今月の読本「浪漫あふれる信州の洋館」(文:北原広子 写真:大澤敬子 他 信濃毎日新聞社)その宿されたストーリーに想いを馳せて

今月の読本「浪漫あふれる信州の洋館」(文:北原広子 写真:大澤敬子 他 信濃毎日新聞社)その宿されたストーリーに想いを馳せて

ちょっと前にご紹介した「国史大辞典を予約した人々」のページでもご紹介しましたが、素敵な一冊なので改めてご紹介です。

長野ローカル出版の雄であり、以前も「信州観光パノラマ絵図」でご紹介しました信濃毎日新聞社より最近刊行された写真集「浪漫あふれる信州の洋館」(文:北原広子、写真:大澤敬子、佐々木信一、田北圭一、山本忠男)です。

浪漫あふれる信州の洋館1基本的には長野県内に所在する、明治、大正、昭和初期までの所謂「洋館」風の建築物を紹介する写真集andショートストーリーですが、上田の旧常田館製糸場のような和風養蚕繭蔵や安曇野の碌山美術館のように落成が昭和33年と戦後にかかっている建築物もあります。

また、紹介されている建築物の一部は、各地から長野に移築された物も入っており、長野県内で移築された物も含まれますが、いずれも既に当地の風景の一部となっている建築物ばかりです。

各建築物の紹介は写真集というより、どちらかというとガイドブックの体裁に則っており、基本的にすべて同じフォーマットで、建物の種類(事業所・公共機関・教会・ホテル・別荘旧宅・学校)、所在地、見学条件、訪問用ガイドmapが付けられており、本書を読んだ後、容易に見学に赴くことが出来るように配慮されています。各ページの体裁と共に、紹介されている建築物が原則として見学可能な施設に絞られている点でも、明らかにガイドブックとしての役割を狙った編集方針である事が判ります(北野建設所有の2施設はちょっと無理ですよね)。

また、この手の写真集であれば建築物の種類、用途別に編集するスタイルの方が読者(建物がお好きな方)の嗜好にマッチしていると思うのですが、そこは長野の出版物、中信・木曽、諏訪・南信、東信、北信…とここでもしっかり「信濃の国」ルールが踏襲されているのは、県外在住者としてはちょっと、ほほえましかったりします。

すなわち、本書は貴重な建築物を記録するための写真集でも、建築ファンのための資料用でもない、表題の通り「文明開化の浪漫」をノスタルジックに楽しむためのガイドブックなのです。

その辺りの雰囲気がもっとも濃厚に表れているのが、掲載されている美しい写真に添えられている、各建築物が宿している歴史を紹介したショートストリーです。

資料性を損なわないように、控えめで正確な記録を掲載されることを心がけていらっしゃるようですが、文章のそこここに、建築に至った当時の人々への想い、ここまで生き残る事の出来た建築物への愛おしみや、保存に至る紆余曲折への眼差し、そして厳しい保存状況の建物への憂いといった、資料的な書物では禁句の数々が漏れだしてきているのが、逆に読者としては筆者の深い思いが伝わってきて嬉しく感じてしまいます。

例えば旧中込学校のストーリーの最後に添えられた一文、

—引用ここから—

(中込に生まれた市川)代治郎はこの大仕事を成すと各地を転々とし、和歌山で生涯を閉じた。残した建築物はこの校舎だけ。愛と心意気をすべてつぎ込んでしまったのかもしれない。

—引用ここまで—

建築物の紹介としてはちょっとどうかとも考えてしまいますが、当時の人々が僅かな資金を出し合って、子供たちに立派な教育を受けさせたい、それを受けた地元出身の建築家が精魂を込めて仕上げた校舎から多くの生徒が巣立ち、「教育県」と呼ばれた長野県の土壌を育み、その礎である校舎が今でも同じ場所で地元の方々に愛されて保存されている…。

美しい写真だけでも、実際に建築物の前に立っただけでも判らない、建物達が激動の文明開化から保存に至った現代までに育んできたストーリーが備わってこそ、より一層愛おしさ、保存することの大切さが伝わっていくのだと思います。

旧中込学校そして、多くの建築物が保存目的の為に博物館化、準非公開(外観のみ)となりつつある中、文化財的価値は多少低く見られても現在でも「生きている」建築物たちにも多くの項を割いている点は非常に好感が持てます。

こちらも教育県長野らしく、校舎建築が多いのですが、出色なのは今でも年間15万人が連日のように利用している、諏訪のアイコンでもある「片倉館」でしょうか。

建築の経緯も異色ですが、文化財的価値、歴史的な特異性を併せ持ち、さらには現役の「公共温泉」として維持することは大変な困難が伴うかとは思いますが、このような施設を大切にしていくことが、その街の歴史の深さ、地元を想う心意気の表れだと考えると、それらの建築物たちは「浪漫」を越えた、地元にとっての象徴ともなり得るのではないではないでしょうか。

片倉館そのような活動を街全体で行っているのが、本書で最もページ数を割いている松本に残る建築物群でしょうか。いずれも貴重な建築物で、ほかの都市であれば既に高度成長期に取り壊されてしまってしかるべき建築物も、地元の熱心な保存活動に押されて多くが残っている点では正に地元愛の成せる業ですね。

また、本書では街全体とはいかなくても、長野県内の各地で地道な保存運動の結果、残されている小さな建築物についても光を当てています。中には保存状況が劣悪になりつつある建築物も紹介されており、写真を見ていると心が痛くなる想いですが、これからも末永く保存されることを願う限りです。

このように保存に苦しまれている建築物がある一方、外装はそのままに内部をリフォームすることで新たな役割を与えられて輝きを取り戻した建築物も多数登場してきます。すべての建築物で適用できる手法でない事は当然なのですが、貴重な建築物を後世まで残していく新しい方法として前向きに取り上げられている点は好感が持てます。

これから少しずつ涼しくなり、外でのお散歩が気持ちよくなる季節。美しい自然に恵まれた信州までちょっと足を延ばして、浪漫あふれる「洋館」を眺めながら、静かに宿してきた建物達のストーリーに思いを馳せる休日というのは如何でしょうか。

<おまけ>