今月の読本「足利直義」(森茂暁 角川選書)類書を引きつつ新たな歴史描写を模索する、理想のナンバー2の思想と足跡

最近特に増えてきた室町時代の歴史関係書籍。

中でも最も多いのは、鎌倉幕府滅亡から南北朝合一までの期間を扱った本達。昨年も「南朝の真実」がスマッシュヒットしたように、(歴史ファンの皆様の間では)注目を集めている時代のようですね。そんな中でも注目を浴びるのは、やはり後醍醐天皇と楠木正成。そして、近年積極的な再評価が続けられている足利尊氏でしょうか。

今回ご紹介するのは、そんな再評価が続く足利尊氏の無二の片腕でありながらも悲劇的な最期を遂げる事となる弟、足利直義を単独で扱った一冊です。

角川選書・足利直義と類書たち足利直義」(森茂暁 角川選書)です。

著者は既に同時代に関する複数の著作を有する方であり、同レーベル(角川選書)でも既に足利義教を扱った「室町幕府崩壊」を出されています。丁寧に丁寧に段階を追った著述と、著者の感情を少し織り交ぜた親しみやすい文体は一般読者に向けて刊行される選書に相応しいのでしょうか、再びの登板となったようです。

そして、テーマとして取り上げられた足利直義。兄である尊氏の陰に隠れるように登場し、鎌倉幕府崩壊後の混乱期、鬱気質で移り気の激しい兄を叱咤激励しながらも創業期の室町幕府を必死で支える、中世期随一の名政治家(武将としては、時に鬼神の活躍を見せる兄と比べて今一歩という評価は既に固まっているようですね)としての前半生。そして観応の擾乱の一方の主役として、兄との確執と争い。最後には兄の手に掛かって落命するという悲劇の最期を遂げる末期と、波乱に富んだ人生を送った、実に興味深い人物です。

本書も、著者が文中で述べているように、これまでマイナーな扱いを受けてきたために掘り起こされることの少なかった室町期の魅力的な人物たちに光を当てようという、一連の流れの中で刊行された一冊のようです(冒頭で述べている足利直義ブームかどうかは…)。

そして、本書の特徴はこれまでの類著と異なるアプローチを目指している点です。著者は前著「室町幕府崩壊」でも本書でも、その基底には佐藤進一氏の研究成果を置いている点についてはあとがきで言及されている通りです。その上で、著者はその精緻な政治機構、組織研究とは違った視点での歴史著述を追及していきます。それは、文中でも多数の引用がなされている、黒田日出男氏の美術史としての研究成果。大きな波紋を巻き起こした、氏の国宝神護寺三像の研究および著作に大きな刺激を受けて本作を著述したと明言しており、一章を割いてその検証と見解を述べていきます。

その結果本書では、類書で見られる政治史としての鎌倉幕府崩壊から観応の擾乱迄の歴史叙述を足利直義の足跡で辿るというスタイルを踏襲する一方、詳細については冒頭に写真を掲載しました類書の典拠を記す形で省略し、人物としての足利直義の思想に踏み込んだ議論を提起しようとしていきます。多くの同時代を扱った書籍がその根拠として求める太平記の著述に頼る事を少し控えて、著者が豊富に収集した史料に見られる形式や花押の変化から読み取る直義の政治姿勢の変化。和歌に詠まれた政治姿勢の解釈(ちょっと解釈が直球すぎる感もあります)。宗教政策から見た夢中問答の読み解きと夢想疎石との確執(対峙)、そこから見つめる鎌倉幕府的な政治手法、御家人体制への強い希求心。仏国土を目指すことによる、宗教的、精神的な安寧の実現。従来から述べられてきた直義の政治的スタンスを精神性や感情から読み解こういうアプローチが随所に見受けらえます。

著者のアプローチの焦点となるのが、観応の擾乱が生じた原因の検証。類著にあるように、足利尊氏と直義の権力分掌とその制約、側近層の反目や体制に対する考え方の違いなど政治史的な記述の見解は変わりませんが、著者はそれらを上回る理由として、晩年に生まれた子息である如意王に己の権能を受け継がせたいとの「野望」を持ったと、前述の黒田日出男氏の著作を引用して述べていきます。そして、幼くして亡くなった如意王を失った喪失感が、政治家として誠実であった彼をして、政治への興味を失わせたと述べていきます。

この辺りの著述には、歴史研究者の著述を越えて、文芸の領域にすら踏み込もうとする感がありますが、如何ともしがたいのが、当該部分の傍証として、一旦は遠ざけた「太平記」の、更には最も史実から懸け離れた後半の魍魎的記述に依拠しなければならない点ではないでしょうか。著者は確信的に、如意王の生誕と喪失を主因に挙げていきますが、一方で太平記こそ、直義を政権(室町幕府)の負の側面を押し付けるスケープゴート(それ故に怨霊として祀られる)であるとも述べている点が、大きな矛盾として感じられてしまうのです。スケープゴートたる所以=それこそが観応の擾乱の主原因と繋がる、がある筈なのですが、少々腑に落ちないところではあります。そして、このような見解を述べられる書籍に付きまとう、思慮が先走る事による筆致の限界と、その記述に引っ張られるように、五月雨的に発生するバランスの崩れが本書でも見受けられます。特に、核心の部分にも拘らず、その内容をあまりにも類書の記述に依拠しているため、本書を読んだだけでは著者の想いが見えてこないという歯がゆさも、更なる追い打ちをかけるかのようです。

人物像を語る書における魅力と限界を共に見せてくれる本書。本書を読まれる前に、類書をまずはじっくり読んだ上で、著者の想いをもう一度捉えなおしてみたいと考えながらページを閉じた次第です。

<本書をお読みになるにあたって>

  • 前述のように、本書は同じ角川選書から刊行されている黒田日出男氏の「国宝神護寺三像とは何か」に多くの記述、特に人物思想面を依拠しています。私は未読なのですが、本書の記述は、当該書が既読である事がほぼ前提となっている点に充分に注意することが必要かと思います(従って、私は本書を読む前に既に「落第」です)。なお、当該書は版元の弁としても「究極の歴史推理を読む」とまで評される内容であることを予め理解する必要がありそうです
  • また、冒頭に掲載しました写真の2作品「足利尊氏と直義」(峰岸純夫 吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)および、「足利尊氏と関東」(清水克行 吉川弘文館・シリーズ人をあるく)も文中で繰り返し引用されますので、既読であることが前提となるようです(あと、佐藤進一氏の「<日本の歴史9>南北朝の動乱」(中公文庫)も)。前著は政治史的な2頭体制について、もう一冊は人物史としての足利家及び一族が背負っていた歴史背景が詳しく語られていきます「足利尊氏と関東」については、下記にてご紹介しております

<おまけ>

本書と併せて読んでいた本達と、関連書籍のご紹介。

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