上社の建御柱が終わった後に少し歴史のお勉強も(諏訪市博物館の企画展「御柱を知る」)

上社の建御柱が終わった後に少し歴史のお勉強も(諏訪市博物館の企画展「御柱を知る」)

New!(2016.6.25):明日6/26(日)のNHKスペシャルで御柱の特集が組まれます。古代史ミステリー 「御柱」 ~最後の“縄文王国”の謎~番組ホームページはこちらです。

 

GW連休後半の三日間に渡って行われた、諏訪大社上社の里引き、そして建御柱。

上社の本宮、前宮の8本の御柱が新しい柱に建て替えら、これから6年間、この地を守り続けることになります。

諏訪大社上社本宮一之御柱建て替えられた本宮一之御柱。

来週末の下社の里引き、建御柱まで一休みとなった週末。折角の機会なので、ここで御柱の歴史について改めてお勉強してみましょうという事で、格好の企画展が催されている場所に行ってみました。

諏訪市博物館場所といっても、何の事はありません。上社本宮の道路を挟んで反対側にある、諏訪市博物館

諏訪博物館前の摸擬御柱中庭には今回本宮二之御柱を曳行、建てられた湖南、中洲地区の皆さんが用意した摸擬御柱が用意されています。

こちらで、御柱の開催を記念した企画展「御柱を知る」が3/12から開催されています。

諏訪博物館企画展「御柱を知る」パンフレット残念ながら企画展の展示室及びロビーに展示している写真と絵葉書は撮影禁止の掲示が出ておりましたので、パンフレットでお茶を濁させて下さい…。

今回展示されている史料は摸刻、模写が殆どですが、江戸時代の騎馬行列に使われた道具類は実際の物が展示されています。史料の系統はすぐ近くの神長官守矢資料館が守矢家に伝わる資料を中心に構成されているのに対して、大祝諏方家、権祝矢島家に伝わった史料を中心に、諏訪大社が所有する史料で内容を補う形を採っています。珍しいのは冠落としの手斧を担当する原家が実際に大正時代まで使用していた装束が展示されている点。侍烏帽子に大紋(素襖とも思える)なのですが、紋が丸に四つ目菱(現在の冠落としの際の写真を見ると異なる紋を付けています)なのが、その職を世襲された時代と照らし合わせてみると、とても気になる点ではあります。

ロビーで流れる御柱解説ビデオの大音響が館内に響き渡る中、崩し字読み特訓しながら展示を観ていると、学芸員さんの展示説明が始まりましたのでちょっと混ざって聞いてみました。

  • 歴史史料上の御柱 : 鎌倉時代より遡る史料は無く、巷間に云わる平安時代に遡るとの史料も鎌倉時代に書かれたものを引用している(持統朝に遡る日本書紀の記述は社の存在を示すもの)。そう考えると、現在の形態の元を築いたのは、やはり東国の武士たちという事になるが…
  • 御柱の氏子 : 本来は信濃一国総出で奉仕するものであった(ここで2階の常設展示フロアにある解説パネルを見ると、戦国時代より前の御頭郷はすっぽりと諏訪郡が抜けている事が判ります)が戦国以降、徐々に縮小して諏訪郡一円に収斂していく
  • 祭祀の推移と復興、縮小 : 戦国時代以前の奉仕の史料を見ると、柱を建てること以外に宝殿(これは現在でも行われる)やその他の境内各所の建築物の造営が都度行われており、現在より遥かに規模も大きく、それだけ負担も大きかった(取り立ての史料や収支報告書が残る)。戦国時代の混乱による祭祀の縮小(甲斐への出陣により祭祀の引き延ばしを図った事により祟りが起き、その再発を恐れて、急ぎ甲斐から出陣中の兵を引き上げるなどという記録さえ残る)は、武田信玄による諏訪氏滅亡後に息子の勝頼共々に社殿と祭祀の復興を図ったが、その後信長の息子、信忠による天正十年の上社の焼き討ちにより灰燼に帰したことが現在の祭祀の起点となっている
  • 縮小後今日までの繋がり : 天正十二年に再興された際には御柱と宝殿、神輿(これは現在も使われていると云われる)が漸く揃えられたに過ぎず、その後社殿の復興が徐々に進んだが、これ以降宝殿以外の建て替えは行われない現在の形となった。また、江戸時代の史料から祭りの文字が見えてくるが、それ以前は「造営」と呼ばれ、祭りではなかった。現在のような祭りとして執り行われるのは明治以降と考えて良い(これも常設展示室に造営の主体が経済的な理由で領主層から町民層へ移っていった事を示唆する解説が出ています)

今回の展示物で最もポイントが高いと思われる御柱絵巻模写の展示なのですが(原本は岡谷市在住の個人蔵で、諏訪市博物館が所有する模写は明治17年に諏訪市の個人の方が明治維新で廃絶した騎馬行列の姿を記録する為に前述の絵巻を借用して模写したもの)、残念ながら全体の公開はされずに五祝家と謂われた神官たちと御柱が描かれた部分だけの公開に留まっています(その他藩主の代役の騎馬、家老、奉行の部分は抜き取りで写真掲示)。この絵巻の写真集が出されたら、さぞかし興味深い考察と共に、きっと人気が出る事かと思いますが、個人蔵故でしょうか、容易に入手できる刊行物はないようです。

ちょっと煮え切らない部分もある展示ではありましたが、これだけの内容が一堂に揃うのは多分御柱の時だけ。ロビーに飾られている写真は別途写真集が刊行されていますので見る事が出来ますが、当時の史料を模写とはいえじっくり拝見できるのは、二次文献ではイメージできない点(and必死に崩し字読む特訓)を補う意味でもありがたい事です。

諏訪博物館常設展示室1-1学芸員さんの解説が終わると、殆どの皆さん(and本日は長野日報の記者の方が取材に入っていました)は退出されてしまいましたが、折角なので2階の常設展示室もじっくりと拝見させて頂きます。

こちらが常設展示室1の原始から古代のエリア。ダウンライトとブラックアウトされた落ち着いた雰囲気の解説板をバックに、広いスペースにゆとりを持った展示…と言いたいのですが、界隈の各市町村にある資料館や縄文関係の考古館の、これでもかという出土品のオンパレードと比べると、どうも展示物に事欠いている(いやいや、絞り込んでいる)イメージを持ちます。やや啓蒙的な解説板をじっくり読ませるイメージが強い展示内容。

諏訪博物館常設展示室1-2こちらは同じ展示室の中世から近世のエリア。中央に曲線状に配置された御柱の解説スペースを挟んで正対するレイアウトになっています。各時代につき、展示物を数個に絞り込むスタイルはこちら側も同じです。

諏訪博物館常設展示、徳川家光の朱印状御柱関係で特徴的な展示物を。

徳川三代将軍家光が与えた諏訪神社領の朱印状の模写とそれ以前の所領比較図。1500石と決して小さくない社領ですが、それ以前の広く信濃国内に点在していた所領と御頭郷による奉仕を考えると、御柱(祭)の造営規模が縮小せざるを得なかった事情が実感できるかと思います。

諏訪博物館常設展示、御柱略年表ちょっと見づらいのですが、御柱の略年表。

企画展には出てこなかったのですが、寛永十五年に高遠藩が騎馬行列への参加を拒否(高遠藩が保科家から改易後の鳥居家が移ってきた初代、忠春の治世)したことに対して、諏訪社が幕府に訴え出ている点に注目します。戦国時代の大祝が諏訪と高遠に分かれた後に諏訪の大祝に収斂された経緯をそのまま江戸時代まで引き継いでいた事が判ります。企画展で展示されている原家の記録にも、高遠藩が送り出してくる騎馬行列(藩主の名代だと思いますが)に対しても挨拶に出向いていた事が記されています。

ここでちょっと面白い話。知人の氏子さんに聞いたのですが、今回の里引きで高部の公民館前(里引きで一番標高が高い場所、八ヶ岳と両宮が遠望できる)では辰野(小野)の地酒「夜明け前」が振る舞われていたそうです。諏訪の酒蔵でなくてなんで小野なの?と思ったそうですが、実にこの場所こそ原家が高遠藩に挨拶をしていた場所。その昔は桟敷の設置場所で諏訪と争ったとの記録も残る、高遠藩にとって御柱の際に藩主の名代が訪れる場所だったのでした。

諏訪博物館常設展示室2常設展示室2です。打って変わって博物館の外観のイメージを踏襲する明るい造りに、スポーク状のオブジェとピラミッド型の展示ケース、そして展示内容は在野の考古学者、今なお縄文史研究を悩ませる発端となった、縄文農耕論を提唱した在野の考古学者、藤森栄一の業績を紹介するコーナーになっています。

残りの右半面は片倉館から寄託された考古発掘資料を展示するコーナーと、実は左側がシンプルながら凄くコアな展示なのです。

諏訪博物館常設展示、肥水くみ上げ風車主に民俗資料の展示なのですが、ここにしかないであろう一品。今もガラスの里の周囲に行くと警告板が建てられていますが、諏訪湖畔で行われていた天然ガスの採取とその副産物を肥料として用いていた「肥水」と呼ぶ井戸をくみ上げていた風車。かん水だと思いますが、肥料に用いていたというのも聞くのは初めてですし、このような形で諏訪の産業史の一ページを採り上げられている点に物凄く好感を持ちます。

諏訪博物館常設展示、御渡帳そして、諏訪市博物館に行く以上、是非観たかった御神渡の歴史を綴る御渡帳と当社神幸記..って、貸し出し中だなんて(涙)。

諏訪博物館、御神渡関連掲示ちょっと気を取り直して、2階のロビーに飾られている平成18年度の御神渡関連のパネル展示を眺めながら。ついこの間、雑誌natureの電子版にヨーロッパとの比較で地球の気候変動を示すバロメーターとして御神渡の記録が使えるという論文が出て、俄然注目を浴びている諏訪湖の御神渡ですが、情報センターとしての役目を果たす諏訪市博物館としては、ぜひこの機会に企画展やシンポジウムの開催をご検討いただきたいと勝手にお願いしてしまいます。

諏訪市博物館寄贈展示品ミニチュア御柱なんだかんだ言ってタップリと楽しんでしまった諏訪市博物館。

でも、一番楽しかったのは、休憩コーナーに展示されていた、地元の方が寄贈した手作りのミニチュア御柱セット。前回の前宮一の御柱の建御柱つり上げ構造を忠実に再現した模型と、上社と下社の御柱曳行方法の違いをこれまた丁寧に作り分けている模型を眺めているだけで、はっきりとそのシーンを思い出す事が出来ますね(館内に飾っている曳き綱を巻いたミニチュアオブジェと一緒にキットで売って欲しいです!)。

諏訪市博物館の資料類本日のおみやげ類(購入資料)。

御柱関係の古い写真を集めた写真集「御柱とともに」。今回の件についていろいろ仰る方もいらっしゃいますが、まずはご覧頂きたい写真集です。次に、隣の山梨の方にとっても特に興味深い内容が書かれている「戦国時代の諏訪」そして、江戸時代初期の諏訪藩主(三代忠晴)が描かせた諏訪藩領の屏風絵図「御枕屏風」の解説写真集。博物館に展示されている模写品は既に読み取りにくくなっているため、このような写真集はとてもありがたいです。次は是非御柱絵巻の写真集も…。

左下にちょっと置いていますのが、上社で頂きました御柱御守です。

この6年間で色々な事がありましたが、2度目の御柱をこの地で無事に迎えられた事への御礼として。

<おまけ>

本サイトでご紹介している関連するページを。

ちょっと早いスタートを切った来年の御柱を迎えに(辰野町横川の上社御柱仮置場へ)

ちょっと早いスタートを切った来年の御柱を迎えに(辰野町横川の上社御柱仮置場へ)

New!(2016.6.25):明日6/26(日)のNHKスペシャルで御柱の特集が組まれます。古代史ミステリー 「御柱」 ~最後の“縄文王国”の謎~番組ホームページはこちらです。

 

New!(2016.3.19):上社御柱の綱置場への移動日が決定しました。3/25(金)午前と午後の2回に分けて、辰野町横川の「かやぶきの館」から原村の八ヶ岳農業実践大学校下の綱置場に高速道路(!)を使用して、移動します。当日、諏訪南ICと綱置場ではセレモニーも予定されています。詳しくはこちら(長野日報HP)をご覧ください。

 

来年の春に行われる諏訪の一大行事、御柱祭。

その主役でもある御柱はモミの木と決まっていますが、あのような立派な木がどこから運ばれてきているかご存知でしょうか。

建御柱途中の風景下社は今でも霧ヶ峰の麓、木落とし坂の背後に広がる社有林、国有林から伐り出されていますが、実は上社の御柱は諏訪の外から運ばれてきています。その理由は、少し時代を遡る伊勢湾台風の際に、伐りだしを長年行っていた八ヶ岳西麓の御射山及びその付近の山林で倒木の被害が相次ぎ、御柱に要する大木(本宮一ともなると、樹齢200年クラスが必要です)が確保出来なくなってしまったという厳しい現実があるのです。

それ以来、各所からモミの大木を調達することに奔走するのが上社総代の皆様の大切な作業となってしまった訳で、前回は同じ八ヶ岳でも北麓に当たる旧立科町から何とか調達したのですが、そんな大木は八ヶ岳山麓でもそう易々と残っていない(下社の場合でも、年々周囲の山林を買い取って社有林にしています)訳で、今回は遂に八ヶ岳山麓からの調達が出来なくなってしまったのです。

では、今回の御柱となる木は何処から調達したのでしょうか、北欧、ロシア…流石にそういう訳にもいきませんので、長野県内からの調達なのですが、ちょっと意外な場所からもたらされることになりました。

横川の橋のたもと塩嶺を越えて南に下ると、枝垂れ栗で有名な辰野町へ、そこから更に南に下ると、西に開いた小さな谷戸が伸びていきます。流れる川は上流にダムがある、横川と呼ばれる川です。

かやぶきの館に続く道集落を抜ける県道とは別に敷かれた、上流にある町営の宿泊施設に続く側道には、そこかしこに「祝 御柱祭」の幟が立っています。

横川かやぶきの館2側道を山の際まで上り詰めると見えてくるのが、大きなかやぶきの建物。

こちらにも御柱祭の幟が立っています。

横川かやぶきの館日本一おおきな茅葺屋根の建物としても知られる、辰野町営の宿泊施設「かやぶきの館」です(此処に来たの、実に10年ぶりくらい)。県道からかなり入った、周囲に観光スポットもない、谷沿いのどん詰まりの場所に立つこの施設ですが、観光物産所や日帰り風呂があるためでしょうか、夕暮れ近くにも拘わらず、途切れることなく車が出入りしています。

かやぶきの館の上社御柱仮置き場かやぶきの館の駐車場脇に注連縄で囲われた結界の中に置かれた、次の上社御柱たち。

かやぶきの館の上社御柱高札次の、信濃国一宮諏訪大社の式年造営御柱大祭で用いられる用材である事を示す高札。

本来であれば、八ヶ岳の西麓から伐り出されるはずの御柱の今回の調達先です。そして、本来であれば山出しの直前までこのような形で置かれることは無いのですが、実際に伐り出した場所は険路ににして降雪地(そうでもなければこれほどの用材を手に入れる事は既に困難なのでしょう)。慣例に基づく伐り出しでは余りにも危険すぎるため、やむを得ず降雪前に伐り出した次第。折角伐り出したのだからという事で、辰野の皆様にも観て頂こうと、こうして町営施設の前に置かれることになったのでした。

伐り出された上社本宮の御柱こちらが上社本宮の次の御柱たち。斧の跡もはっきり残っています。

年輪も詰まった、立派な木です。

伐り出された上社前宮の御柱こちらは上社前宮の次の御柱たち。本宮より少しスリムな木ですが、それでも貴重な4本です。

かやぶきの館に置かれた上社御柱の全景合計8本の御柱全景を。

特に上社の方については、長さが少々短いようですが、これだけの用材を調達できる場所は極めて限られていたはず、総代の皆様、関係者の皆様の御苦労がしのばれます。

上社御柱山出し遠く辰野の山中で調達された今回の御柱。

八ヶ岳の懐に位置する八ヶ岳農業実践大学校の前にある山出しの開始点、綱置場に据え置かれるまでの間、かやぶきの館の前でひと冬を過ごすそうです。

イレギュラー尽くめの上社の用材調達のちょっとした落穂ひろいですが、気の早い来年の話であっても、御柱が大好きで、少しでも早く観たい、感じておきたいとお考えの方には、モミの木ゆえに、クリスマスプレゼントなのかもしれませんね。

上社御柱仮置き場所map

上社本宮から、今回の仮置き場までのルートマップ。

有賀峠から辰野の市街を抜けて、国道153号線を北上、信濃川島駅前の交差点を「横川ダム」方向に左折します。途中、横川に掛かる境橋を渡った直後に「かやぶきの館」への案内看板が出ていますので、指示に従って川沿いの側道を進むと、5分ほどで到着します(道幅が狭いので、対向車が来た際には寄せてあげて下さい)。