今月の読本「職漁師伝」(戸門秀雄 農山漁村文化協会)峰々と渓々が繋ぐ人の営み

書きかけの論文がなかなか進まない中、気晴らしに何か軽めの本を読もうと入った何時もの書店。こういう時に限って気に入った一冊が見つからずに店内を徘徊するうちにふと農業、園芸書のコーナーで見かけた一冊。

余程気に入らなければなかなか手に取らない価格(2600円)に若干躊躇しながらも、立ち読み大好き人間ならお分かりかと思いますが、咄嗟に感じる「これは面白そうだ」というオーラに負けて買って帰って読み始めたら、これが大正解だったのです。

今回の一冊は、その存在は知っていましたが、まずは手に取る事も買う事もなかったであろう版元である「農山漁村文化協会(農文協)」から刊行された、版元にしては実に珍しい一般向けの書物「職漁師伝」(戸門秀雄・著)をご紹介します。

職漁師伝私自身、魚関係は大好きでも、残念ながら渓流釣りは嗜みませんので全く存じ上げませんでしたが、著者は、釣り関係ではかなり有名な方のようで、釣り具メーカーのフィールドテスターやその筋の出版社から刊行される書籍や雑誌に多数寄稿されていらっしゃいます。

本書もそれら出版社の一つである山と渓谷社の雑誌に寄稿された連載記事を基底においていますが、一部加筆と冒頭の部分に新たな章を書き加えて再構成された内容となっています。連載自体が1990年代と少々古いため、現状と合致していない点もあるようですが、必要な加筆、補正は加えられていますので、別段気になるようなことはありません。

それよりも、もはや鬼籍に入られてしまった方々に対する貴重な取材結果を散逸する前にこのような形で一冊として出版されたこと自体、素晴らしい事かと思います(それだけ刊行までには御苦労もあったかとは思いますが)。本来であれば、連載元であった山と渓谷社より刊行されたもしれない内容かとは思いますが、あとがきで著者が述べているように農文協より刊行されたことで、博物学や民俗学といったジャンルの視点が加わって編纂されたことは、大正解だったのではないかと思います。

本書は複数の章に分かれていますが、元が連載記事らしく各章の構成はほぼ同じです。ある渓を生活の基盤として、漁を以て生活の糧とした方々の漁を始めるにあたってのいきさつ(祖先が定着した由来も含みます)、その職漁の実態、漁場の取り決め、販売先や売り方、収入、副業、現在(取材当時)のご本人の暮らしぶりをそれぞれのエピソードに添えて語っていきます。

生活の基盤となった渓流とその生活圏を判り易く紹介したイラストマップ(今回、書籍化のために新規に作成)、釣り雑誌連載に相応しいタックルの紹介、そして民俗学的にも貴重なそれぞれの渓で伝統的に使われてきた美しい毛バリの紹介(巻頭カラーには、ほかにも民芸として貴重な写真が豊富に掲載されています)や魚篭の解説…これだけの内容を揃えていれば、釣り愛好家の為だけに出版するのは勿体ない話で、(手に取りにくい弱点はあるのですが)山村文化に造詣の深い農文協の刊行に相応しい内容となっています。

このように書くと、ちょっと硬めの内容なのかなと気になさるかもしれませんが、その辺りは流石に数々の一般向け書籍を出されていらっしゃる著者ですので、肩肘張らずに気楽に読むことが出来る内容になっています。

文中で紹介されてく職漁師の方々と渓流釣り師としても著名な著者との親密な関係から得られたであろう貴重なお話は、奇しくもほとんど同じようなストーリーに彩られている事に驚かされます。

  • 現在の仕事が山小屋や民宿であれば、その初めは山仕事の為に作られた作業小屋から出発していること
  • 渓で職漁師が成り立った理由がいずれも、温泉であったり料亭であったりという山間部では貴重な新鮮な魚を求める「お客様」が居たこと。そして、その収入は山村においてはかなり高額であり、職漁師として生きていくきっかけを与えてくれたこと
  • そもそも漁場自体にかなり厳密な「テリトリー」が設けられており、その中でルールを決めて漁を続けることで漁場の安定と資源の枯渇を抑えていた事(そして魚止めより上流にできた多くの釣り場は自然に形成された訳ではなく、彼らが移植した魚たちの子孫が息づいているという重要な事実)
  • 一見、険しい山脈によって遮られて、別々の物語を織りなしているように思える各山々、渓流の物語が実は当時の人々の旺盛な行動力により険しい山脈を越えて人の繋がりによって密接に結びついている事
  • そして、最も重要なのは釣りの達人たる彼らは山仕事でも、手仕事でも、猟でも一流の腕前を以て、家族を養い、山村の生活を支えていたという厳然たる事実

本書は単なる渓流釣り名人の釣技を披見したり、山村の厳しい生活実態の悲惨さや苦労話を訴えている内容ではありません。逆にユートピア的な物語もありませんし、極端な自然保護や環境破壊に警鐘を鳴らすための内容でもありません。

明治から平成の初めにかけて、実際に渓を生活の糧として生きてきた人々の物語を、その心意気が最も理解できるであろう「釣り人」の視点によって描き出されている点が読んでいて実に心地よく、落ち着いた筆致を介して、往年の名人と謂われた方々が生き抜いてきた渓流、山村の雰囲気やその生き様にほんの少しだけ垣間見せてもらえたような気がする一冊です。

ネットでは決して得られない、本屋さんでならではの「偶然のめぐり合わせ」に感謝をしながら。

<おまけ>

本書は奥志賀から始まって秋山郷、草津、嬬恋、奥多摩、尾瀬、銀山平、神流川、乗鞍、奥飛騨、最後に飯能と続いていきます。

お判りになる方はニヤッとされるかもしれませんが、いずれも信州をぐるっと廻っていくと辿りつける場所ばかりです。私にとっても地理感が充分にある場所だったりしますので、読みながらいちいち頷きまくりとなっていました(銀山平以外は全部行った事があるような)。

特に、奥志賀と秋山郷、草津、嬬恋までは当然のように繋がりがあったでしょうが、良く考えれば、秋山郷まで来ればもう東は越後の山々なので銀山平も、銀山平まで来れば尾瀬も当時の山人には指呼の間だったのかと思います(マタギとのつながりと来るとスケールが大きくなりますが)。

もちろん奥多摩と神流川、飯能は同じ秩父山塊で繋がっていますし、奥飛騨と乗鞍も野麦峠越しで繋がっていますね。乗鞍から奥志賀に繋がるかもしれないという話はちょっとびっくりですが。

現代人から見ると、車が行き来できないほどの険しい山を挟んでの交流はないのではないかと勝手に想像してしまいますが、実際には人の足で行き来できる範疇であれば、たとえ山を挟んでも交流はあるものなんだと考えを改めさせられるところです。

野反湖から秋山郷を望む緑に光る流れを

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