美しい落葉松の温もりに包まれる、山への深い愛情と敬意の記憶を未来へと繋ぐ場所(南アルプス市芦安山岳館)

美しい落葉松の温もりに包まれる、山への深い愛情と敬意の記憶を未来へと繋ぐ場所(南アルプス市芦安山岳館)

厳冬期を抜け、すっかり暖かくなった2月の最終盤。春めいた陽射しに照らされて冠雪輝く南アルプスの山々。今日はその懐深くへ行ってみようと思います。

八ヶ岳山麓から南アルプスの麓を南へと下り続けると、南北に流れる釜無川に注ぐ、西から東へと広がる広大な扇状地を伴う御勅使川に行き当たります。ぐるりと西へ廻り込んで、荒涼とした砂地が広がる河原沿いの道を暫し上ると見えてくる、谷筋にびっしりと温泉と住居が集まる芦安の集落。これまで2車線だった道路が、御勅使川を渡り集落が途切れると一車線の道へと変わっていきます。山深い南アルプスの心臓部、広河原へと続く南アルプス林道のスタート地点。川筋の崖にへばりつくような細く急峻な舗装路をしばらく進み、シーズンになると南アルプス登山の方々が車をデポしていく幾つかの小さな駐車場をパスしていくと、その建物は見えてきます。

急峻な坂道にへばり付く様に建つ、モダンな平屋建ての施設。南アルプス市芦安山岳館です。

外観を観るとスマートな鉄筋コンクリート造りに見えますが、内部に入ると高い天井を支える太い木の柱と斜め方向に幾筋も張られる木の梁に目が行きます。本来、建築には向かないとされてきた落葉松を集成材としてふんだんに利用した木造建築に、軽快なアルミフレームの上屋を被せたような構造を有するちょっと珍しい建物。

旧芦安村が建築界の巨匠、丹下健三の建築事務所に設計を委ね(丹下は健在でしたが、竣工は設計事務所を息子に譲った後。平面図は丹下健三・都市・建築設計研究所名義)、平成の大合併により南アルプス市となる僅か1か月前に開館した、旧自治体にとって失われていく地域への想いを未来へと繋げていくための記念碑として建てられた施設。

深く連なる南アルプスの稜線を屋根のモチーフに、未来への飛躍を軽快な外観デザインへと与える一方、木造建築としての温もりと外の日差しを最大限に取り込む開放感溢れる空間構成を両立させる、幕板を排し、軒先に直接届く大きな窓を設けた外観構造。近年普及が著しい北欧由来の集成材技術を大規模に活用し、捻じれが出る事から建材としての使用が難しかった、戦後の拡大造林において山梨、長野地域では植林の主体となった落葉松を敢えて主たる構造材として用いた、大型木造建築の技術見本としての役割も果たす施設。深い谷筋に僅かに開いた斜面を越えて降り注ぐ午後の陽射しがいっぱいに差し込む、高い天井を有するロビーの居心地の良さには特筆すべき点があります。

展示室の入り口に据えられた南アルプスの立体模型。

施設は企画展示も行われるスペースを含む有料展示部分と無料のスペースに分かれ、当日は企画展として写真家、アルパインクライマーの石川直樹氏の写真展が行われていました(シェルパをテーマにした作品をメインに置く珍しい展示。美術作品のため撮影は控えましたが、日が傾く中をヤクの群れを連れるシェルパの姿など、冒険家、山岳写真家としてのイメージと少し異なる作品が揃えられており、館のテーマに相応しいなと感じました)。

立体模型の周りには、南アルプスに生育する高山植物の写真と凡その生育場所をLEDで点灯表示する陰影図が用意されています。第一のテーマとなる南アルプスの自然環境、然しながら、こちらの写真以外のボード解説については、経年による日焼けによって読み難くなっていました。

第二のテーマは登山。登山をテーマにした展示は大町山岳博物館にもありますが、こちらで驚かされるのが、現在のシェルパにも当たる、「芦安の案内人」として記された方々の略歴がずらりと紹介される点。本館が南アルプスという大きな枠組みの中にあって「芦安の」というテーマを強く感じさせる展示。

その印象を更に強くするのが、地元に生きて来た方々が残した登山や山仕事の道具、記録を紹介するコーナー。

ここで非常に興味深いのが、「境界」と記したテーマボード。限界集落や林業の行き詰まりによる山林崩壊がテーマとして挙げられる現代であれば目を疑うであろう、地蔵岳の頂上にまで至る山林の利用権を争う、地域間の鋭い対立。

江戸中期、寛延三年の記録が残る、山論裁許の図。現在では北杜市となった旧武川村との激しい山論で勝ち取った権利を後世に伝え続けるために作られた絵図。公儀の指示や地元によって作られたこのような裁許図は全国各地に残されています。

地域への強い愛着、其処にはもちろん文化や産業も含まれます。山を生活の糧としてきた人々にとって重要な地位を占める事になった戦前の鉱山開発と、様々な議論が行われた中で開通した、現在の産業の柱、山岳観光を担う中核となった南アルプス林道の紹介。

本館へ通じる唯一の道でもある南アルプス林道開削の歴史、其処には観光と環境という二つのテーマを折り合う事への苦慮が今も刻まれ続けています。

南アルプス林道が注目を集め続けるのは、ルートが自然環境の宝庫であるという事と共に、その豊かで特異的な自然環境の成立が、中央構造線と糸魚川静岡構造線に挟まれた地域であるという、地理的にも極めて特異的な環境によってもたらされているという点。特異的な環境は人が住むには余りに過酷な自然災害の宝庫という皮肉もまた、もたらすことになります。谷筋から山頂に至るまで累々と連なる砂防堰堤の数々。砂防に終点はなく、人がその地に住み続ける限り、下流で集住する人々の安全を確保し続ける必要がなくならない限り、永遠と続く事になります。

コーナーの最後は本館の成立を林業面から見ていくコーナー。年輪や建築部材としての樹種説明はよく見かけますが、幼樹の模型に用材の利用部位の説明はちょっと珍しいでしょうか。

此処迄がメインの展示なのですが、その後に追加された極めて興味深い展示も。

明治37年に北岳に設置された後、浸食によって露出してしまった三等三角点を新たに置き換える地元の方々によるプロジェクト。その際に実際に山頂から降ろされた現物の三角点標柱(左)と盤石(右)。標柱は露出してしまいましたが、盤石の方は地中で守られた事により、無事に新たな三角点が設けられる事になりました。「点の記」で知られる、明治から現在に至るまで営々と続けられている地図作りの基礎となる測量点の構築と維持。GPSの普及やストリートビュー、地図データのオープン化により、測量と作図いう行為自体が軽視される風潮もありますが、全ての基礎となるのはやはり人の足で稼ぎ目で見て図る測量。明治の人々がその目的を果たす為に未踏の山々へ測量機具を担ぎ、重たい石を背負い踏破した事実と証拠。当館はその想いを伝えるに最も相応しい施設でもあります。

山への想いを詰め込んだ展示室の入り口に飾られる、山登りやアウトドア活動の基本中の基本となる、ロープワークの見本と解説冊子。本人は船舶免状を持っており、実際に操船もしていたのでロープワークは日常茶飯事だった頃もあり、懐かしいなぁと思いながら少し試していたのですが…意外と忘れていて冷や汗が(最近、釣りもしていないので尚更。練習していないと駄目ですね)。

落葉松の鮮やかな柱と梁が支える展示室の入り口から望む、芦安の谷を窓の外に映すロビー。芦安の山暮しと山仕事のシンボル、当地を発祥として全国各地で使われてきた輪かんじきの巨大なモニュメントが見えています。

エントランスを挟んで有料エリアの反対側に位置する、無料で閲覧できる図書室。本が焼けるのを防ぐため、図書室の部分には窓にカーテンが下ろされています。薄暗いスペースを鮮やかに彩る美しい落葉松の質感が、書棚へと向かうテンションを高めてくれます。

綺麗に整理されたガラス扉付きの寄贈書籍棚と、同じく寄贈書籍を含みますが、自由閲覧が可能な書棚が並ぶ、落ち着いた図書室スペース。

本図書館の書籍寄贈者を紹介するパネル。この他に秋山樹好氏からの寄贈蔵書で本館のコレクションは形成されています(開架で公開されているのは凡そ2000冊点)

登山関係者であればきっと興味深いであろう、現在まで刊行が続く山と溪谷、岳人を始め、登山雑誌の創刊号と記念号のコレクション。施設の方に声を掛けて頂ければ、実際に手に取る事も出来るようです。

私も、ちょっと気になった本を閲覧机で暫し。

蔵書は山岳関係のみならず、一般的な紀行文から探検やアルパイン物など山岳踏破に関するものの他に、山岳、植物関係の自然科学に関するもの、地域の歴史、民俗に関する書籍も収蔵されています。いずれも経年を経ている蔵書ですので、現代の登山や自然環境を学ぶための図書室ではない点に留意が必要です。

ユネスコの世界エコパークとして登録されている南アルプス地域。その心臓部となる広河原へ向かう南アルプス林道の起点に位置する本館は、近年、新たにビジターセンターとしての役割も担う事になりました。本施設では登山に関する相談や観光案内等も受け付けていますが、エコパークとしてのテーマに沿った普及活動も重視されています。

無料エリアに設置されている情報スペース。こちらでは夜叉神峠に設置されたライブカメラの映像(ホームページの方で紹介されている映像のリアルタイム版、時折、登山者の方が行き交う姿も映ります)が放映されていますが、施設の方にお願いすると、南アルプスの登山シーンへ自然環境をテーマにした解説を加えた20分ほどの映像を見せて頂けます。お時間のある方は是非。

太い落葉松集成材のブロックを継ぎ合わせた梁が目の前に飛び込んでくる、建物の奥に位置するフリースペース。囲炉裏を備え、座布団が用意されており、本来は語り部の方が地域のお話をしたり各種の対面イベントを行うために用意されたスペースなのですが、昨今の状況もあり、現在ではエコパークの広報ブースとしての役割を担っています。

エコパークの解説資料や国立公園関係など、各種公共団体が発行する小冊子類を頂く事も出来ます。

南アルプスの懐、芦安という土地に刻まれた先人たちの山への想いと記憶を、これから山を目指す人々へ永く伝え続けるために遺された、洗練された外観と落葉松の温もり溢れる木造建築の居心地の良さが同居する、ちょっとした隠れ家的なとても素敵な施設。

シーズン中は本来のビジターセンターとしての役割を果たす必要があるため、登山者の方で少し混雑するかもしれませんが、オフシーズンにゆったりと旅と登山をイメージしながらの読書などは如何でしょうか。

当館では2022年に復刻した、昭和五年に旧陸軍陸地測量部(現在の国土地理院の前身にあたる組織のひとつ)が登山者へ向けて刊行した「五万分一白根山近傍図(四色刷)」を限定で頒布しています。中部横断道の白根ICから車で30分弱と至近ですので、地図や測量にご興味のある方にも是非訪れて頂きたい施設です。

なお、南アルプス市全般の考古、歴史、民俗関係の展示は、麓にある南アルプス市の登録博物館施設「ふるさと文化伝承館 みなでん」(無料)で観る事が出来ます。

美しい水槽に輝かしい未来を描き続けた「海洋フロンティア」終焉とその先(来春に有料公開終了を迎える東海大学海洋科学博物館)2022.6.9

美しい水槽に輝かしい未来を描き続けた「海洋フロンティア」終焉とその先(来春に有料公開終了を迎える東海大学海洋科学博物館)2022.6.9

New!(2023.10.1)

カーテンが掛けられた窓口が寂しいエントランスから入る、有料公開終了後初めてとなった公開シンポジウム。ほぼ定員となった60名程の参加者が熱心に学芸員さん、教授陣の解説に耳を傾ける、水族館の「本当の裏側」魚類を少し離れて、水族館と駿河湾というフィールドを起点に学術が支える視野の広大さを改めて印象付けるシンポジウムのテーマ(第10代館長で、後に葛西臨海水族園の初代園長を務めた西源次郎先生が参加者側の席から登場、関係者と参加者へのコメントを述べられるというサプライズも)。そして、後半はお楽しみの「本物」のバックヤードツアーと閉館時間いっぱいまで「ほぼ」貸し切りというフリータイム。考古館や博物館の講演等にも足を運ぶことがありますが、何よりも参加者の皆様が多彩で闊達、そしてとにかく若くて皆さん積極的だったことが強く印象に残ります。本館の代替を果たす筈の静岡市が推進する「海洋・地球総合ミュージアム」計画が大きく揺れ動く中、西先生が本館の有料公開終了時にコメントされていた、これからの水族館のあり方。水族館から始まる多様性の入り口、その姿への関心と共感を次へと繋いでいくシンポジウムとツアー、実に楽しいひと時でした。

New!(2023.2.10) : 下記に紹介致しました東海大学海洋科学博物館の運営について、3月末の通常開館終了後、一旦お休みし、2023年度は5/4から11/3までの期間、指定の日(主に週末とその前後、夏休み期間中)に1時間当たり100名迄と人数を制限し、完全予約制で受け入れる事を発表されました。入館料は無料となりますが、下記に紹介しております2026年春にオープン予定の静岡市による「海洋・地球総合ミュージアム」計画に於ける、水族飼育受託費用として東海大学へ支払われる予算の一部が充当されるものと思われます。

なお、公開が継続されるのは1階部分のみで、当該計画の範疇外となる、海洋科学博物館2階部分(海洋科学展示)及び、隣接する自然史博物館の方は予定通り閉館となるとの事です。

New!(2023.1.2) : 残り3ヶ月となった東海大学海洋科学博物館の有料公開(一般公開)期間ですが、年初早々、以下の発表が行われ、4/1以降の開館、運営方法の検討を始められたことを公表されました。全国唯一となる海洋科学をテーマとする「海を研究する水族館(博物館)」、どのような形になるのかは現時点では公表されていませんが、下記にある新たな「海洋・地球総合ミュージアム」へ無事にバトンタッチが行われるまで、継続を願いつつ。

New!(2022.11.26) : 文末にも記載しておりますが、今回の有料公開終了の直接的な理由である、静岡市が推進する「海洋・地球総合ミュージアム」計画。6/1の東海大学による発表とタイミングを合わせる形で静岡市が開始した入札の結果、国内で数々のミュージアムや集客施設の設計、運営を手掛ける乃村工藝社を中核とするPFIが事業を請け負う事が決まりました。なお、当ミュージアムの水族飼育管理はPFIの運営の下、東海大学が担い、東海大学海洋科学博物館の施設は上記のミュージアムに対するバックヤードとなる事が、静岡市と東海大学の間で結ばれた協定で示されています。ライブラリー(図書館?)との複合となる新施設、下記の様にレイアウトプランが示されていますが、これまでと同様に海獣飼育は行わない一方、入札条件で求められた水量を遥かに上回る計画水量1800tのうち、1700tを大水槽に投じるという(現在の大水槽は600t、施設全体でも700t程)、水塊の規模で集客を目指すプラン。設計は石本建築事務所、デザインはお隣の山梨県にある山梨県立富士湧水の里水族館の設計を共同で手掛けた飯田都之麿氏。自然光を積極的に取り込む大きなガラス面とシンプルで機能的な外観に対して、曲面と温かみを持たせる木を多用した内装は相通じるコンセプトでしょうか。外洋水槽の搬入リフトや上層階からのバックヤード覗き込みにポイントを置く点には、同じ都市型水族館となる葛西臨海水族園や海遊館の影響も多分に見受けられます。当館のシンボルであるピグミーシロナガスクジラの剥製が宙を泳ぎ、オープンバックヤードや水深別に分けた駿河湾をテーマとする水槽群と深海コーナーといった、キーコンセプトは形を変えながら主に上層フロアで引き続き採用されるようです。また、現在の海洋科学博物館としての機能も、静岡市とJAMSTECの協定(清水港は地球深部探査船「ちきゅう」の母港です)に基づき、規模は縮小されますが引き継がれる模様です。

<本文此処から>

遥か昔、少し先に東京湾を見下ろす品川にある某所へ通っていた頃。関連施設紹介一覧に掲げられたその大きな水槽の写真に幾度も魅せられ、憧れていた時代がありました。後に、同じ場所に通っていた幾人かは清水の方へ移る事になりましたが、ある「嵌め事」もあり、渋々本校のあまり興味のない所属へと移る事になって以来数十年。その場所は海と空に無限の可能性を抱いていた若かりし頃の淡い憧れとして、永遠に心の中へ秘められることになる筈でした。

例年より早い梅雨入りとなった6月の初め、抱えていた仕事の締め切り前日に飛び込んできたニュース

仕事が跳ねた翌週、どうしても気になって、振替で休みにした平日の午後に訪れてみました。

全線開通なった中部横断道の南部区間を経て車を走らせる事数時間。如何にも港湾道路といった幅の広い県道沿いに並ぶ倉庫と民家や食堂等が途絶え、左手に海を望む造船所を越えると急に狭く曲がりくねる道の先に続く閑居なエリア。「三保文化ランド」という古ぼけた看板の先に見えてくるトロピカルな木々に囲まれた空虚な駐車場と、少し古びた施設が並ぶ公園のような空間。

三保半島の最突端に建つ、二つの博物館施設。東海大学海洋科学博物館と東海大学自然史博物館。正面屋外には津波実験水槽や波浪水槽が設けられていますが、当日は休止中。

角を削ぎ落した緩やかなRで構成される建物はシンプルな造形で当時としてはかなりモダンですが、曲線を強調したパラソル型の柱を持つ入場ゲートと掲げられる看板に使われている書体は如何にも1970年代の雰囲気を濃厚に残しています(受付窓口の曲面ガラスや円形にカットされた窓口の会話用スリットなども開館当時の趣そのままのようです)

最初のフロアーは「きらきら★ラグーン」と呼ばれる、熱帯の海をテーマにしたコーナー。ご覧の通り、小さな水槽が並ぶ壁や内装はかなり古ぼけており、歳月の経過を感じさせます。

入口に設けられた小さなサンゴの水槽。今では規模の大きな熱帯魚店でも見られるサイズの水槽ですが、育てられているのはサンゴ。しかしどれも美しく飼育されています。

施設全体は傷んでいるのですが、注目すべきは飼育されている魚たちとその水槽。ニセゴイシウツボがねぐらにしているこの水槽もそうですが、トリッキーな形態の水槽では頻繁に見かける、経年による外装や内部、接合部の傷みが全くない。

経年を経た水族館ですと、展示側のガラス(アクリル)面が痛んで傷だらけになっていたり全体が霞んでいたり、水槽と壁の隙間やジョイントの間が曇っていたり、苔が生えたり、海水の場合、錆びたり潮を吹いているなんて事も珍しくはありません(新装開館後僅か1年足らずだった「うみがたり」で、汽車窓水槽の縁から何カ所も潮を吹いた跡がオフブラックの壁に垂れてこびり付いているのを見て、失望した事があります)。しかしながら、この施設ではそのような箇所が全く見られず、泳いでいる魚たちも鰭の傷みは殆ど無く、色艶も美しい。水族館としての基本中の基本である「水槽」「飼育」の管理が大変行き届いていることに感銘を受けます。

学習、体験施設であることを明確に示す、手動による波浪水槽のラグーン効果実験。研究施設ならではの、こんな水槽で飼育できるのという、メスシリンダーサイズの封止水槽にガラス管で空気と餌を送り込んで飼育をするという、驚くような展示もさりげなく行われています。

なぜ入口の展示でラグーンを掲げるのか。どちらかというと民俗学であったり「廃集落」マニアの方々の方が良くご存じかもしれませんが、沖縄、西表島にある、陸路では辿り着く事の出来ない、離村した旧集落である網取地区全域を研究フィールドとして保全、管理しているのも同大学。その紹介展示の一環として設けられたテーマが「ラグーン」と言えます。

エントランスの小さな水槽群を抜けていくと、一気に天井が高くなり、一段と照明が暗くなる広いホールへと導かれていきます。

ホールの中央に聳える、幅10m、奥行き10m、水深6m、水量600tという1970年の開設当時としては破格の大型水槽であった海洋水槽(全面ガラス張り水槽では今だ国内最大。定義が難しいのですが、建屋の躯体を水槽の柱として用いないという意味かと)。

国内でも水量が2000tを越える大型水槽を備える水族館が続々と登場していますが、背面が壁に覆われている施設が殆ど。全周や部分的にですがデッキ下の底面からも水中を覗ける大型水槽は、逆に今では珍しいかもしれません。

アクリルガラスのカットモデル。僅かに薄緑色が入っているのが分かるでしょうか。厚さ15.6cmと聞くと、結構厚いかなと一瞬思いますが、世界的に見れば現在の大型水槽主流は厚さ60cmクラス。世界最厚クラスは75cmとおよそ5倍の厚みがあり、50年間の技術の進歩を実感せざるを得ません。海洋水槽を収める先程のモダンな建築外観も、海洋水槽自体の設計、建築、使用された部材もすべて、同大学の工学部の教授陣、研究に関係する企業が共同で手掛けた物。単なる水族館や海洋研究施設ではない、この博物館自体が紛れもなく、50年前の土木と建築、海洋工学研究により生み出された実践の成果なのです。

  • 建屋の設計は同大学創設にも深く関与し、同大学の理事、建設工学科主任教授を務め、特徴的なタワーとダイナミックな曲線を用いたスロープを中核としたデザインを有する各地の校舎群の設計も手掛けた、お茶の水の聖橋や日本武道館、京都タワーの設計で知られる日本のモダニズム建築先駆者、戦前の建築デザインに多大な影響を与えた分離派の中心メンバーでもあった山田守の設計事務所
  • 竣工は歿後4年を経ていますが、亡くなる直前となる最後の海外視察は当館建設の為でもあったとも伝えられています。バリアフリーという言葉がまだ軽視されていた時代から病院建築で多用した、建屋の階層を緩やかに繋ぐ長大なスロープにはっきりと面影が残ります
  • 今回同時に閉館する、お隣に建つ東海大学自然史博物館の外観デザインは、山田守の出世作でかつ終生の傑作、現在のNTT関係者にとっても逓信建築の代表とされる伝説の名建築、東京中央電信局へのオマージュです
  • 施工は後に国内最大手の水族館建築プランナー、デベロッパーへと成長する事になる大成建設です

暗くされた水槽の周囲には見学者が休憩できるようにベンチが並べられ、空いた壁のスペースにはこちらのようにリュウグウノツカイやラブカの標本、すっかり流行となったクラゲ水槽などが設けられています。

全周から水槽内を観る事が出来るメリットを生かして、「サンゴ礁」「海藻」「砂底」「岩礁」と4隅それぞれにテーマ―を設けたレイアウトを構成する水槽内部。表層を泳ぐ魚たちと異なり、底に泳ぐ魚たちは、それぞれのシーンに合わせた場所に居ついているようです。スロープを登ったデッキから望む、表層の魚たちを暫し、眺めつつ。

海洋水槽のロビーを抜けると、天井がぐっと低くなり水族館らしい圧迫感を感じさせる、本館のメイン水槽である駿河湾の魚たちをテーマにした汽車窓水槽が並ぶエリア。バブル期以前の水族館ではお馴染みの、生息環境ごとに水槽を分けて配置するレイアウトですが、50年を経て尚、丁寧に整備された水槽の中で泳ぐ美しい魚たちをじっくり見られる、素晴らしい展示部分。各水槽のガラス面大きさも、観覧性を配慮した高さよりも横幅を取るようにレイアウトされています(更に背の低いお子様向けに、手すりの付いたステップが水槽下の床面に備えてあります)。

スピードが速い魚達はスマホでは止められないので、のんびりと水槽の底でお休み中のマハタたちを。

一番奥にある水槽で絶え間なく泳ぎ続けるマイワシの群れ。現在では各地の水族館の大型水槽でその姿を楽しむ事が出来ますが、読んで字の如く、極めて弱い「鰯」マイワシの水族館での飼育、しかもこのような幅3m程の小さな水槽で群泳までも実現し、そのノウハウを各地の水族館へと広めた原点となる展示。当時のお話は、後に当館の館長、葛西臨海水族園の初代園長を歴任された西源二郎先生がコラムで語られています

水温ごとに並べられた水槽群、後半は深海の魚たちのコーナー。浅瀬から深海迄、多彩な水深を擁する駿河湾に生きる魚の姿を紹介していきます。

ちょっと寂しい水槽の中ですが、駿河湾の水槽ラストは、駿河湾、伊豆半島を代表する漁獲でもあるキンメダイが紹介されています。水族館の展示を見ていて、思わず「食べたい」と思ってしまうのは、魚食文化を育んできた日本人の、ちょっと罪な性分かもしれません。

駿河湾の水槽の反対側には当館の名物でもある、深海生物の標本がずらりと並べられたコーナー。

壮観な眺めですが、ここで忘れはいけないのが、彼らがなぜ、特異な形態と機能を持つようになったのか。同じコーナーの後半は、彼らの生き抜く進化の結晶が紹介されていきます。本館が社会教育施設である事を雄弁に物語る、実物標本を交えた大変詳しい解説の数々。じっくりと読んでいきたい内容です。

社会教育施設だからと言って、決してお堅いばかりではありません。水族館フロア最後のエリアとなる「くまのみ水族館」大変有名な映画作品のキャラクターという事もあり、お子様には大人気のコーナーで、レイアウトや内装もイメージに合わせたものですが、解説板にちょっと誇らしげに書かれた、作品の公開より遥か昔「1977年に世界で初めて繁殖に成功しました」の一文。本館のもう一つの素顔に触れてみましょう。

くまのみ水族館の隅っこにある目立たない小さな階段を上ると、一般の水族館では大変珍しい、バックヤードを窓越しに見学する事が出来ます。くまのみ水族館のすぐ上では、これから展示されるであろうクマノミ達や、魚たちの餌となるワムシを飼育している水槽を観る事が出来ます。

開館から50年を経て、補修は入っていますが、老朽化が進行していることが素人目にもはっきりと分かる、バックヤードの様子。若いスタッフの方々がこの場所を行き交い、飼育される魚達や、観覧者の目に入る水槽は大変丁寧に整備されていますが、如何せん海水を常時扱う施設。インフラはもちろん、館全体を再整備しなければ重大な支障が生じる可能性を孕んでいるのは誰の目にも明らかです。

バックヤードに掲示されている海水の取り入れ/循環システムの構成図。よーく見ると、取り入れ口が「地下海水」となっている点に気が付かれるでしょうか。

駿河湾から直接にではなく、三保半島の地底に溜まっている海水をポンプアップして水族館の海水として利用するという、海辺に立地する水族館としても大変珍しいシステム。実は設備設計上の難点を回避する苦肉の策としての採用だったようです(旧江ノ島水族館創立当初のスタッフで、金沢水族館を立ち上げ副館長を務めた後、本館の立ち上げメンバーに加わり、後に館長、海洋学部教授を務めた、鈴木克実先生のエッセイ「水族館日記」(東海大学出版部)に当時の苦心譚が語られています)。

そして、バックヤードのガラス面にささやかに掲示される、実に37種にも及ぶ繁殖の成果を称える繁殖賞の記録。本館の表にはあまり出てこない、もう一つの大切なテーマ。大学直属の学術研究拠点としての位置付け。

駿河湾の魚類を紹介する水槽群の中に1区画を設けて紹介される、当館がその事実を初めて確認したサクラダイの性転換。当時は異例とされた一方、現在では多くの魚種で事例が知られるようになった成長に伴う性転換の事例とメカニズムの解明。これも水族館による長期的な飼育、繁殖技術蓄積から見出された成果。その知見は漁獲資源の保護や養殖技術などにも応用されています。

深海魚コーナーの隣、多分、壁埋め込みの水槽であったであろう場所に飾られた標本と、最新の新種同定の報告を紹介するデジタルサイネージ。魚類の飼育を行う水族館は、動物園と異なりその生息環境である水と餌。更には飼育する生き物も自ら集めてこなければならない。そのような過程で協力関係を結ぶことになる地元漁師の方々から持ち込まれる、大学の研究船だけでなく漁船に同乗して採集される魚類の研究と同定、新種の発見は、飼育技術と共に、水族館に期待される研究施設としての重要な役割です。

そのような社会への役割をより積極的に担う博物館としての位置付けを示すのが、海洋博物館としての2階フロアーの展示群。

海洋をテーマにした展示ではお馴染みの「水圧でつぶれるカップヌードル」こちらの展示が元祖でしょうか。

大変珍しい、フォーレルとユーレの水色計や水深と光の波長、音波の関係など、1つ目のセクションは海洋工学の基礎的な内容が紹介されていくのですが、如何せん展示の老朽化が激しく(色褪せたオフホワイトの内装にブラウン管のTVモニターとアナログテープのVTRによる映像、透過照明のパネル等、1985年に開催された筑波万博のパビリオン展示レベル)、企業博物館ならともかく、現在の有料(規模相当ですが、安くはないですよ)施設としての水準かと言われると、正直に疑問を呈さざるを得ない状況でもあります。

同館のシンボルである巨大なピグミーシロナガスクジラの骨格標本とメガマウスの剥製が出迎えてくれる2つ目のセクションは自然科学のエリア。

前述のように、研究機関としての博物館を強く印象付ける「うみの研究室」実際の研究室を模して、様々な研究体験をしてもらおうという趣向のスペースで、実際に課外学習にも使われる(見学だけのようでしたが当日は滋賀県の中学校が団体で訪れていました)顕微鏡と試料なども用意されていますが、大変気に入ったのがサイドボードに飾られた展示物。遣唐使船の模型から貝合わせ、生物標本、メカニマル、マグロの缶詰に食塩、テトラポットに研究船。そして研究論文を挟んだバインダー。海をテーマにした研究テーマは文理を問わず広大で無限、そんな矜持を感じさせる展示。

自然科学としての研究をテーマにしたエリアには、他の博物館では余り見かけない、海洋調査で使用される機器類の展示紹介。そして、海洋測量ならではの音波の利用や六分儀(最近、めっきり使っていないですが、本人は船舶の免状も持っているので一応、使えます)。測量成果を立体的に表現する、駿河湾の立体模型も用意されます。

海洋学の一般から自然科学のエリアを経て、その奥には3つ目のセクション、海洋工学としてのエリアが続きます。世界最大の造船大国であった30年程前までの日本。当時は様々な技術開発が行われていました。波力発電、高速航行に必要となる低造波抵抗船体設計、超電導シップや、スーパーエコライナー。そして、こちらに写真を掲載している波力推進。

限られた国土面積の制約を越える、無限の可能性を海洋に見出していた高度成長期の日本。遠くない過去に置き去りにしてきた夢の残滓が、古びて傷んだ展示と共に今も当時の夢を語り続ける。

船舶の技術開発が高速性と多様な形態から高効率と低コストへと集約化し、日本の民間海洋開発、資源開発が縮小に次ぐ縮小を続ける中、依然として往時の夢を観続けられるのはもはや国や自治体などの公的機関だけなのかもしれません。私立大学/教育機関が所有する研究船、調査船が絶滅寸前な一方、現在でも膨大な予算と高度な技術を駆使した船舶を擁し、研究活動を続けるJAMSTEC(海洋研究開発機構)からの委託による展示スペース。

その反対側には、海に出る者にとって今でも必須な技量である「ロープワーク」を紹介するコーナー。科学技術がどんなに進歩しても、船に命を委ねるのは人間自身。自らの命を守る基礎となる技術は欠かせないものです(もちろん、釣りやキャンプ、山仕事にもばっちり応用できますよ)。

コーナーの奥の方には、海と人々の歴史が生み出してきた証となる、地図の歴史をテーマにした小展示も用意されています。

2階フロアーの前半分は海洋学の展示ですが、後半の半分は当館の名物でもある機械水族館、メクアリウム。残念ながら泳ぐメカニマルの方は展示休止中、動くメカニマルは全て稼働状態にありましたが、こちらも流石に展示の古さが否めなくなってきています。

ほんの一例だけ。

ガラスケースの中に飾られた、本来であればオープンスペースで展示されたであろう作品たち。「新しい」とキャプションが振られていますが、こちらもかなり古い物。彼らの活躍を目にすることなく、展示施設としてのメクアリウムは終焉を迎えそうです。

薄暗い照明の下で入場者がリモコン操作できるメカニマルが動く度に、ちょっと懐かしい賑やかなギヤとリンク、モーターの音が響く、時が止まってしまったかのような展示室。メクアリウムの展示としては最終盤の設置だったのでしょうか、唯一1995年という年号が付記された、メカニマルの基本動作を表現した動くオブジェ「リンク」。生き物の構造を工学的に模倣するという視点と研究は今でも価値があり、産業機器としてこれらのリンク機構が使われる部分もありますが、複雑なリンク機構は保守性と耐久性の問題もあり、何よりも海洋など極限の環境で使用するには信頼性が重視されるため、避けられる傾向にあるかと思います。

2階の展示スペース最後のエリアは所謂SDGsのコーナーとしてリニューアルされていますが、パッと見て分かるように、一般的にはあまり語られない、企業にとってのその制度の本質を突く目的で地元企業が協賛の形で設けた展示。水族館のバックヤードでも感じましたが、水族館としての根幹である飼育と展示環境は何とか維持している一方、それ以外の部分はもはや自力での展示内容更新すらままならない状況にある事が改めて伝わってくる、海洋科学館としての展示内容。その姿は、今や廃墟として囁かれる事もある、同大学が経営にも関与していた「三保文化ランド」に通じるものがあるかもしれません。

出口のスロープにひっそりと掲示されている、少し疲れた感じのある1枚のポスター。延び延びになっていた計画が漸く動き出し、2026年4月のオープンが予定される、より市街地寄りの日の出桟橋に静岡市がPFIとして整備し、JAMSTECが展示協力を行う「海洋・地球総合ミュージアム」。2022年6月1日の運営企業体への入札開始を受けての発表となった、今回の有料公開終了(実質的には「閉館」)。契約文面に示されるように、東海大学は静岡市との協定により同事業の水族飼育分野を受け持つ事が定められている一方、PFI自体の運営には参加しない模様です。

報道等ではあまり述べられていませんが、現在の水族館施設は新たなミュージアム施設のバックヤードとして開館後15年間はその役割を果たす事が明文化されており(その間はPFIからの委託手数料が維持財源となる)、本来であれば開館50周年を迎えた2020年に公表される予定であった内容。しかしながら計画の遅延により、三保地区からの撤退が囁かれる中で新たなミュージアムへの移行が開始する前に公開終了の発表を行うという、東海大学としてもかなり厳しい判断となった今回。

清水に関連施設を集積して以来、高度成長期の波に乗ったレジャーを含む総合海洋開発を目指す一大コングロマリットのキーパーソンとしての役割を果たす事を願った、建学当初から強い産業指向性を持つ私立大学の夢が、50有余年を経て駿河湾の波間へと消えゆく中で。

毎年、多くの卒業生が此処で学んだ飼育技術を携えて全国の水族館へと巣立っていく。全国の水族館の飼育を底辺から支える揺りかごとしての役割は今暫く維持されるようですが、無限の可能性を秘めたまま冷めて往く海洋開発と、未来へ向けた夢の欠片でもある、美しい水塊と魚たちの姿を50年以上に渡って守り続けた同館。一般の方々がその姿を直接見られるのは、あと8ヶ月ばかりとなります。

縄文、利水そして現代へ。扇状地を行き交う多くの方々に開かれた「博物館」を目指して(登録博物館となった南アルプス市ふるさと文化伝承館)

縄文、利水そして現代へ。扇状地を行き交う多くの方々に開かれた「博物館」を目指して(登録博物館となった南アルプス市ふるさと文化伝承館)

年頭の厳しい冷え込みが徐々に緩む1月の末。例年であれば、厳冬の只中となる諏訪湖の御神渡りや周囲の山々で雪と氷を愛でる頃合いですが、暖かさに誘われて、少し南の方に足を向けてみました。

八ヶ岳の南麓から南アルプスの裾野を釜無川沿いに降ると、山裾が迫る谷筋に拓かれた小さな水田が、徐々に段丘の下に大きく広がる稲作地帯へと変わり、道が西へ大きく回り込むと急に周囲が水田から果樹地帯となる、なだらかで広大な扇状地が広がる峡西地域。普段は南側と刷り込まれている富士山の方角が東側に移り方向感覚が乱れる中、扇状地を一気に下った先にある、平坦地の工場と住宅地の奥にひっそりと建つ、反射望遠鏡のドームが目立つ会館風の建物。

農業体験施設と宿泊併用の温泉、テニスコートやバーベキュー場に天文台迄をも併せ持つ、規模は小さいながらも多彩な複合施設となる南アルプス市ふるさと文化伝承館

縄文関係にご興味のある方であれば、特徴的な姿をモチーフとした愛らしいキャラクターによる積極的なPR活動でも知られる施設。昨年11月に博物館法に基づく博物館施設(歴史・民俗系博物館)に登録され、新たなスタートを切ることになりました(意外と知られていない事ですが、登録博物館になれる条件は大変厳しく、国立法人や民間の博物館は「類似施設」とされる一方、博物館を称する公立の施設でも登録施設はむしろ少数派とされます)。

メインとなる縄文期の出土品を収蔵展示する旧石器~縄文時代のフロアーは2階、それ以外の時代と本館のテーマとなる御勅使川流域の産業、治水をテーマとする展示と、企画展の展示フロアーは1階に分かれています。時代毎という事で、まずは2階から廻りましょうか。

2階の展示室入り口では、ご存じ、「子宝の女神 ラヴィ」がお出迎え。扉の左に掲載されているように、当館は全面撮影可能ですので、お好きな方は思う存分写真に収めてください。ラヴィの大活躍でもご承知のように、当館自体がSNSを利用したPR活動に積極的な事もあり、来館された皆様によるSNSを利用した公開、紹介も「奨励」です。

展示スペースは決して広くありませんが(床面積的には市立岡谷美術考古館の考古エリアと同じ程度ですが、部屋の形から展示スペース的にはもう少し少ない)、暖かな色調の木材を使った調度に明るい照明と、考古館では近年スタンダードになってきた、ゲージの高さを極力抑えた開放的な展示スタイルで心地よい展示空間を演出しています。中央には本館のシンボル、お宝中のお宝「重文 円錐形土偶」(鋳物師屋遺跡出土)が飾られてます。

全205点が重文指定となる鋳物師屋遺跡の出土品だけは、ガラスケースへの収蔵。世界的に紹介されるその出土品群の成果を誇らしげに語る展示解説パネルが添えられています。

鋳物師屋遺跡の出土品にはちょっと珍しい形をした土偶の頭も。土偶は往々にして人の姿やそれらに纏わせた蛇をイメージしたものが多いと思いますが、こちらの頭はサル?イノシシ?いろいろと想像が膨らみます。

あれっと思ったのは、ガラスケースの真ん中あたりに置かれた小さな土偶の頭。

この姿形は、あの「縄文のビーナス」(尖石縄文考古館に収蔵される国宝土偶)姉妹のような姿と顔立ち。八ヶ岳山中から出土した黒曜石の展示もありましたが、文化的な広がり、繋がりをストレートに教えてくれる一瞬。

前述のように、本館の展示スタイルは近年のトレンドを積極的に取り入れると同時に、出土品の解説や出土状況を示すパネルなどの掲示類も極力抑えるスタイル(出土シーンを紹介する小型のデジタルサイネージは各面に用意されています。音声、テロップ無しですが、静かな見学環境が保たれて良いと思います)。字面を追うのではなく、実物が放つイメージを素直に受け止めるという意味では好感の持てる展示ですが、何らかのガイダンスが欲しくなるのも事実。見学者が少ない場合、スタッフの方より直接解説をして頂けるので、分からない事があれば積極的にお伺いすると良いかと思います。

解説展示が少ないという事は、それだけ見学者にも展示に対する理解力が試されるという意味でもあります。甲武信岳を中心に置いて山梨から長野に掛けての考古博物館で見られる、黒曜石より更に強い地域性を示す水晶を用いた鏃もさりげなく展示している点には好感が持てます。

そして、SNSを積極活用したライトで、ややもすれば「お気軽」イメージも受ける館のスタイルの根底にしっかりと息づく「博物館施設」としての矜持を示す小さな、小さな展示物、圧痕法(レプリカ法)による豆類が埋め込まれていた事を示すサンプル。奥にちらっと見えている「タイの骨」と共に、本館が来館者の方々に伝えたいと願うコンセプトが滲み出ます。

そのような印象を更に強く受ける、1階展示室の内容。

最近の博物館展示メソッドに則った、ブラックアウトされた展示台と解説ボード、天井から吊り下げられた、エリアごとの展示内容やコンセプトを示すバナー。解説ボードの文章を極力減らし、ケース内に飾られる展示物も極力減らす一方、「本物」を魅せる事で、見学者へ訴えかける事を狙ったスタイルで纏められています。

限られた時間で効率よく説明、見学を進めるためには必要となる展示メソッド。その一方で、どうしても展示内容が表層的となり、美しいグラフィックを添えた解説は大変分かり易く纏められていますが、その先の「一歩」へ進む事が逆に難しくなってしまうのではないかと、考えてしまう時もあります。

こちらの甲斐源氏発祥の物語と共に中世の牧から伸長する武士の姿も、中央との交流を積極的に捉える最直近の中世史ブームの中でもっと取り上げられても良いテーマなのですが、展示内容だけでは捉えにくいところもあるかもしれません(当の本人は、ご紹介頂いた無料の解説資料も頂いて来ておりますが…楽しいです)

シンプルで端的に把握させる展示コンセプトと、実際に展示を手掛けられる館の方々の想いが展示の中にまで微妙に交錯するのが、大変珍しいコンセプトを掲げられたテーマとなる「水との闘い」。

武田信玄の治水から始まり、現在も南アルプスの頂上へと向かって延々と砂防堰堤が築かれ続けている、釜無川(富士川)水系の治水。度々、激しい洪水をもたらす南アルプスの峰々から流れ込む急流は、豊かな稲作の実りと花崗岩の砂礫層が産むミネラルに溢れる美味しい水を与えてくれますが、同時に生まれる扇状地の上には、水利に恵まれない不毛の大地が茫洋として広がることになります。その昔「原七郷は月夜でも焼ける」と称されたほどの旱魃が打ち続いた、砂礫地が広がる貧しい土地。明治という時代を席巻した甲州商人を生む素地となった、長男しか家を持てなかった厳しい環境と乏しい産品、一国天領という特異な環境の中で培われた、山国の足りない産品を縦横に運び、太平洋、そして江戸表とも繋いだ逞しい交易の姿と商魂を今も濃厚に受け継ぐ甲州人の気風。本館の展示を見ていくと、それらすべてを集約したような姿が釜無川の西岸、御勅使川沿いに広がる扇状地の上に認めらえることに気付かされるはずです。

治水と利水。正反対にも思える二つのテーマですが、どちらも人が自然を制し水の利を得るという表裏一体としての事。その土木技術も双方で強い関連性を有します。本館の特徴的な展示となる、扇状地の利水と治水に関する一群の展示。然しながら、現代の博物館展示メソッドでその全てを語るには、大きなスペースと精巧な模型やVR等の視覚効果を添える事が求められる一方、実現には本館の規模と館の大切なコンセプトである「無料施設」という趣旨からは逸脱してしまう。それでも、全国的にも知られた治水/灌漑施設を地元の方々を始め、多くの方々に伝えるための情報を掲げなければという想いが、シンプルを旨とする展示メソッドと相容れない形で、建物の柱やボード、展示台下にまでびっしりと解説文章を掲示する事になってしまったようです。

掲示されている内容の詳細は、館で販売されている解説資料、治水の「堤の原風景」と利水の「徳嶋堰」に纏められて掲載されています。どちらも大変よくできていますが、特に「堤の原風景」は、現在も続く釜無川流域における総合的な治水関係の歴史関係資料として大変貴重なものです。入館料が無料だから代わりにという訳ではありませんが、ご興味のある方は、是非お買い求めを。

昨年度に開催された「徳嶋堰」企画展示の際に新たに地元で見つけられた、甲府城に納められたとされる幕末の嘉永五年の銘が彫られた測量機具。幕府の御用時計師による製作であることが分かっており、由緒書きや同じ箱に納められた御用旗から徳嶋堰の修復工事で使われた事が判明しています。一式揃いで残る、大変貴重であった当時最新の測量道具。天領であった甲斐にとって、如何に徳嶋堰が重要であったかが分かる史料です。

そして、円柱を取り囲むようにスプリンクラーの首を並べるユニークな展示スタイルを採る果樹産業の発展を紹介するコーナーと、フロアの1/3程を占める、博物館登録記念テーマ展「藍と綿が奏でる にしごおりの暮らし」

山国でもある甲斐で藍とは如何にという疑問が生じる中で見始めた展示ですが、その狙いは「養蚕業発展以前の扇状地の姿」を辿る事。昨年来、漸くとなる中部横断道の南部区間全通がニュースで度々取り上げられていますが、駿河湾を起点に山国の甲斐、そして甲州街道を伝って諏訪を越え、塩尻峠に至るまでのエリアに於いて、そのルート沿いには食文化含めて多くの繋がりが認められます。川運の陸揚げ地となる鰍沢を起点に内陸へと延びていく陸路のうち最も西側で、信州までの距離が短く取れる釜無川の西側を北上するルート上に位置するこの場所は、交易の中継点である一方、前述のように水の便には恵まれない土地柄。幕末の開港以降、急激に発展を遂げた製糸業を支える後背地としての養蚕と、蚕の餌となる桑の栽培に取って代わられる前の姿を辿っていくと、当地では綿の栽培とそれに付随する広範な藍の買い付けとその加工、染色が盛んにおこなわれていた事が分かってきます。

今回の展示では、当地に今も在住されれる、当時の藍屋(問屋と加工の双方を担う)の方が受け継いできた史料をベースに染色産業の移り変わりと当地の姿、そして現代に蘇る藍による染色の紹介を行っていきます。

実際の染色の過程や何故、藍色に染まるのかという化学的な解説と共に展示される、地中に埋められて使われた藍甕。壁面にびっしりとこびり付いたアルカリ化の過程で使われる石灰や焼き灰と共に甕の底に今もしっかりと残る、鮮やかな藍の色。館の方に教えて頂いたのですが、先年、当地で60年前に染められた鯉幟が館に持ち込まれた際に殆ど褪色してなかったと述べられていました(更にはその染色を行った方のご子息が、市内で唯一残る染物屋を今も営んでいらっしゃるそうです)。藍屋が信仰したとする愛染明王(読みに関わるこじ付けなのですが、それもまた楽しい)の札や掛け軸など、当時の様子を窺わせる史料と共に掲示された解説資料に述べられる、残された帳簿にも垣間見えるその後の安いインド産インディゴの導入と、後にジーズンでも使われることになる、BASFが開発した合成インディゴへの置き換えによる衰微、綿から桑畑への急激な転換。

本展で展示される資料の殆どは個人蔵であり、館が所蔵する品は民俗資料に僅かに含まれるだけです。すぐお隣の北杜市郷土資料館の展示でも気になっていた事ですが、全国に数多ある公立の博物館類似施設に於いて、スペースや保管環境、学芸員の皆様の負担などから寄贈史料の保管、管理に苦労されていることが近年伝えられるようになってきましたが、実際の展示を見ていると、考古資料以外、意外なほど館の収蔵品が少なく、殆どが個人蔵や借用品であることに気が付きます。

この度、当館は登録博物館施設となった訳ですが、登録にはメリットがないと称される一方で登録までに過大な負担を強いられる(本館でも2~3年ほどの準備期間を要したとの事です)とも伝えられる中で、寄贈や収蔵に対する税制的な負担軽減策が設けられていることが知られています。本館に於いても、今後、地域の貴重な歴史史料の収蔵に於いて、登録博物館である事のメリットが見出されてくるのかもしれません(お隣の韮崎市及び北杜市の考古資料館、郷土資料館はいずれも登録施設ではありません。流石に尖石は登録博物館ですが、井戸尻も同様です)。

そのような想いを強く抱いたのが、今回の博物館施設登録に当たっての下地作りの一環となったであろう、地域の皆様と協力して地域の歴史、文化、産業の姿を掘り起こして集めていこうというキャンペーンと、その成果物として纏められた広報誌「〇博ししし」。調査の過程で見出されたのでしょうか、本館のコンセプトを明快に示す「御勅使川の扇状地に生きる!」という言葉に従い、前述のようにスプリンクラーや果樹栽培、そして藍染めの展示など、扇状地と利水というこの土地、風土が育んできた姿を捉える施設としての本館の位置付け。

今回の藍染め展示に関しても、市内に唯一残った染物屋さんの協力を得ながら、地元の方々と一緒になった藍染めの復活、工芸としての制作(ミュージアムショップの後ろに吊るされた暖簾も、その際に作られたものと)という、一連の活動の先に近世、近代史として捉えていくというコンセプトが伺えます(この部分に関しては、館の方に展示の解説をして頂いて初めて気が付けた点も多々ありました、感謝致します)。

そのような地域の方々との連携による展示を目指す姿の更に下地にある、本館が長年継続してきた「無料展示」という趣旨。ややもすれば「ヘルスセンター」に付属された娯楽施設、地元の物産を紹介するロビー展示に陥ってしまう可能性すらある施設規模、配置の中で、敢えて登録博物館という選択を行った意義。

縄文ファンの方々にとっては、緩くも高いクオリティを維持した「聖地」の一つであり続けて欲しいという願い。付属の温泉施設やテニスコートにお越しの方々にとっては、ミュージアムグッズ選び(手軽に買える地元工芸家の方によるアクセサリー作品などもあります)も楽しめる、お散歩感覚の先に本格的な展示も見る事が出来る、気軽な立ち寄り先として。そして、地元の皆様にとっては「博物館」という新たな求心力を得たコミュニティステーションとして(土木や地理学の皆様にとっては、正に「穴場」ですよ)。

展示以外にも「ロタコ」(旧陸軍の秘密飛行場跡)の発掘調査など、考古調査を基盤とした研究に基づく長い歴史を有する土地にが抱く大変興味深いテーマが沢山潜んでいる、扇状地に刻まれた記憶を伝える中核施設としてのふるさと文化伝承館。

今後も無料開館の意義を示し続けられる意欲的な情報発信と、地域の皆様と共に積み重ねられた成果を示す展示を続けて頂けることを願って。

今月の読本「絶滅魚クニマスの発見」(中坊徹次 新潮選書)生態と社会から見据える、人が消滅させ人が伝えた魚が現れた意味。未来は再び人の手に

今月の読本「絶滅魚クニマスの発見」(中坊徹次 新潮選書)生態と社会から見据える、人が消滅させ人が伝えた魚が現れた意味。未来は再び人の手に

New(2021.6.9)時事通信のサイトに本書の著者、中坊徹次先生のインタビューが掲載されました。「卒論」と評された本書、TV等でこれまで取り上げられてきた内容とはかなり異なる印象を与える、同定に携わったご本人による総括となる一冊。お手に取られた方はどんな思いを受け取られたでしょうか。

New(2021.5.9) 本書の版元である新潮社のWebサイト「デイリー新潮」で本書の紹介記事が掲載されています。田沢湖の「クニマス未来館」提供による、人工繁殖させた初めての「成体」映像もご覧いただけます

センセーショナルな発表から10年余り。

当時、その発見者としてもてはやされた、魚と魚食の普及活動に献身的に携わられている方の次に紹介をされていた一人の研究者。

その魚を同定した人物として、あらゆる場面、媒体で紹介され、発見の意義と未来を語られていましたが、一般の方々に向けてその業績が纏まった形で紹介されることは、これまでありませんでした。

田沢湖と西湖、二つのゆかりのある場所に小さいながらも記念館が建てられ、山梨県では人工繁殖も始まったことで当時の熱気も随分と褪めてきたこのタイミングに、ちょっと意外な形で登場した一冊の本。

絶滅魚クニマスの発見

今回は「絶滅魚クニマスの発見」(中坊徹次 新潮選書)をご紹介します。

著者は魚類、釣りが好きな方にとっては、きっと馴染みの深い方。日本の魚類分類学に於ける第一人者である京都大学の中坊先生(現在は名誉教授)。その業績は、本邦最大の網羅的な魚類総覧であり、日本の魚類学、分類学の金字塔である「日本産魚類検索 全種の同定 第3版」(東海大学出版部、2021年4月現在サイト再構築中につき本書のリンクは失われています)の編者、著者として、当該分野では広く知られる人物です。また特定の研究分野に留まることの多い自然科学系の研究者の方としては異例の、漁業関係者からフィールドワークを専門とされる写真家、イラストレーター、更には釣り関係者等、魚を扱う幅広い関係者からの魚種の同定に関する相談を受ける一方、逆に研究対象としての標本捕獲を彼らに依頼し、同定を請け負うという、フィールドの博物学者とも近しい活動をされている方です。

実際にはもっと嬉々として取り掛かるといった、双方にフランクな関係のようです。この辺りの事情を快活に語る、写真家でもある元釣りサンデー社社長/編集長が綴った大著「遊遊さかな事典」(小西英人 KADOKAWA/エンターブレイン)もご覧ください。同氏が編者を務めた、釣り関係者なら誰もが一冊所有したいと考える一大釣魚写真集、私も学生時代に無理して買った際の感動が忘れられない「さかな大図鑑」(釣りサンデー/現在は「釣り人のための遊遊さかな大図鑑」( KADOKAWA/エンターブレイン))では中坊先生が監修も務められています。

今回の「発見」自体が、前述のように自らのクニマス研究に関連した実物資料(冬場にヒメマス…)を持ってくるよう依頼(強要?)したという無茶振りから始まった物語。発見に至るストーリーも、報道等で述べられるお話とはだいぶ異なっていた事を繰り返し本文中で語られていきます。

センセーショナルに持て囃された「再発見」というスポットライトの当てられ方と「同定」された事実、その事実に至るまでの段階を踏んだ経緯。クニマス自体が何故西湖だけで生息できたのか、そもそも何故、田沢湖で絶滅しなければならなかったのか。

その取り上げられ方と、自然科学研究者としての認識に大きな齟齬と違和感を持たれ続けた著者が、この機に際して明らかに系統違いとも思える、ビジネス系叢書のラインナップとして上梓された一冊。

魚類分類学者としては広く認知されている著者ですが(その例示として、編著に「陛下も著述された」と枕が打たれる事もあります)、そもそもは海水魚の分類(投げ釣りのお友達、ネズッポ/ネズミゴチ)が専門。比較的一般の方々にも知られている例ではアオギスの同定や、近年では本書にも紹介されるメバル複合種群(アカメバル/クロメバル/シロメバル)の種確定について紹介されることが多い著者にとって、淡水魚は本来専門外。淡水魚、特にマス類の分類に関しては極めて精緻な議論がなされる一方、近代の日本に博物学がもたらされて以降、百家争鳴で常に混沌とした状況から脱しえないという嫌いが強い中での発表。

現行の議論や分類にご興味のある方は「改定新版 サケマス・イワナが分かる本」(井田齊,奥山文弥 山と溪谷社)、過去の経緯と複雑化してしまった背景にご興味のある方は「ヤマメとイワナ」(今西錦司 平凡社ライブラリー)もどうぞ。

更には容易に交雑すると考えられるヒメマスが放流されている西湖での発見、移入先での生存という、水系毎のち密な亜種分類を重んじる淡水魚の研究内容としては看過できないとも思われる前提条件に対する、最先端の手法を交えた分類学に基づく学術的な同定に対する見解の提示と今日の広く同意を得るまでの過程。それらの過程に対する苦衷の思いが文中に滲み出る本書。

  • 第一部 どのような魚か
    • 第1章 発見への道のり
    • 第2章 西湖のクロマスはクニマスか
    • 第3章 伝説から科学へ
    • 第4章 原型としてのヒメマス
    • 第5章 田沢湖でクニマスになる
    • 第6章 種の輪郭
    • 第7章 記録の検証
  • 第二部 絶滅と復活
    • 第8章 消えゆくクニマス
    • 第9章 田沢湖の昔
    • 第10章 漁業組合の結成と終焉
    • 第11章 見えない魚の行方
    • 第12章 発見から保全へ
    • 第13章 保全と里帰りのための研究
    • 第14章 里帰り-現在から未来へ

目次の紹介を致しますが、本書は前述のような魚類分類学としてのテーマを掲げたクニマスの同定と種としての特性を論じる部分と、著者の専門分野からは大分離れた、江戸時代の歴史/民俗から語り始める、田沢湖での漁業から玉川の酸性水導入による死滅、現在の里帰りに向けた取り組みを語る部分で大きく分かれていきます。

全300頁の本文と横書きの参考文献が15頁という、一般向けの人文書が手掛ける一つの魚種発見物語としてはボリュームのある本書。著者の研究テーマを少し離れて現地を訪れての資料探訪や聞き取り、田沢湖でのシンポジウムに至るまでの話を織り込むルポルタージュとして、少し肩の力を抜いた形で綴られる後半部分。一方で、同定までの過程や種としての分類の解釈、更には域外保全となっているクニマスの現状を語る際の極めて慎重で要所に各方面への配慮を入れていく前半と終盤の筆致。

研究者の方故にやや生真面目な文体(人文系読者に向けた本書で、山立ての意味を二線交差法という言葉で説明に添えてしまう)ながらも平易に綴られていますが、近世近代の社会学と魚類分類学、淡水の環境保全という、同じフィールドを扱うも全く異なるアプローチが求められる内容が同居する一冊。相互の内容を同時に読みこなすためには相応の前提知識、理解を持つことを読者に求めていきます。

魚類学や分類学、保全生態学といった自然科学の学術分野に偏った視点ではなく、歴史上の経緯を含めて広く近代の日本が歩んできた道程の中での「発見」であった事実を伝える事を願って止まない著者の想いに応えられる、新書に比べると多少なりとも長い期間、書棚に置かれ、後に専門系文庫への収蔵も視野に入り得る、総合叢書のテーマとして取り上げられた一冊。

何れも本来は海から遡上し、川で繁殖を行う脂鰭を持った一族の中でも、陸封されることもあるベニザケに連なる一連の魚種。産卵期には川を赤く染める程に群れが集まり、陸封された場合でも主に川の上流部や浅瀬に於いて集団で産卵する彼らの中で、日本一深い田沢湖にヒメマスと交わらずに生息し、湖の湖底部で産卵し、群れを成さなず、更には周年産卵性の傾向を示す、往時の人々が残した生体の記録に興味を抱いた著者の好奇心から始まったクニマス「発見」に至るストーリー。ダーウィンの言葉を借りながら同定までの苦労を重ねる部分は、博物学や分類学に興味のある方であれば、大変勉強になる内容かと思います。

ご興味の薄い方には、この部分はちょっと辛いかもしれません。新種発見と登録へのアプローチや分類学がなぜ必要なのか、ご興味のある方は「新種の発見」(岡西政典 中公新書)もご覧ください。

新種発見では当然となる学術誌での掲載(=新種発見)と実作業のタイムラグが生じさせる周囲のジレンマ、実際の発表から取り上げる側(主にマスコミと受け取る我々)の認識との大きな齟齬に悩まされる、分類学者としての著者の心象は、他の自然科学系の研究者の方が著される本でも多く述べられるところです。

むしろ本書で着目すべき点は、著者によるそれらの心象や配慮が、同業者である魚類、自然科学全般の研究者や漁獲を担う内水面漁業関係者へと向けられる点。

特に淡水魚関係の話題については外来魚駆除や特定の亜種に対する生息域の保全などについて、極めて辛辣かつ直情的な意見が語られることが少なくありません。そのような状況を憂慮されての事でしょうか、著者は本文中で繰り返し、衝動的な見解が呈されることに懸念を示し、特に放流された魚類による職漁・遊漁によって生活の基盤を成している現在の生息域、その周辺の内水面漁業者に対して、数値的な根拠を示した上で、現状を是認する強い配慮の念を示します。前述のように研究に当たって釣魚関係者との深い繋がりもある著者は、決して人間の実生活から切り離された形での保全という姿を良しとする訳ではなく、終盤で述べられるように、人の暮らしの傍にある漁獲としてのクニマスを再び食せる時が来ることを願います。但し、西湖と同じ時期に放流が行われ、山梨県による継続的な調査の結果、ヒメマスとの明確な交雑が生じていることが明らかとなった、お隣の精進湖での事例を示して、西湖における交雑種の輸入を絶対阻止しなければならないと、強い口調で述べられています。

本書を読んでいて知りたかった点、容易に交雑するはずの二つの種が何故西湖では交雑しなかったのか、その理由も述べられています。同じように交雑が起きうる生息環境における種の分化が維持される理由を系統的に研究されていた、今回の「発見」発表に当たって的確なアドバイスを受けたことに対して著者が謝辞を述べられている、元滋賀県立水産試験場長、藤岡康弘氏の「川と湖の回遊魚 ビワマスの謎を探る」(サンライズ出版)も併せてご紹介しておきます。

やや硬めに慎重に記される中で、著者と関係者との間で交わされるちょっとしたやり取りの姿に少しホッとする前半。秋田新幹線「こまち」の車窓からはじまる後半は、そんな著者の人となりが現れる、近世、近代史の中を歩んだクニマスの姿が綴られていきます。

著者にとって門外漢とも取られる、近代史に於ける社会学的なアプローチとなる、仙北地域の農業近代化、もう少し踏み込んで言えば近代に於ける、中央が主導した東北地方開発の歴史的推移をそのまま投影する、電源開発と連動した用水の再生、圃場開発と、その中に組み入れられた、豊富な水量を誇る一方、貧栄養湖としての田沢湖の位置付け。江戸時代まで遡って、周囲の水系で獲られ、遡上していた魚種の豊かさに言及する一方、戦前のヒメマスの放流事業に挫折した先で、特産であったクニマスの採卵事業が途に就き始めた田沢湖の漁業、特に漁業関連の史料を多数残された、当地の漁業に関して主導的な立場にあった三浦家の文書を辿りながら、現在のご当主の方との語らいの中から、今は失われたその断片に残る魚種としてのクニマスの姿、往年の田沢湖の姿に、自然科学研究者としての視点を添えて想いを馳せていきます。

国策として行われた、温泉由来の強酸性となる玉川の導水と中和対策の失敗による湖の酸性化。ウグイ以外殆どの魚種が死滅した田沢湖の実情については良く知られている所かと思いますが、あきたこまちの圃場が広がる仙北地域の姿を冒頭で示す著者は、前述の筆致に見られるように、失敗の経緯とその内実、現在も続けられている中和事業に言及するも、一方的にその行為を断罪する事はありません。むしろ、その過程で起きていた、クニマスの採卵事業の推移と、実際に発眼卵として各地に送られたクニマスが、偶然を乗り越えて種の保存に至った事実に視点を据えていきます。

終盤で述べられるレッドリストの絶滅種(EX)から、明らかにクニマスの発見を踏まえて環境省が規定を書き換えた、域外生息として規定された、野生絶滅(EW)への指定替えにについて、その経緯に科学者としての違和感を述べながらも、結果として規定を書き換える下地作りとなった、各地で行われたシンポジウム(この際の様子や、新種の発見とその手順を大変重んじる分類学者としては異例の手段となる、行政と連携した学術論文掲載を待たない発表など、従来からの著者の活動を象徴する内容も綴られていきます)の開催。その根底には広く魚類、淡水に携わる関係者への事前の周知を狙った配慮の事実があった事を述べていきます。魚類分類学の第一人者としての矜持と共に、京都大学総合博物館の館長を務めた経験を有する自然科学、博物学の普及を担う立場として、その社会性すらも配慮する事を願う著者。

田沢湖周辺に所縁のある方を始め多くの関係者が望んでいるであろう、里帰りとなる田沢湖での再放流、自然繁殖。更には種の保存と環境という保全生態学に踏み込んだ内容についても巻末で述べていきますが、そのいずれも決して平たんな道のりではない事を示していきます。

西湖での「発見」から10年が過ぎ、過熱していた往時の状況が落ち着きを取り戻し、やや風化すら見られる昨今の状況。両立のためには膨大な資金を半永久的に投じ続ける必要のある田沢湖の中和事業、公費を投じての当地にとって漁獲資源にならない魚種の研究と職漁・遊漁との両立という、意図せず域外保全の場となってしまった西湖に於ける関係者が抱える矛盾。その中で保全活動を継続的に推進し、何時か再び、「職漁」を通した田沢湖を泳ぐクニマスたちの生きる姿を願う著者の想い。

その思いは、著者も展示設計に意を尽くした、田沢湖、そして現在の生息地である西湖の湖畔に建てられた小さな記念館(博物館)の展示内容と、当地に揃えられた図録の中に込められているようです。

外出がままならない中ではありますが、著者がその行動で示すように、何時か訪れた際には、現地である湖畔に立って、展示の内容を見て、改めて考えてみたいと思います。人の手で葬る事となりながらも、人の手によって偶然を乗り越えて再び世に出る事となった魚が背負った象徴的な意義、未来へ向けて。

2021.5.2 西湖にある、奇跡の魚 クニマス展示館にて(山梨県立西湖ネイチャーセンター付属施設、富士河口湖町が運営)。入館は無料です。

城と学校、軍都と商都。博物が結ぶ複雑な遍歴を重ねた学都のポータル、次の時代へ(今月で閉館する松本市立博物館)

城と学校、軍都と商都。博物が結ぶ複雑な遍歴を重ねた学都のポータル、次の時代へ(今月で閉館する松本市立博物館)

ご案内

表題のように、松本市立博物館(旧日本民俗資料館)は施設老朽化に伴い、2021年3月末を以て、閉館となります。新し博物館は現在の二の丸から大手門へ移転、より市内の各博物館施設へのエントランスを担うギャラリーとしての位置付けを強くする施設へと生まれ変わる予定です。オープンは2023年10月7日が予定されています。この改築事業に連動して、松本市内の一部施設は並行して長期休館に入ります。お越しの方は充分にご注意願います。

    • 松本市立博物館 : 2021年4月1日から2023年10月6日まで
    • 松本市立美術館 : 2021年4月1日からおよそ1年間
    • 国宝 旧開智学校 : 2021年6月からおよそ3年の予定

全国47を数える都道府県の中でも、極めて珍しい、県庁所在地以外に設置された国立総合大学で、その地名すらも名乗らない「信州大学」を擁する松本。旧制松本高校の伝統を受け継ぎ、県都である長野を向こうに回す「学都」を称する城下町ですが、意外な事に、その歴史は中世後半以前には繋がらず、忽然と現れて発展を遂げてきた、特異な歴史を有しています。

今でも周囲の街並みの中からその威容を望む事が出来る、北アルプスを遠望する平坦地に聳える松本城。日本最古級の現存天守とされています。

松本城に向かい合うような場所に建てられた、シンプルな近代様式のコンクリート造り低層建物。松本城、城下町松本の紹介施設としての役割も果たす、松本市立博物館です。

その前身は1906年に遡るとされる、非常に古い歴史を有する博物館。実は、この3月末を以て閉館、2年半後には新たに大手門前に建設される、市内に点在する博物館施設へのエントランスとしての役割を果たす、新しい博物館へ移ることになっています。

これまで幾度も松本には訪れていますが、周辺渋滞の激しさからお城近くには訪れた事が無く、松本城公園も今回初めての訪問。閉館までラスト2週間を切った週末の土曜日、月内は関連施設含め無料開放となった最後の機会に訪問となりました。

地下1階、地上2階に小分けされた展示スペース。平面スペースをたっぷりと取り、ビジュアルを重視した現代の博物館と比較すると、古風で少し不思議な展示内容となるフロア。前述のように中世後半以前の歴史的背景が極めて希薄な人工都市、松本。考古学関係は郊外にある考古博物館が担っている事もあり、地下階の展示と解説は極めて簡素です。

地上階の展示室中央に置かれた、明治44年に作られたという、大変古い歴史を有する松本城下町模型。大きく4つに分かれる展示フロアの中でメインとして飾られる展示物ですが、新たな博物館には最新の松本の姿を映すジオラマが入り口に設けられる予定になっており、常設での展示はこれが最後となってしまうようです。

近世史にご興味のある方の中では大きな話題となった、地方の小領地である松本で実際に行われた、当時の法定通貨である「寛永通宝」鋳銭の証明となる文書と発掘された実物。収蔵時期が古い展示物が多いのですが、こちらのように最新の知見も展示に反映されています。

こちらもお好きな方には興味深いと思われる、江戸時代のロケット「棒火矢」の実験成功を祝して奉納した絵馬。前述の寛永通宝と共に、商都であり、城下町である軍都であった松本の歴史を伝えています。

後半の展示室は、明治以降の近代。

全体の展示フロアは比較的広い松本市立博物館ですが、その展示内容は一見、不思議な感触を受けます。

松本城の二の丸に位置するため、松本城の歴史や当時の武家、商家の暮らしぶり全般を伝える展示は当然というイメージもありますが、近代に入るとピンポイントな展示が目立ちます。

当時の松本の政治、文化を担った人物の顕彰と陸軍の連隊が置かれた事により多くの若者が戦場へと出征する拠点であったことを示す、戦前の旧陸軍の駐屯、大陸への出兵に関する史料、そして上高地や博物学に関する僅かな展示。

上高地を擁する岳都でもある松本ですが、そのような姿はあまり語られることはなく、近代をもテーマに含む博物館としてはアンバランスな印象を受ける展示。

そのような印象を更に強くする展示は、常設展示フロアの1/4を占める、本館の由来を伝えるある展示に印象付けられます。

フロアの中央に置かれた、あめ市に使われた巨大な宝船。

展示のラストを占める部分、市立の総合博物館としては特徴的な、民俗に注力した専用展示フロア。

ひな祭り、七夕、そして道祖神。

江戸時代には道祖神は松本の街中には一体もなく、その名の通り、境界を分ける神として道沿いに置かれた物。その代わりとして、市街の家々には木像が置かれた事が示されています。人々が集住する商都としての信仰と、土地と人々が固定的な周辺村落のそれは大きく異なる事を暗示しています。

商都と村落の文化の違いは工芸からも見る事が出来ます。華やかな街中の文化を伝える松本てまりと、街からの依頼で商品として作られた、農間作業の現金収入としてのみすず細工、お神酒の口。相互に依存する関係の中から松本平の文化がそれぞれに育まれてきたことが分かります。

重要有形民俗文化財にも指定されたこれらの民俗学的資料の収集、研究は松本市立博物館の特徴として語られますが、民芸と共に民俗学的な研究にも深い造詣を持つ松本の町。館の来歴にもその影響が強く残されており、本館が竣工した1968年から2005年までは市立博物館ではなく「日本民俗資料館」と称されていました(施設は古風に見えますが、展示内容が絞り込まれたイメージを持つのは、2005年に再度改名された際に現在の展示メソッドと後述する指針になるべく沿わせる意図もあったのではと)。

今回の閉館に当たっての特別展示では、それらの経緯を示す内容が取り上げられていました。昨年からシリーズで開催されていた、閉館記念の「収蔵資料大公開展」最終の展示テーマは「年中行事」

松本の年中行事を示すチャート。

其処には、街中の行事と農村で行われる行事の双方が示されてます。

年初、街中で行われる、松本を代表するお祭りである「あめ市」と、村落を代表する「三九郎」現在はだいぶ異なってきているようですが、以前は三九郎は街中では行われなかったとの事。農耕儀礼の一環であったことを教えてくれます。

華やかですが、素朴な押絵雛

豪華でち密な節句飾りの豆雛とこいのぼり。

七夕の縁台の再現。

旧館名の伝統を受け継ぐ本館を代表する収蔵物。国指定の有形民俗文化財としては最初期の指定となる、松本の七夕人形も、解説と共に惜しげもなく並べられました。

鮮やかに着飾った人形に目を向けがちな松本の七夕人形ですが、その根底にある民間信仰としての七夕。少しグロテスクにも思える「カータリ」には、その姿が強く残されています。

民俗資料の収集は松本平を離れて、海沿いへも。

新潟のお盆。精霊流しに使われる、オショロブネ。このような形があってもすぐに失われてしまう民俗資料を積極的に収蔵し続けてきた博物館でもあります。

随分とあっさりした中世以前の歴史展示と、松本城内である事を雄弁に示す近世の展示。ピンポイントな近代史に対して、大変充実した展示/収蔵を誇る民俗資料。

この不思議なバランスを示す経緯を辿る展示が、最後の企画展としてロビーで行われています。松本市が標榜する「松本まるごと博物館」そのテーマを支える、市民学芸員有志の皆様による年表展示。

考古学から化石に自然科学。民俗に古民家、農作業道具に民芸、近現代美術、更には近世・近代産業、建築に法制史まで。市域の拡張に伴い、城下町としての文化と周辺村落の文化、自然科学的な部分までも包括する市内に15カ所ある、博物館相当施設を拠点に、市内全域を「博物館」として見做すという、特徴的な施策を設けている松本市。市立博物館が2005年に名称を改める前の2000年から継続しているシステムですが、博物館自体の歴史がその施策に大きな影響を与えていることが分かります。

興味深い博物館の歴史的変遷。

その過程を示す内容、実は、すぐ近くにある旧開智学校で解説されています。

当日は、双方共に無料開放だったため、多くの方が訪れていた旧開智学校。部屋ごとにテーマを分けて展示される内容の中で、ちょっと訪れる方の少ない、静かな一室でそのテーマは語られていました。

2015年の開館110周年記念誌に示される来歴によれば、松本市立博物館は名称だけ取り上げても以下のように移り変わっており、一つの博物館としては極めて大きな変遷を遂げてきたことが分かります。

1.明治三十七、八年戦役記念館(1906~1919)

2,3.松本記念館(1919~1938~1947)移転、再設置

4.松本博物館(1947~1948)

5.松本市立博物館(1948~1968)

6.日本民俗資料館(1968~2005)現在の建物建設、寄附による財団管理

7.松本市立博物館(2005~2021)財団解散により市に再移管

8.松本市立博物館(2023~)移転予定

その発祥を示す、明治三十七、八年戦役記念館の来歴。開智学校で学び、駐屯地でもあった松本から大陸に出征した若者たちが故郷、松本に送り続けた外地での生活や軍事的な成果を伝える史料。それらを展示した施設として、博物館がスタートしたことが示されています。

そして、有名な松本城天守閣が守られた切っ掛けとなった、市川量蔵による「筑摩県博覧会」開催へと繋がる解説。博覧会という、近代日本にとっての博物学の萌芽がそのスタートにあった事を語り掛けています。

開智学校、松本城。そのいずれも、商都としての松本の民衆の力で建てられ、守られてきた場所。その延長に生み出された駐屯地となった軍都として、更には旧制松本高校の設置による若者と向学心の高い人々が集う街。それに加わる、豊かな商都としての面影と街道が交差する地で資産を集積させていった富農たち、街の豊かさに委ねた手仕事の発展から培われてきた、豊かな民俗を残す土地の姿。

博覧会から萌芽した博物学が梃となり、それらを複合的に積み重ね、集積してきた証としての博物館の姿が見えてきます。

古いものを大切にしつつも、進取の姿勢を尊び、学研的で物事を着実に推し進める(でも、時に議論倒れで終わってしまい唇を噛む事も)。信州の方々の思考が色濃く反映された、ポータルとしての「松本まるごと博物館」中核施設。

その役割は、集積し記憶を繋げていく博物館という姿から更に一歩踏み出す、地域全体の教養の入り口として広がっていく起点となる、新たに建設される中核施設(既に松本市立博物館という呼称で定まっているようですが)に譲ることになりますが、それぞれのテーマ、特に民俗資料に関してはかなり絞られた内容の展示になることが想定される新しい施設(既に概要リーフレットが公開されています、アイコンでもある宝船は残るようですね)。

展示も収蔵も、そのスタイルは時代と共に変わり続けるもの。各種の資料からも、前述の松本城天守閣を守り抜いた、市民から湧き上がる想いが新たな博物館、松本の博物学を押し支える力となり続ける事が願われています。

梅の花咲き始める、暖かな早春の午後。

新しい施設がどんな姿を見せてくれるのか。2023年秋とされる再開後、再び訪れるチャンスが巡って来る迄、じっくりとこれまでの姿を勉強してみたいと思います。