと、組合加盟酒蔵の収蔵品という事もあり、全面的な撮影許可が得られたようです。但し「撮影データを掲載する際には、所蔵者の許諾が必要となりますので、ご注意ください」との事です。

企画展会場の全景です。

出展点数155点、その大多数が酒造組合及び加盟する酒蔵が収蔵する品々や記録。但し、酒造道具などは既に館内の常設展示室にあるため、企画展本体としては扱わず、酒造技術や酒造そのものに言及する部分も極めて限られます(別室に東京農業大学と酒造組合の共同パネル展示があり、そちらで一部解説されています)。

展示順路としては歴史の推移に沿った形になっていますが、長野県内の近世、近代酒造産業史の紹介と、普段は見る事が出来ない、蔵元に収蔵されている「お宝」拝見という二つの展示内容からテーマを組み立てるという構成になっているようです。

中央に大きなスペースを取って飾られる、酒造組合加盟酒蔵のマップと並べられた一升瓶。

こうしてみると、酒蔵の分布にかなり偏りがあるのが判ります。

この偏りは、展示ボードにもある江戸時代の酒蔵の数と分布に影響を受けている(現存する酒蔵の半数は江戸時代の創業)事は明らかなのですが、一方で、多くの酒蔵があった飯田藩のお膝元、南信の飯田には、現在一蔵しか残っていません。

その辺りの事情を読み解いていくのが本展のメインテーマ。

10の試練と称して、明治期の酒造株解放から、現在の各蔵毎に個性を競い合うようになった時代背景を展示と共に辿る事になります。

各蔵から提供された古写真や明治期の宣伝ポスター。蔵元が地元の名士であった時代の名残を伝える、華やかな酒器や著名人との交流を伝える所蔵品の紹介は本展最大の見せ場となります(後の「秋田の行事」にも見える朱色が印象的な藤田嗣治が木曽を描いた素朴な絵画(「木曽路」湯川酒造店が所蔵)や、下村観山、犬養毅が愛用した盃(「神渡」豊島屋が所蔵)など)。

明治の近代化と物流網の発展は、養蚕業の飛躍と震災に伴う需要を満たす信州味噌の急速な進出へと繋がりますが、歩調を合わせるかのように酒蔵の方も革新期を迎えるようです。

江戸期においても酒蔵の数は多かった信州ですが、明治以降、灘の下り酒と、速醸法を取り入れ、いち早く品質改良を遂げた越後の上り酒に押されて転入過多となっていた信州の酒造。展示の後半は現在に繋がる地酒王国への歩みが紹介されます。

日本酒のお好きな方であればご存じの、諏訪の酒蔵、真澄の宮坂醸造から見出された協会七号酵母と、諏訪の各蔵による立て続けとなる鑑評会入賞の記録。信州人らしい地道な研究熱心さの成果が誇られますが、受賞歴を挟んで紹介される戦前、戦中、戦後復興期の姿には興味深い点が見出されます。

現在の地酒全盛、特定名称酒登場より少し前の状況を産業史の中から伝えてくれる、戦中期から始まる等級制度と合成清酒の登場、そして統一銘柄の存在。

今では日本酒離れの元凶と目される等級制度や合成清酒、桶買いを含む蔵元が分からない形での統一名称による瓶詰め酒。それらも時代の要請に応じて生まれてきたことが今回の展示で示されていきます。戦後復興期の統一銘柄による東京圏での販売活動や広告写真。展示される貴重な戦前のラベルにはアルコール度数と共に「原エキス分」という表記、更には合成清酒にも等級があった事が判ります。そして、明治の一時期、国税の過半を担うという重い税率で経済を支えた酒造ですが、戦中の企業統合政策により様相は一変、伝統的な酒蔵が残る一方、飯田では酒造会社が現在に続く1社に統合された事が示されます。

歴史に翻弄される酒造ですが、どのような時代でもアルコールは人類の友。呑みたいという欲求は尽きないものですが、現在のように全国の酒蔵の銘柄酒を選んで買えるようになったのはここ20年ほどの話。掲示された酒類購入比率のグラフを見ると、戦後に至っても当時の長野県内では1級酒は僅か数%、特級はほぼ0%と、購買力が現在とは大きく異なっていた事を如実に示しています。このように、現在の状況とは大きく異なる姿を歴史的に伝える事も、本展の重要なテーマのようです。

地酒全盛の現在となって初めて理解される、地域による酒質の違いとその特徴。

各地域毎には紹介されているのでしょうが、このように県内を俯瞰で紹介する例はちょっと珍しいかもしれません(このパネルは図録にも収録されていません。展示パネルは決して見逃せない、長野県立歴史館の企画展「あるある」です)。ちょっとした皮肉も織り込まれていますが、呑まれているイメージと合うでしょうか。

ここまで、日本酒自体にご興味のある方にはちょっと物足りない内容かと思いますが、最後に信州の地酒を原料の面から支える、長野県が生み出した酒造好適米の紹介と、現在売り出し中の新しい酒造好適米「山恵錦」を35%まで削り込んだ精米サンプル(あと、画像の脇にちょつと映っている「もの」が直前に追加されたようです)。

江戸時代から現在に至るまで、信州の酒造産業史としての位置付けに、蔵元に残る当時の息吹を伝える所蔵品から文化的な香りを添える。信州の蔵元へエールを送る、歴史館として相応しいい展示内容。

2020年夏季企画展「地酒王国 信州」展示期間は8/23まで、講演会やセミナーも予定通り開催されますが、いずれも事前予約制になっていますので、ご興味のある方は歴史館のHPをご確認のうえ、お出かけください。

 

ハヤブサへの深い愛と、柔らかくも先鋭な線描が見据える眼差しは今も。薮内正幸美術館の生誕80年・没20年記念企画展「鷲・鷹・梟」

ハヤブサへの深い愛と、柔らかくも先鋭な線描が見据える眼差しは今も。薮内正幸美術館の生誕80年・没20年記念企画展「鷲・鷹・梟」

ご案内 : 薮内正幸美術館は2020年5月18日から通常通り開館しています。なお、今年度は前期/後期の展示入れ替えを行わず、本文でご紹介いたします展示内容を11月末まで継続するとの事です。

朝日新聞の山梨県ローカル記事に展示内容が紹介されています。1枚だけですが写真も添えられていますので、雰囲気が伝わればと。

例年より1週間以上も早く桜が咲き始めた3月の終わり。

年度末締めの業務を片付けに出社した土曜日。仕事が片付いて少し時間が空いた午後のひと時、帰宅の途中、何時かは訪れてみたかった場所に立ち寄ります。

暖かな雨に乗って樽香漂う、まだ春浅い午後の森。南アルプス、甲斐駒ヶ岳の麓に広がるサントリー白州蒸留所に隣接するゲストハウスの更に奥の方に、小さな美術館が建てられています。

数々の絵本や物語の挿絵。サントリーの環境保護(メセナ)活動をPRする新聞広告に連年掲載された、驚くほど細密な鳥たちの絵画。釜無川を渡って反対側に聳える八ヶ岳の山懐にある清泉寮のお土産では常に人気のある、山里の鳥たちやヤマネの可愛らしくも細密な絵画が施されたノベルティの原画でも知られる、動物画家、故・薮内正幸氏の作品を管理、収蔵する、日本唯一と称される動物画専門の美術館、薮内正幸美術館です。

例年、オフシーズンの冬季は休館。シーズン中は大変人気のあった作家さんの美術館で場所柄も地域有数の人気施設である蒸留所の隣という事もあり、相応に来訪者が多い場所(館長さんのご見解はちょっと異なるようですが)のため、地元民としてはやや近寄りがたいスポット。これまで訪問するのをちょっと避けていました。

桜のシーズンにはまだ早い3月末。静かで殆ど人気を感じる事のない、葉を落とした明るい森の中に佇む小屋のような小さな美術館。常連の方がテーブルで寛ぐロビー脇のノベルティを扱うコーナーの奥、片隅に作者の作業場を再現したコーナーが設けられた、20人ほど集まれば人でいっぱいになってしまうであろう展示室が一つだけ。前後期制で作品を入れ替えるスタイルを採っているため、1万点以上といわれる氏の遺された作品が常に入れ替えられる形で展示されます。

今回是非訪れてみたかった、大好きな猛禽類をテーマにした企画展示。頂いたパンフレットを拝見すると、あらゆる鳥類、生き物たちの絵画を描き続けた氏にして愛してやまなかったのが猛禽類であったと述べられていることにちょっと驚きながら。

展示内容は大きく分けて4セクション。壁に沿った順路は晩年の線描作品から始まり、一番奥の壁に掲げられた、背の丈程もあるイヌワシの実寸大水彩画をはじめとした3点の大作をメインとしたカラー作品。後半は日本野鳥の会の編集で刊行された「みる野鳥記17 タカのなかまたち」(あすなろ書房、絶版)に使用された原画の展示。中央部には氏のスケッチや本制作前の下絵を含む小作品が並べられており、小さな展示室で猛禽類とテーマを絞りつつも、かなりのボリュームとバラエティに富む、氏の作品の多様さが展示内容からも伺えます(1960~70年代のイラストやスケッチには、繊細な描画で知られる氏の作風とは正反対の、ルオー等を意識されたと思われる、夕暮れの姿を捉えた抽象画的な作品もあって、ちょっと驚きました)。

今回の企画展展示のハイライトにして氏の代表作でもある、キャンバス地の質感すらもその中に織り込み描かれる、イヌワシの風切羽が魅せる深く繊細な質感(作業場を復元したコーナーの壁に飾られた、額装された風切羽のコレクションを見た瞬間、本当に好きだったのだなと、改めて理解しました)。同じ筆で描かれているはずなのに、全く違った印象を与えるふくよかな胸の羽との対比。福音館書店時代に学んだとされる、博物学に基づく正確な観察眼とち密な描写が描き出す姿は、所謂博物学的な写実、細密画とはちょっと異なる感じを受けます。

展示の前半に並べられた、落ち着いてかつ、ひんやりとしたペンのタッチが重ねられた、晩年に描かれた鳥たちの姿。正確に捉えて描くこと自体は水彩で描かれた作品と線画のそれに違いはありませんが、単色インクの線を重ね(一部にホワイトも用いて)描かれる絵には写実とは別の姿が宿っているようです。

鳥の名前と制作年以外、一切の解説文もなく、唯、絵と向き合う時間。氏の作品に共通する、どのような生き物でも、どのようなポーズを取っていても、こちらを射抜くように向けられる「視線」。ち密に積み重ねられた線描の中に描き込まれた視線のその先に、彼らの理知的な個性と共に、氏の生き物たちに対する深い敬意と尊敬の想いが映し出されるかのようです。

そして、企画展のテーマでもある氏の猛禽類への想い。展示コーナーの片隅に置かれた、多くの方が閲覧されたクリアファイルに挟まれたカラーコピーに複写された、氏が15歳の頃から描き始めたという図鑑の模写も、もちろん猛禽類たちがメインに描かれていますが、展示を一巡して印象的だったのが、日本を代表する猛禽類であるハヤブサたちへの強い思い。展示の後半に掲げられた数々の原画にも見える、実際のタカたちの生態を捉えた水彩画の中から湧き上がる愛情。中でも小さくて俊敏、獰猛でもちょっとした愛らしさもあるハヤブサの仲間たち。手軽に書かれたイラスト、晩年の精緻な線描、ガラスケースに収められた伊良湖岬で連年観察を続けた際のスケッチに添えられたコメント、そのいずれもに、他の生き物たち以上にハヤブサへの愛情を感じる筆致が込められているように思えます。

著者のイラストが用いられた豊富なノベルティも展示販売されている美術館のロビー。談笑されていた方がお話されていた内容にもしやと思っていたのですが、訪問した翌日から今回の企画展に合わせた猛禽類たちのノベルティ(今回の企画展を記念して特別に制作されたハヤブサの横顔が描かれた素敵なサコッシュ、欲しかった)の取り扱いを開始されたようで、相変わらずの間の悪さに少し落ち込みながら(近場なんだからとっとと買いに行けば…自分)。

魚類が好きな私にとって、氏の作品に出てくる魚たちは何時も鳥や動物たちの獲物と少々可哀想な扱い。まあ仕方がないよなと思っていた中で、氏の作品を特徴づける澄んだ目と生き生きとした線描で描かれた川の魚たちのイラストカードを見つけてちょっと嬉しくなった午後のひと時。

また、精緻な描写からちょっと気難しい方だったのではないかと思っていたのですが、実はシュールなイラストを集めたこんな作品集も(動物園関係の専門雑誌に連載していた際に描かれたイラストを出稿する際に収めた封筒に添えられた、駄洒落を効かせた架空の動物たちと掲載イラストをペアで紹介するイラスト集。これらの絵を描く際の氏をファンの皆様の間では「裏ヤブ」と呼ぶそうです。

氏の大好きな想いを込めた作品たちを集めた素敵な企画展と、氏の想いを受け継ぐ多くの方々に守られた、南アルプスの山懐に抱かれる小さな美術館。

遺された膨大な作品たちが、何時でも皆さんの来訪を待っています。