今月の読本『平安京はいらなかった』(桃崎有一郎 吉川弘文館)プライドをかなぐり捨てた「張りぼての首都」が演じる未来

海外から到着した大使が最初に向かう儀式。その人物を大使として認めてもらうために、本国から与えられた信任状を着任した国家の元首に手渡して、自らを大使として承認してもらう事。このような手続きは意外な事に、時代を越えて、洋の東西を問わず似たような形式が用いられれるようです。

そして、現在の日本に於いては、東京駅に差し向けられた迎えの車両に乗って皇居に向かうのですが、この際に新任の大使には二つの選択肢が用意されます。車による送迎と、何ともクラシカルな馬車による送迎。

世界的にも珍しい、馬車による大使の送迎を行うルートとなる東京駅から皇居までの道路。馬車が通過する際には交通規制もされているため、その広々とした空間を粛々と馬車が進むシーンをTV等でもご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、接受国、特に王国を名乗る立憲君主政体を採る国にとっては君主の威信が試されるシーン。もちろん奉呈する側となる大使にも自国の威信がかかっている事に変わりはありません。

そんなドライでスピードが問われる世界とは隔絶したような外交官の交換が行われるのは決まって首都たる場所。現在の東京が首都かどうかはさておき(この話を始めると、京都の方に睨まれるので)、歴史的には長きに渡って京都、その前身であった平安京がその役割と務めてきたことになります。今回ご紹介するのは、そんな外交の舞台となる平安京のからくりからの脱却と再生産こそが京都の街を生んだという刺激的な論考を引っ提げての一冊です。

今月の読本、何時も新刊を楽しみにしている、吉川弘文館さんの歴史文化ライブラリーより、夏休みになって漸く入手が出来た『平安京はいらなかった』(桃崎有一郎)のご紹介です(地方の悲しさ、最近、更に入手難に陥っています)。

まず、著者の略歴から本書の興味深い立ち位置が伺えます。鍋島武士の気風を語る佐賀に由来を持ち、東京に生まれ、東京の大学で文学を修めて中世史の研究に踏み出した著者の奉職先は京都の立命館大学(現在は東京の大学に在籍されています)。全くのアウターがその際に務めた京都学の講義ノートから再構成された本書は、これまでであれば京都に思い入れの深い著者の方が連なる京都学の論考や著作とは、同じ結論でも全く異なる立ち位置から描いていきます。

描かれるストーリーについては、ある程度日本史にご興味のある方なら充分に把握されている内容かと思います。多くの先行する研究者の検討内容を引用する形(著者自身は中世史の研究者ですから当然として)で進める古代王朝の宮城が固定化されていく段階の先に構築された平安京。著者は藤原京から長岡京までの期間に摂津職が維持されていた事から、難波宮が継続的に必要とされた点に触れて、所謂大陸からの律令制の仮借自体が軍事的緊張の切迫感からもたらされた物であり、その目的を果たすための大和周辺に根拠を張る豪族たちの集住と、外交的威信道具としての接受機能の統合を、長岡京を反面教師として最終的には平安京への集約と水路を用いた大阪湾への接続によって成立させようとしたと見做していきます。

奈良盆地から離れ、海路との接続を確保する事で地理的な決着を付けた平安京。では、外交の威信道具としての首都、平安京はどうだったのでしょうか。既に多くの先行する研究者が指摘するように、平安京は未完であった点については議論の余地はないようですが、著者は更に一歩踏み込んだ理解を示していきます。それは余りにも巨大な朱雀大路の幅と、大路に向けてひたすらに築地塀が続く異様な外観、門しかなかった羅生門(羅城であるべきだが、正面以外にろくな壁すらない)。そこで行われた儀式の最後の名残ともいえる祇園祭の山鉾が、狭く格子に組まれた今の京都の街路で、その通行場所だけ広がる情景を見た時、著者の中で一気にイメージが再構成されていきます。もはや来るはずもない大陸からの外交使節に見せ付け、同じように大陸から採り入れた官僚組織、儀式体系を執り行う場所を作り上げることすら出来ずに終わった、律令制という、小さな国土には不相応なロジックを体系的に見せるための、張りぼての巨大劇場、首都の残骸。

何だか、某国を思い出してしまいますが、著者はその証明として、様々な議論のある平安京の完成スケールの検討を改めて行い、特に右京については殆ど手つかずのままであった点を再度明確にしていきます。古代王朝が生み出した数々の巨大建築や土木施設の掉尾を飾る平安京にして、結果的にはその理想に国力が全く追い付いていなかったことを、長安城との比較や、当時の東北への軍事的侵攻と撤退との対比から示していきます。

此処で著者の視点がユニークなのが、未完成のまま目的を喪失し、利用効率も低いこの首都、平安京がどのように変わっていったのかを、都市構造自体の変化で示すと共に、為政者たちの行動から、本音を引き出そうとする点です。あくまでも朱雀大路の規模を維持しようとする一方で、右京の再開発を放棄して、その門の礎石を自らの寺院へ転用しようとする道長。右京の開発が進まない中で、初期の段階から北へと領域を広げる内裏(土御門の読み解き、初めて知りました。関東人なので、この辺がダメダメです)。北東から鴨川沿いに再開発が進む左京と、進出する治天。左京を中心に上下に再構築される街区と、其処から距離を置いて展開した職人街。平安京の利用形態の変化と、幾度も炎上する内裏にその都度修復するも戻ろうとしない歴代天皇の動きを重ねて、律令国家から王朝国家への質的変遷を見出そうとしてきます。そこには、摂関を始め、当時の為政者たちが外交的負担から解き放たれて(放棄して)内向きに向かって縮小再生産を行ったとする見方に対してさらに強烈な、中央集権的な律令制などは大陸の王朝に対して1/10程の規模、国力しかないこの島国には全くオーバースペックであり、元々その程度の行政規模しかなかったのだという、辛口な見解を示していきます。いきなり大胆に斬り込んできますが、この辺りの時代になると著者の専門分野に近づいていく時代となるため、その筆致は切れ味が鋭くなっていきます。更には、財政としても(箱モノや遠征をしなければ)破たんしておらず、受領による収奪が維持されていた間は、その収受先たる行政機関は形骸化しても、それに代わる受領による貢納と荘園からの収納機能が働いており、財政運営上の問題はあまり顕著ではなかったと見做していきます。その証拠として、その後の巨大な法勝寺九重塔の建築と一連の白河殿の再開発を指摘し、律令制から、よりコンパクトで機動的な王家の家長たる治天が、摂関の補助を受けながら主宰する王朝国家への脱却を図ったモニュメントだとしていきます。そして、このストーリーの延長に位置する信西による大内裏の再構築。そこには、既に天皇の居住空間としての内裏の意義は喪失しており(それでも最初に構築されたのは、信西の理想主義がそうさせたのでしょうか)、その再築範囲を検証した結果、あくまでも天皇の視点と、朱雀門から見上げる者にとっての視点、すなわち、対外的な視点を失ってもなお残存していく、天皇制というシステム再確認の舞台劇たる大嘗祭を行うためだけの舞台道具が揃えられたに過ぎないと看破していきます(ここで、大極殿より先に大垣が築かれた事に対する解釈を「廃墟と工事現場の目隠し」と一刀両断で斬り伏せてしまいます)。

その上で、現在の京都に繋がる、王朝国家衰亡の原因を、武家の伸張、特に知行国主制によって、受領による収奪機構を武家に徐々に割り与えた事による絶対的な収納不足と、地頭の設置による領家への武士の進出による荘園利得の収奪、最終的には承久の乱によって決定的に自己統制力を失墜させた王朝国家から武家への、都たる京都における主役の交代であると観ていきます。

古代国家が在りもしなかった、来る事もない相手(渤海は逆に想定外と)への威信を賭けて築いた巨大な劇場の重い負担を取り去ったまでは良かったのですが、自らの制御力を失ったことで、肝心な駆動力や舞台装置までも失うことになった中世の京都。再建されなくなった大内裏と、馬場や戦場とされてしまった内野。代わりに登場した武家政権で最初に京都における頂点に立った足利義満が築いたのが奇しくも法勝寺九重塔を上回る七重塔であった事を(それも北山に再築まで)指摘した上で、彼に与えられた現在の御所の規模が、その残された儀礼の舞台装置として漸く適正な規模に収まった(南北朝分断時代には半町だった規模を一町分にまで広げてもらったと)と冷淡に語る、中世史の研究者たる著者。

そして、大内裏の場所を維持する間、例え住むべき主が内裏を放り出して居心地の良い里内裏に住まう間も決して止めなかった、「首都たる儀礼空間の舞台、朱雀大路」を維持しようとするスタンス。例え住む人々に占拠され、築地塀には穴を空けられ、牧場や農地に変えられようとも維持しようとした、古代王朝最後の意地たる、横幅だけで一般国道25車線分にも渡る巨大街路の本質こそが、劇場都市たる古代宮城にもう一つ添えられた、アジアの小中華としての形式だけを仮借した内に本質的に備え続けた、祭祀としての空間。

既にその祭祀を催した主が立ち去った現在。その街路を率先して破壊したのちの住民たちによって今も受け継がれている、京都を代表するお祭りである祇園祭や巡行ルートに、しっかりとその街並みと古代王朝が残していった祭祀の片鱗が伝えられている事を暗示していきます。その上で、劇場都市としての平安京、京都の生命力は今も保ちづけていると締められてしまうと、もはや皮肉にすら見えてきます。

首都としての役割、存在の変遷を考える際に非常に興味深い論考に溢れれる一冊は、同じような成立要件を現代に用いたキャンベラやブラジリアの姿を想起する際にも極めて示唆を与える一方、昨今両方面から盛んに論じられる京都、奈良への恒久的な皇族の滞在施設を熱望される論調(院庁ですかい…)に対しても、その成立過程や「首都」の存在理由に対する議論を語りかける一冊。

かなり刺激的な筆致なため(どうしても気になってしまうのですが、私と同年代や、より若い著者の年代に位置する日本史研究者が書かれる一般向け著書には、往々にして「刺激的な議論と、持論を述べる前に先行の研究者に対して異を唱える事が必定(本書は異なりますが、研究史論に拘る点も)」という、変な拘りのようなものが行間から感じられるのです)、読者を選ぶ要素が大きいかもしれませんが、枠組みに囚われない議論を楽しいと感じられる方には、京都をテーマとした通史としても楽しく読む事が出来る一冊。本シリーズらしい、歴史研究としての視点を踏まえた、好奇心を呼ぶ新しいテーマを切り開いていく着目点は、多くの研究者の皆様の活躍によって、まだまだ広がっていくようです。

 

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